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光と闇/君と私

 闇は、自らその姿を現すことが出来ない。
 闇は光に受け入れられて初めてそこに存在することが出来る。
 
 光あるところに影はあるとか、光が闇を照らすとか言うけれど、それはきっと、光が影と闇を生成するという意味ではないだろう。光はそこにある闇をただ受け入れただけのことなのだ。

 闇はずっとそこに在った。目に見えなくとも、光が差すずっと前からそこに在ったのだ。闇とは全く光がないところを指すのだけれど、不思議なことに光なき世界で闇を見ることは出来ない。闇は光なき世界でその姿を現すことが出来ないのだから。

 闇は全てを拒絶する。故に闇から光は生まれない。けれども光は全てを受け入れ肯定し、拒絶さえも赦してくれる。だから光あるところで闇はその姿を露わにする。光に包まれるというように、闇はいつも光の中に在るものなのだ。


 絶望の先に希望があるのではない。もし絶望の先にしか希望がないのだとしたら、希望に辿り着く前に必ず絶望を味わうことになってしまうではないか。そんな苦行であってたまるものか。誰が好きこのんで絶望に向かっていくというのだろう。私なら希望を諦めるに違いない。

 しかし、希望はいつもそこに在る。ただそれは、絶望という闇の存在を受け入れた者にしか見えない光。絶望を否定し拒絶している限り、希望は見えない。光もまた、闇を否定し拒絶している限り見えやしないのだ。だって光あるところはいつだって、全てを赦してくれる世界なのだから。

 もし希望しかない、光しかない世界があるのだとしたら、そこにはきっと誰も何も存在しないのだろう。君も私もそこには居ない、居てはいけない。その世界に何か一つでも誰かが一瞬でも存在してしまえば、それまで光しかなかったはずの世界に影を落とし、闇の端くれを生み出してしまう。たとえばこの光しかない世界に私が足を踏み入れたのだとしたら、私はきっと侵入者で犯罪者になってしまう。決して私の存在が赦されることなどない。光は全てを赦してくれるはずなのに、その赦しが世界を犯していってしまうのだから。そんな世界に居続けることなど、私には耐えられない。光しかない世界は、決して何にも誰にも立ち入ることの出来ない世界なのだ。私はそんな清廉潔白な世界を、ただただ遠くから見ていることしか出来ない。それこそ、絶望ではないか。

 絶望しかない闇に包ま出た世界もまた、存在し得ない。本当に真っ暗な世界では、自分の輪郭さえ分からない。それは存在していないことと同じだ。居るのに、居ない。君も、私も---。

 それにもし今いる場所が闇だとして、そこが「闇」だと知っている、或いは「闇」だと認識できるということは、同時に「光」があることも知っているはずであろう。光ある世界を知っている、つまり今ここではない別の世界を知っているわけで、他の選択肢を持っているということなのだ。それは選ぶ自由を持っていることに他ならない。今この世界が絶対でも全てでもない。そう知っていることこそ、希望ではないのか。

 今もし私が真っ暗闇の中に、絶望の中に居るのだとしたら、全てを受け入れた時、私は希望という光を見つけられるのだろう。そうして私は世界を受け入れ、世界もまた私という存在を受け入れる。

 いつだって光と闇は、希望と絶望は、同時に存在する。今この世界で、これを書いた私とこれを読んでくれている君が居るように。世界はいつだって互いを赦し合っていくものなのだろう。全てを赦し、君と私の全てが赦される。何かを誰かを赦すことなど今は出来なくとも、いつか赦すことが出来るかもしれない、赦されるかもしれない、その可能性を含んでいる。これこそ本当の希望なのかもしれない。

 君が私を赦してくれたように、いつか君も自分自身を赦せる日が来るのだろう。君は少し世界に優しすぎるのだ。赦せない己さえも赦していく。拒絶さえ赦していく。

 そうしていつか全てを赦せる日が訪れるまで、君の代わりに私が世界の全てを赦していこう。かつて君が私にそうしてくれたように。

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