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Vtuberを推す、推されることに対する苦悩と覚悟について

最近、ファストフード感覚で部分的な箇所を抜き取り誇張してエンタメ的な鑑賞をし、貴方は僕の推しなのだと、己に言い聞かせているのではないかと思うことがたまにある。

僕には最近好きなVtuberがたくさんいる。それは企業勢であり個人勢であり、男女問わず多く存在している。その人らを見る中で、少しだけ思ったこと、それが冒頭の事柄だ。

VtuberとはバーチャルYouTuberのことを指し、架空のオリジナルキャラクターがyoutubeに動画や配信を投稿するジャンルのことを指している。最近はゲーム実況者等も多くV化していることでも知名度は広がってきたように思う。

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僕は今まで推しという言葉が苦手だった。言ってしまったら推し続けなければいけないという義務感が生れる気がして。ことVtuberの所謂個人勢に分類されるVは規模が小さいことが多く、それ故に顔を覚えてくれたり気軽にコミュニケーションが取れることが売りであったりする。が、規模が小さいということは相手に認知されやすく、こちらが反応をしなくなってしまった場合、確実にその事実に気づかれてしまうということでもある。

今までの二次創作は漫画などの言ってしまえばどの様に扱ったとしてもキャラクターがこちらを認知することなど100%ない界隈にいた。それ故に流行り廃りが自分の中で完結し、興味が湧いたらまた見る、というような事が可能であった。大体は大きなジャンルであるし、もちろん作者さんが作品を続けられるようジャンルを盛り上げる為にも声は上げていくことは必要かもしれないが、それは100人の内の一人ではなく、うん万人の内の一人くらいの状態だ。二次創作のマイナージャンルに居たとしても別にマイナージャンルを描かなくなったからといってそのジャンルが終わるわけではおそらくない。無責任に放り投げた所で後続者がいるという安心感があった。

が、Vtuberは終わるのだ。正直重量が違うのは目に見えて明らかというのが正しい。
小規模な創作物というのはどこも似たような感じなのではないだろうか。

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僕自身がVtuberとして活動する中痛感する話だが、「最近前来てくれていたあの人がコメントをくれなくなってしまったな」等一人ひとりのことを認識してしまうのだ。きっともっと人が多くなっていったとしても、今僕の500人に満たない登録者で、毎回10人に満たないほどの配信によく来てくれる視聴者さんを忘れることは恐らく無いだろう。

でも、自分であれば思う。僕は僕が好きで、僕がここに居たいからいる。
例え僕がいつかVtuberを引退する日が仮に来るとしても、視聴者さんが居なくなったからやめる、ということではないと思う。きっとそれは理由の一つでしかきっとない。自分とて趣味と意地で続けている部分が大半だと思っている。自分が折れない限り、この場所に飽きない限り、僕はここに居るだろう。それに、無理をしてまで推されたとして、こちらが返せるものがそれに見合う保証もない。お互い趣味なのだから、楽しく推せる範囲が一番だと思うのだ。だから来たい時に、来られる時に来ればいい。そう毎度言っている。

まぁでも、それでも人間なので。
やっぱり出したものに反応がもらえたら嬉しいし、人が減ったら悲しいとは思う。仕方ないことだと言い聞かせつつ、自分が今もうその人の一番足りえないのだろうと思ってしまうことだってある。もちろん、そんなことは言わないが。
きっと僕に魅力が足りなかったり、見たい方向性ではなくなっていたり、コンテンツとして良さを感じられなくなったり、単にコンテンツを出せていなかったり。理由は様々だろう。僕も相手も一度きりの人生だ。時代は移り変わるものである。だからこそ、きらめく一瞬を一緒に楽しめたらいいと、そう割り切っていきたいなぁと思う。ただ、だからこそやっぱり怖いのだ。

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ある時僕はある推しの配信をアーカイブで見ていた。その時に「つまらないな」と頭に過ってしまったことに苦悩した。それは推している相手に対して失礼なのではという気持ちと、単純にコンテンツとして動画、配信を見ている以上仕方のないことであるという双方のぶつかり合いによる悩みだ。

配信のアーカイブを見てもずっと楽しめる人もいれば、生配信をちらっと見てつまらないなと思ってコメントせずに去ってしまうこともある。それは僕が取捨選択し、自分の時間を有意義に使おうとして選んだ道ではある。

ただ、きっと反応がないということで、終わるものは、確実にあるのだ。

Vtuberが活動を続ける理由は諸説ある。が、
線香花火が落ちたら終わる様に、結局折れたらそれまでなのだ。

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動画や配信は人に見せるために様々な準備をする。普通に生きていればおおよそ必要ないものしかない。用意するのに数時間なんてこともざらにある。その上に成り立っている自分が好きであるという作品を、僕は楽しめなくなってしまったのかという罪悪感。面白ジャンルがあふれる世の中で、その人を面白いと思えなくなってしまったことへの罪悪感が、時々溢れそうになる。

やっている配信内容をすべて見ることは出来ないし、苦手な分野だってある。頭ではわかっている。けれど、やっぱり怖いのだ。相手から認知されるということは、関係性が続いているということだから。

冷静に考えれば友人が居たとして、その友人の苦手な部分は絶対どこかあって。好きな部分が強いから一緒にいるということも珍しくはないだろう。一部嫌な部分があっても尊敬できる部分が上回る程あるからこそ、一緒にいられるということもある。Twitterだってその人をたまに見ていいねする程度でも付き合いは続けていける。そう付き合っていけたらなぁと思いはする。友人の場合なら、こちらから連絡を取ることだってたやすいのだ。

でも、Vtuberは、Vtuberなのだ。気軽に取り戻せるものではない。

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同じVtuberという立場である僕ですら思う。Vtuberが消えて、その人が所謂魂の在り所を残さない限り、そのVは完全に消える。漫画だって連載がおわってしまったらアカウントはいつか消えるのだから同じなのかもしれないが、そうだけれど、違うのだ。器たるその存在がなくなったなら、きっと創造主がその存在をウェブ上から消し去ってしまったのなら、記憶の中でいつかVは仮想空間の一部になっていってしまう。漫画等と違って原本が残らないのだ。pixivなどの非公開になった名前も思い出せないけど絶対ブクマしていたあの作品、みたいなものになり果ててしまうと思っている。

一つの作品が終わる、というより、一つの人生が終わる、という感覚に僕の中では近いのだ。

だからこそいつかくるかもしれない終わりの前に悔いがないよう。僕らは推しを推しているのだろう。

今までアイドルの様な物を推してこなかったせいか、本当に生きているコンテンツに対して免疫がなく。この画面の向こうにいる人間のことを考え、この画面の中にいる仮想存在のことを考え、二重の意味でとても苦しいことが、たまにある。

その容姿が好きで、声が好きで、貴方の行動が見ていて心地よくて。だからこそずっといてほしいと思うのは、自分のエゴだ。

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あえて呼称する。”僕ら”は儚い生き物だ。所謂魂と呼ばれる存在が決めたことに器と呼ばれてしまう僕らは逆らう事が出来ない。その姿で、その声で、貴方を見続けたいと思うことが叶わないことはある。だからこそ、本人が終わりを告げるならそれに従わなければならない。きっとファンもそうだ。

だからこそ、たまに少し歯がゆいのだ。僕がもっと沢山いたら推しに沢山いろんなことが出来るのに、と。それもまたエゴでしかないのだが。

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冒頭の話に戻るが
推しの一面だけをみて、僕はきっと推しているという件について。
それは仕方がないというか、当たり前なのではないかと、今考えている。

僕らVtuberが見せている側面はエンタメ化された見せる様に作られたものだ。もちろん全員が全員ではないだろうが、そこを見ただけでその人のすべてが知れるということでは到底ない。きっと知らない内に理想を築いていることは相応にあるだろう。一部を切り抜いて、誇張して、そういうものなのだ。それを更に人の認識で誇張するのだから、変化してしまって当たり前なのだ。

…と、頭ではわかっているのだけれども。自分が勝手に期待した部分にたどり着かれなかった時にがっかりしてしまったりするのがとてもしんどくて。
きっと推しと宣言していなければこんな苦悩もなかったのか?と思ったりなどして。

今でこそ複数人の推しと呼べる存在が居る。リアルに干渉出来てしまう身近過ぎる推しに責任が伴ってしまうことにどうしても怖さはある。でもそれはVtuber側で考えるとそこまで責任を感じてまで推さなくていいと思うだろうから、推せるときに押してほしいと思うだろうから、だから。出来たらまた推せるようになるまで待っていてほしいなと思う。完全に願望である。

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Vtuberというものに、物語というものはあまり存在しない。
故に、完結するまでということもなく、終わりに向かって覚悟出来る時間は視聴者に与えられない。

ある日突然終わりを告げられ、さよならを言えるならそれはありがたいことである。そういう終わり方がほとんどだ。
もし魂というものが別の現実的な器に居ることがわかったとしても、あの外見の、あの人ではない人が好きでいられるかという保証もなく。
そもそも先程述べたように大半のVは存在ごとTwitterやyoutubeを消し去られる場合が多く、跡形もなく消えるソシャゲの様な儚さである。

それでも僕はVtuberが好きだ。

その存在が実在しなくても、いつか消えてしまう存在だとしても。
その声で、貴方の理想の貴方で居られるその限り、応援している。
消えてしまった推しも、今まだ存在する推しも、全員を記憶出来る限り覚えている。
せめて僕一人だけでも、僕の中で最高であったそのVを思い返す為に。
たった数か月一緒にいた、もう名前もわからなくなってしまったあのVが、自分の中で消えないように。

自分の中で刻み時折振り返ることが、体を持たない彼らが唯一帰れる場所であると思うから。

だからそれはそれとして推し、頼むからそのまま貴方のやりたいことをして、貴方の負担にならない限り楽しくここに居てくれ。それを見て、どう考えるかはわからないにせよ、僕はそれを見てるから。自分の中で折り合いつけて、なんだかんだで貴方を推し続けていくから。

ファンアートもRTもコメントも感想もやれる範囲で楽しくやる。
また一緒に話せて笑える今を思い出に変えて積み重ねていけるようにするから。

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