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吾輩は夢女子である

皆さん、夢女子という存在をご存知だろうか。

私がその1人である。

最近NHKの「ねぽりんはぽりん」でも特集されていた。恥ずかし過ぎて見れなかったが。

以下、そのまま夢女子の定義をweblio 辞書から引用する。

夢女子(ゆめじょし)とは、「夢」呼ばれる創作ジャンル愛好するオタク女子、という意味で用いられる表現アニメマンガなどの作品世界に、自分考案したオリジナルキャラクター(あるいは自分自身投影といえるキャラクター)を登場させ、作中キャラ懇意になったり恋愛関係築いたりする展開を楽しむ女性のこと。
https://www.weblio.jp/content/夢女子#:~:text=アニメやマンガなどの,夢女子に該当する%E3%80%82

これが私である。頭の中で色んなキャラクターと付き合った事がある。

私の初恋は4歳で相手は工藤新一だったのだが、99年劇場版で颯爽と現れた怪盗キッドに乗り換えた。キッド様とはビルの屋上で秘密の逢瀬を重ねた。バレたら逮捕されちゃうからね。

もう幼少期からずっと夢女子だったのである。

他にも不二周助と同じクラスの隣の席になってイジメから守ってもらったり、うちはイタチの初恋の幼馴染兼婚約者になるも最終的に優しい幻術をかけられて眠るように死んだり、ブラックジャックと手術台の上で最期のキスしたことがある。頭の中で。

小4くらいでネットサーフィンにハマったのだが、ちょうどその頃は個人サイト文化全盛期の時代で、ずっと夢小説を探しては読み続けてきた。数えてないが軽く夢小説を1000本以上は読んできている。pixivのブックマークは2万弱だ。毎日6時間ほどネットサーフィンして母親から怒られたものだった。

乙女ゲームもメチャクチャやってた。

小6からときメモGSにどハマりして、夜な夜な実家の居間に置いてあるPSXでプレイしていた。夢女子にとって夢のような画期的なゲームであった。キャラが名前を呼んでくれるのである。

ときメモGS1の最愛の男・鈴鹿和馬に「お前が好きだ!!!アメリカまで着いてこい!!!!!!」と叫んで告白される大事なシーンを、夜中トイレで起きたおじいちゃんに見られた。

高校受験1週間前に勉強そっちのけでハートの国のアリスのエースとテントでいかがわしいことをしていた。母親に見つかって滅茶苦茶怒られた。エースに応援してもらってたので、受験は問題なく合格した。

大学1年のクリスマスイブは暗い部屋で1人華ヤカ哉我ガ一族をプレイして、雅に弁当をぶちまけられたりしていた。バイトして稼いだお金で乙女ゲームを買ってプレイしていた。

ちなみに大学の友人にはあまり言わないようにしていた。

お嬢様学校の子がオタクを「そういう子たち」と若干軽蔑のニュアンスで呼んでいて、オタクって被差別対象なんだ…と思ったからだ。そのせいであんまり自己開示できなかった。

中学は廊下にBL本が落ちている程のオタク天国だったので、オタクの人権問題について全く意識したことがなかった。大学一年生の頃はオタクであることは恥ずかしいことなんだと思った。私はカバンにつけていたときメモGS3紺野玉緒のキーホルダーをそっと外した。

私がJDだった2010年代前半〜中盤まではオタクに厳しい時代だったと記憶している。

なんか最近は海外の著名人ですらアニメ好きを公言したり、一般人もその辺の趣味を隠さなかったりするよね。そういうところは良い時代になったなと思う。だから今こうして私も書いてみている。これが私の一面である。

ちなみに私はBLの方はそんなに好きじゃない。よっぽど好きな2人じゃないかぎり読まない。第三者視点になるよりも、当事者になった方が楽しいと思ってしまう。(唯一BL本を複数冊買うほど好きなカップリングはSNKのエルリである、あいつらは私の中で夫婦である。カプが好きなら何でも良いではなく、私が求めているのは魂の繋がりだ。エログロナンセンスは大嫌いである)

このような感じでキャラに恋するのは当たり前だと思っていたが、二番目の姉夫婦に質問したところ、どうやら2人はそうでないらしい。「シカマルとか格好いいと思うけど恋愛ではない」とか言われてしまった。作品を楽しむ目線がこんなにも違うんだ…とビックリしてしまった。

私にとって、作品を読む事はその世界に身も心も没入する事であり、そこで好きになる人がいれば新しい恋が始まる。ならない場合は純粋にストーリーを楽しむ。

以前王様ランキングのアニメを見ていて、ダイダのことをいけ好かないヤツと思っていたのだが、最終話間近で苦悩を乗り越えカッコよく成長した彼を見て恋に落ちた。その直後、ミランジョとかいう敵役だった女とダイダがくっ付いて10秒で失恋した。あれは泣いた。

こんな風に途中で出てきた女キャラに負けることもあるのだが、そういう場合はすぐに視点を切り替える。私が彼女になればよいのだ。自己投影術である。

好きになった男キャラに相手の女キャラが存在する場合は、その女キャラの視点で楽しむ。私は頭の中でその作品のヒロインになる憑依型夢女子でもあるのだ。ごく一部の夢女子や腐女子は女キャラの存在自体を否定するが、私は公式至上主義であるので公式には従う。ちなみに二次創作も公式寄りの絵柄が好みである。

割合的には完全オリジナル夢作品よりも、公式ですでにカップリングされているNLを自分視点で楽しむことのほうが多いかもしれない。ただキャラが死んでしまった場合は仕方ないので、if設定で現代に転生してオフィスラブを楽しむ等している。最近はオメガバースにもハマっている。

シャーマンキングであれば私は恐山アンナとして葉側に立って求婚してくるハオ様と戦う。ドラゴンボールであればビーデルになってスポポビッチ戦でボコられた後、愛する悟飯に仙豆を食べさせてもらう。犬夜叉では私はりんであり、殺生丸様との間に既に2人子供がいる(なお最近まで木の中に封印されていたので殺生丸様と触れ合えず悲しかった)

相手がいないキャラの場合は、頭の中で架空のオリジナルキャラを作って夢妄想を楽しむ。最近では三井寿と同じ大学に通い、同棲を始めた。

こんな感じの楽しみ方をしているせいか、私には巷で流行っている「推し」の概念がよく分からない。「推す」ってなんだよ。

資本主義社会においてはこれ以上ない応援の仕方である、とは思う。

ただ夢女である私にはイマイチ「推す」という行為に納得いかない。同担拒否ではないのだが、脳内で付き合っていたいのだ。推すって他の人にオススメしたいくらいイチオシのキャラのことを言っているんだよね。AKBの時代に生まれた言葉だと思うのだが、アイドルや芸能人などの「ナマモノ」に本気で恋したことがないので現実で推す行為自体いまいち分からない。

好きなキャラが同じ人達とオフ会で語り合うのは良いと思うが、そのキャラの良さを知らない人にオススメしたくはない。いにしえのオタクであるので、ちょっと使用に気が引ける単語である。
(これは推し行為自体の否定ではない。私にはしっくりこなくて、推しという言葉を使わないというだけの話である)

無知であるがゆえにこう思ってしまってるかもしれないので、「推し」とファンの関係性という下記の文を読んでみた。与える愛と尊敬というキーワードがある。
https://www.senshu-u.ac.jp/School/shakai/2_shakaigakka/2.5_thesis/abstracts/2020/thesis2020_bunka3_goto.pdf

与える愛の割には自己と推す対象の距離が遠すぎやしないか、私だったらちょっと寂しい。ファン視点というのは多くの木陰からひっそり恋慕する感じなのだろうか。推し行為を集団でやると宗教になるのではないか?一体感とか、そういう神秘体験的フェーズになってくるので、私のようなガチ恋とは根本が違うのかもしれない。イエスキリストに性欲を抱かない的なノリなのであろうか。わからないので教えて欲しい。

私は図々しい女なので、極力好きになった人の真横に居たい。時空も次元も超えてそのキャラの過去、現在、未来にタイムスリップして彼の気持ちに寄り添ったりしたい。

私の夢対象は二次元オンリーである。メリットは浮気されるリスクが全く無いことで、デメリットは時々作中で好きキャラが死ぬことである。私はイタチが死んだ日に学校を休んだ。作中で女キャラと好きキャラが付き合う思いがけない展開もあるが、私にとってはノーダメであるどころか、むしろ嬉しい。そのキャラがどう人を愛するのかが分かるからだ。真の愛とは否定したり愛を求めることでなく、ありのままの他者を受け入れることである。

そういう意味では、当人に干渉せず推していくというのは究極の愛の一つなのかもしれない。

ドルオタにはドルオタなりの、
夢女に夢女なりの愛の形があると思う。

愛の作法に正解は無い。
そしてその愛の形は人によって異なる。ただし、見返りを求めようとし過ぎると、愛は満たされず憎悪に変わる。

自分なりのひっそりとした愛を貫いていこう、と数えきれないほどの二次元彼氏たちを空に浮かばせながら決意した。

彼氏のみんな、これからもよろしくね。

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