メモ

「人はやっぱり人と繋がりたいと思う生き物」

と言う考えを前提に、これからの自分のやりたいことや使命を当てはめていく作業プラットフォーム。

感染対策が当たり前になってきた。
人と距離を保ち、人ごみを避け、なるべく触らないように。
見ず知らずの人との関わりを恐れ、見えない敵に常に怯えるイメージがインプットされた。
もう3ヶ月ほど自由に行動せず、友達にも好きな人とも自由に会っていない。
でもやっぱり、みんなと「今」を共有したくて。
文字にできない感情や言葉を伝え合いたくて。
今はオンライン飲み会やズームでの顔を見ながらのコミュニケーションが、太いコミュニケーションツールになっている。
一方、長い自粛生活の中で気づいた側面もある。
「過剰」だった消費行動。
「今、すぐに」の焦りや許容の狭い見地。
「まあ、いいか」が言えない許されない状況が続き、自然破壊や異常気象、虐待や変なニュースが増えていた。
人の精神がもう、飽和状態だった。
それも気づいていた。
でも、知っててもどうすることもできずにいた。

そこへ、コロナ。
命に関わる問題として捉えられ、行きすぎた行動を「静止」することを余儀なくされた。
時間は止められ、行動も制限され、不要不急は自粛するよう求められた。
最初は動揺したし、過剰に恐怖もした。
医療破壊、尊厳の守られない死の現場が、ニュースでダクダク流れた。
恐怖のあまり、人は物を奪い合うよになった。
でも次第にリズムをつかむようになり、ウィルスに対しても一定の距離を保ちつつ「共存」する道を編み出そうとしている。

で、このテーマ。
「人はやっぱり人と繋がりたい生き物」
何が、「人と繋がれて、安心。楽しい」と思う要素なのか。
文字ではなかった。
顔が見れて声が聞けて、生体として認識し、「今を共有している」っていうことが、重要なのかな。
でもやっぱり、会うことで感じられる「間合い」とか「空気感」とか「温度」といった、「皮膚感覚」の心地よさを知っており、そこから安心感や信頼感を獲得していく。
使っている部分が成長するのであって、皮膚感覚を使わないでいると、そのものが衰退していくだろう。

人と人が出会って、話して、関わりあう状況を作るとして、
「駄菓子屋」兼「お惣菜や」兼「ちょっと飲める憩いのば」を作りたいなぁと思った。
んで、たまに「ベーゴマ大会」や「お昼寝アート」や「新酒比べ飲み」とかをやって、楽しんじゃう。
箱はあくまで、「駄菓子お惣菜一杯飲み屋」

コミュニティーを作る、と言って夢を持っていたけど、
看護の知識やそれに応える環境を作るとなrと、どうしても敷居が高くなってしまう。
そうではなく、地域の人たちが「何気なく集まって」「何気なく話して」「何気なく解決していくお手伝いができる場」というのが、狙っていることど真ん中のような気がした。
昼間は子連れのお母さんたちがちょっと寄れる、
放課後は子供達がお小遣いで好きなお菓子を買って集まれる、
夜は仕事帰りの人が、帰宅前にちょっといい気分になれる
ような場所。

飲食が人をつなぎ、コミュニティーをつくり、一人じゃない、不安を抱え込まないような場所をつくりたい。

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