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賞状を貰うことが大事だと思っていたけど違った

私は学生時代、毎年毎学期何かしらの細かい賞を貰っていた。

賞を貰うために努力をすることが当たり前であり、賞状は自分が努力した証であり、私がここにいて良い証明証だと思っていた。

自我が全く確立できていなかったので、他者からの賞賛を得る事で自分の存在価値があると安心できていたのだ。

ちなみに家庭環境は超良好で、家庭の中で賞を取りなさいという教育虐待があった訳では全く無い。強いて言うなら父が私と似たような負けず嫌いであったというくらいである。ただ居間には家族の賞状がたくさん飾られていた。私は幼心に賞状を貰うことは誉であり、大切なことなんだと実家の居間で感じていた。

この賞を取りたい病は私が勝手に染まった後天的なものである。この世の中は勝負事が多い。渋沢栄一も競争は成長に必要と論語と算盤の中で仰っていた。

絵の県特選、ポスターコンクール優勝、読書感想文の特選、バレーボール県大会優勝のトロフィー、そういった何かしらの賞を貰うことで皆に凄いと褒めてもらえる。自分の存在価値が高まると思い生き続けてきた。実際褒められた。その度に嬉しかった。

でも賞を取るほど自分の価値が上がるというのは間違いだった。価値の上下を考えていた事自体が愚かだった。学校の外には私よりも更に上の人たちがいる事を知り、小学6年以降は益々虚しくなるだけであった。
努力で市や県でナンバーワンになれても、狂ったように一分野に励まない限り全国一、宇宙一にはなれない。

結局色んな賞状は頑張った証にはなったが、あらゆる分野で色んな勝負の勝ち負けにばかり拘った結果、他人と比較して生きる事が多くなった。負け戦になりそうなものは初めからチャレンジしなくなった。そうやって逃げて生きるようになった。

中学までバレーボールをずっとやってきたが、高校は美術部に入った。勝てない弱いチームで頑張るのが嫌だったからだ。(というか元々自分は運動神経はチーム内で最悪だったが、根性で県一位チームのレギュラーのポジションにギリギリ滑り込んでいた。プライドが高かったので、弱い自分に気付くのが嫌だったんだと思う)

絵を描く頻度もめっきり減った。SNSで私より上手い歳下を何度も見かけて心が折れたからだ。

勉強もなんとか頑張って偏差値を上げて大学も入ったが、入学後あまり身が入らず単位もポロポロ落としていた。なんとか友人の力を借りて卒業はしたが…。

そうやって、小さい頃から純粋に好きだったこと、得意だったこと、頑張りたいなと思ってたことから徐々に離れて行って、寂しい自分が出来上がっていった。

受動的な趣味にばかり走って、自分から動くような創作趣味やスポーツは滅多にしなくなっていった。

でも最近になってやっと、やっと人と比べず自分自身で楽しむことの大切さに気がついた。上手い下手に拘ることは不幸だ。

3ヶ月ほど前に、地元に凄い占い屋が居ると聞いて足を運んだ。何でも縁切りをその占い師に願うと縁切り相手が死んでしまうほどのパワーがあるそうだ。恐ろしい。

丁度その頃、適当すぎる上司に悩み思い通りに仕事ができず辛い思いをしていたので、その占い師に見てもらったのだった。その占い師は恐ろしい程上司の特徴を言い当てた、「こいつは化石頭のバカであるから、一言一句こいつの言ったことに合わせようとするな」と。


そして、「例えるならあんたはケーキを綺麗に四角く順序よく作ろうと思い詰め過ぎている。本来柔軟性があるのに、型にはめて物事を考え過ぎだよ。」と言われた。

その時は仕事の仕方について指摘されたと思ったが、これって生き方そのものの話に繋がるなと思った。

その夜実家でご飯を食べながら家族と月曜から夜更かしを見ていた。

番組の中に、「俺ピアノ弾けるよ!」と自信満々に言って路上で楽しそうに電子ピアノを弾いているおじさんがいた。そのピアノは信じられない程下手くそだった。

何故かそれを見てワッと涙が出た。口に含んでいた白米が涙でしょっぱくなった。

私に足りないのはこういう生き方だったんじゃないか?

勝ち負けばっか気にして、負けた自分や負けたくない自分の情けなさにばかり気が行って、純粋に物事を楽しむという1番大事なあの頃の気持ちを失っていた。

母親に「そんなこと今になって気付いたの!?今まで楽しんでたんじゃないの!?」とビックリされた。

苦しんでる様子は見られたくないので、親にすらそういう素振りは見せてこなかった。

軍隊みたいな県強豪バレーボールチームに所属していた影響もあり、勝たなければ意味も価値もないと思っていたのだ。立海大附属の精神で生きていた。
当時は負けたら平気でビンタ、ミスを重ねたら血が出るまで往復ビンタされる時代であった。負けが怖かった。

でも人生で大切なことは勝ち負けだけじゃない。競争意識は資本主義社会の発展において非常に重要だが、競争は人の心をどんどん蝕んでいく。

(そりゃ就活も出来ないわけだ。就活も私は勝負の場だと思い込んで卒業3ヶ月前までエントリーすらしなかった。)

売れない絵を描き続けたゴッホだって、売れないからといって描くのをやめなかった。

描くこと自体を大切にしていく、これが大事なんだ。

あの日以降、私はあの下手くそなピアノを弾くおじさんを心の中に飼うことにした。人の目を意識して生きるのをやめた。

純粋に今を楽しみ始めた。これが足るを知るということか、不足能力にフォーカスせず、自分で自分を認めて初めて承認欲求が満タンに満たされた気がした。

だから今こうして雑な文章をnoteに投稿できるようになった。昔なら全く書かないか、10回くらい読み直してようやく投稿できたかどうか、という感じだったと思う。

ひどい完璧主義を脱する良い機会になった。こうしなければいけない、と強迫観念で自分自身を勝手に縛り付けていた。

横軸で他者と比べて落ち込むのではなく、縦軸で己を見つめるのが大切なのだ。気付かせてくれたあの占い師と月曜から夜ふかしとピアノ爺には感謝している。

余談だがその占いの夜、実家で死んだ自分の祖母の霊と遭遇して精神世界に目覚めるキッカケにもなった。
おばあちゃん見守ってくれてたんだね。またその話は追って書こうと思う。

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