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命が私を世界に繋ぎ止めてくれていた。

 私は自分が生まれた時の歓声も痛みも知らない、覚えていない。
 
 まだ目も開いておらず喋ることもできず、頭蓋骨も半開き、水の中から出てきたばかりで浮腫んだ体。何もできない。
けれども誕生の瞬間、ただそこにあるだけの命を祝福されてきたのだろう。
「おめでとうございます!可愛い女の子ですよー」なんて言われたかもしれない。

 自分の頭が通るか通らないか分からないほどの狭さの道を、ドリルのように体をグリグリと回しながら生まれてきたのだろう。母体がいきみ、それに押し出される。きっと私からすれば予期せぬタイミングで圧迫される。苦しかったろう、さぞ痛かったろう。
 でも、もうその痛みを私は知らない。知らないのではなく、記憶から引っ張り出すことができず、覚えていない。きっと覚えたままでは生きていくことなど出来なかっただろうから、それでいい。

 忘れてしまうことの寂しさもあるけれど、人は忘れるから生きていける。しかし案外、体は覚えているのかもしれない。

 例えば誰かに慰められて頭や背中を撫でられた時、ほっとするのは生まれてきた時の痛みを体が覚えているからなのかもしれない。人肌が恋しくなるのも、人の体温に安心するのも、母親の腹の中にいた時の温もりを、一人じゃないことを思い出すからなのかもしれない。

 お誕生日をお祝いする意味がずっと分からなかった。
誕生日が来る、歳を一つ取る、それはいつ来るのかわからない寿命が一年短くなるということだ。一体それの何がめでたいんだろうと思っていた。
 みんながくれる「お誕生日のおめでとう!」は、積み重ねてきた年月を祝われているのではなく、本当はただそこにあるだけの命に対する祝福だったのかもしれない。ここまで生きてきたことを称えられているのではなく、命そのものを祝われていたのだとしたら……。
 命に優劣も善悪もなく、何をしてもしなくても、何ができてもできなくても、命は単に命でしかない。そして、ただそこにある命は祝福されるものなのだと思い出す日が、誕生日なのかもしれない。

 「この世に私が生まれてきてよかったね。みんな私に会えて、本当にラッキーだよ!」なんて言えるくらい強くなれればいいのだけれど、なかなかどうしてそう上手くはいかない。
 きっとそれは私が私を幸せにしてあげることでしか、私が私の命を祝福することでしか、叶えられないのかもしれない。私が私を許していくほかないのだろう。

 生まれてきてごめんなさい、生きていてごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい。早く終わればいいのに、いつ終わるのだろう。正直、そんな風に思うこともあった。

 それでも自分が生まれてきた時、母親に対して、痛かったよね、辛かったよね、傷つけてごめんねだなんて、きっと思わなかった。生まれてくる時に迷惑をかけてごめんねなんて、思わなかったんじゃないのかな。だってきっと、私だって生まれてくる時、母親と同じぐらい痛かったはずだから。

 自分で自分の命を許すことができなければ、世界の何もかもが許せない。生まれてきておいてなんだけれど、世界の全てが敵に見える。己の味方は己なのだが、もはや己に対して常時ファイティングポーズ。

 でも、本当はそうじゃない。

 周りが自分を許してくれないのではなくて、自分がここにいることを、この世界にこの命があることを許せていないだけなんだ。

 生まれたその瞬間の記憶がないからこそ、あの痛みを忘れたからこそ生きていける。けれども忘れてしまったからこそ、生きていく中で、出来ることが増えていく喜びを知り、人の役に立つことの喜びを知り、いつの間にかそれらを自分にとっての付加価値と勘違いしてしまい、己の存在そのものと価値をくっつけて考えてしまうようになるのだ。厄介極まりない。

 存在価値という言葉は確かにあるけれど、私はあまり好きじゃない。価値ある命、価値のない命などとは言わないじゃない。存在、ただそこにある、それだけなのに、存在に価値が結びつくのは不思議で仕方がない。命と存在は何が違うのだろう。

 私が許そうが許せなかろうが、祝福しようがしなかろうが、私の体は死ぬまで私を生かし続けてくれる。たとえそれを私が拒んだとて、寿命が来るまでご丁寧にも勝手に生かし続けてくれる。いつか死ぬ、どうせ死ぬ、最後には絶対終わる。死に急ぐのは、生き急ぎでいる証拠なのかもしれない。急がなくたってどうせ終わるんだから、いっぱい道草食って楽しめばいい。

 生きるのも悪くないかな、生きたい、生きてみよう、そう思った時まで、自分の命が続いてきたのだとすれば、それはきっと奇跡なのだ。肉体の持ち主である私の意思に関わらず、命は勝手に続いていくし、勝手に終わるものだから。命はずっと、私を待ってくれていたのかもしれない。

 私がどう思っていようが、リミットがくるまで命は勝手に続いていく。肉体の持ち主であるはずの私が、なぜかそのタイムリミットを知らないだけで。どうせ続いていくのだから、命を他人に譲ったりもできないのだから、私は私の命を贅沢に使いたい。お金をいっぱい稼ぐとか好きなことをするとか、はたまた何もせずぐうたらするとか。そんなことは最早どうでもよくて、この命が続いていく限り、自分を自分の好きに使ったらいいんだよと言われている訳で、既に私の命は、私が生きていくことは、そしらぬ誰かに許されているのだ。それを許してくれた誰かのを神様と呼ぶのかもしれないけれど、私の命が私を赦し続けてくれていただけな気もする。

 今日も私の心臓はトクントクンと鳴っている。

 今日まで私は生きてきた。私の命が私を生かし続けてきてくれた。私をこの世界に繋ぎ止めておいてくれた。生きていくのも悪くないかな、そう思える日が来るまで、ずっとずっと待っていてくれたのだ。

 今度は私が私の命を活かしていく番だ。
どうせ暇つぶし、どこまでいっても人生なんて自己満足。自分の人生なのだから、私が満足しないでどうするというのだ。誰かに満足してもらったところでツマラナイだろう。

待たせてごめんね。
ずっと待っていてくれて、ありがとう。

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