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湯気のある風景

しおには朝起きて暫くベッドでぼーっとする時間がある。冬は特に起きるのに時間がかかる。3月になっても朝の寒さが厳しい。

ベッドの中で10分ほどじっとしたあとキッチンでお湯を沸かし紅茶を淹れる。暖房をオンにして顔を洗う。洋服に着替えパンを焼きゆで卵を茹でる。ゆで卵ができる間にメイクをし、紅茶にはちみつを入れパンにバターを塗り茹でたての卵にマヨネーズをかけて食べる。簡単な朝食を静かに済ませる。そのあと洗い物をして窓を少し開ける。外の空気を吸いながら歯磨きをする。冷たい空気が肺を冷やすのを感じながらますみのことを考えた。

ますみはあれから暫くして会社と話し合いをし休職をしている。今後のことはまだ考えていないと言っていた。

しおの部署はパートタイムのアルバイトを雇い少しの助けを得ながら仕事をまわしている。

ドアを開けて外に出るともう春になろうとするかすかな春の香りを感じた。植物が芽吹く香りだ。ほんのわずかの気配だけれどしおは確かにそれを感じた。

ますみのことがあってしおも少し考えた。

いつ何が起こるかなんてわからないし、本人の知らぬ間に心や体に変化が起こることもある。しおは病も同じだと思っていた。どんなに気を付けていてもなるときはなるし、絶対ならないなんてことはない。いつ自分にもそのようなことが起こるやもわからない。そういう気もちを持っていたいと思った。ますみに何をしてあげられるというわけではないけれど、春になったら実家の庭に咲く花の写真を送ろうと思っている。しおは春を待っている。

春は来るし花は咲く。そのことのなんと心強いことだろう。

通勤電車に揺られながらしおはそう思った。

アルバイトの他に珍しい新入りが会社に入りしおのこころは毎日潤っている。新入りの名前はこむぎちゃんである。猫である。

社長の奥様が保護猫活動をしていて奥様が家を空ける時間や時期に会社で面倒を見ることになったのだ。誰も反対しなかった。意外に猫好きの人が多くむしろ賛成の人が多かった。しおも大の猫好きであった。

朝いちばんで社長と一緒に出勤してくるこむぎちゃんはホルスタイン柄の雑種だ。目はマスカットのような緑で美しい。雌の割に体は大きい。すぐに会社にも慣れた。概ね静かにしているが午後仕事中にみんなのデスクを一回りするという縄張り確認を行う。

その時しおのデスクまわりにもこむぎちゃんは訪れる。しおはこころが躍るのを抑えてこむぎちゃんに応対する。なでたり声をかけたりデスクにあるものでたまに遊んだりする。こむぎちゃんはとっても高い声で短く鳴く。それが得も言われぬかわいさなのでしおは仕事そっちのけになる。その様子に猫大臣なるあだ名も付けられるほどだった。

しおはすっかり会社に出社するのが楽しみになった。

こむぎちゃんがたまに膝の上にのってくれる時などは至福であった。冬はあたたかいしいきものが息を吸って吐いているその様子を見て体で感じるだけで心が落ち着く。

ますみの不在で複雑な気持ちもしていたが、こむぎちゃんに会えることでしおの気持ちは大分まぎれた。

今日もこむぎちゃんに会える。

しおの日常は小さくしかし確かに幸福度を増した。





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