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岡崎から視る「どうする家康」#4大樹寺を考える

岡崎帰還・入城前に大樹寺に入る


桶狭間の合戦後に家康は、大高城(名古屋市緑区)を脱出して岡崎に帰りますが、岡崎城に入らずに、まず大樹寺に入り、自害を試みて住職に諭された、というシーンがあると思います。(あるはずです。)

大樹寺は岡崎の歴史観光では外せないスポットです。

里見浩太朗さんが大樹寺の住職・登誉上人を演じます。大樹寺が松平宗家としてのシンボルで実は重要なキーマンでもあります。

なぜ岡崎城にすぐに入らなかったのか。

横柄な今川勢がワガモノ顔で陣取ってて入れない、遠慮した、という説明が一般的です。それが静岡に帰ったのを確認してから、岡崎入城ということで慎重さの表れとも説明されることが多いように思います。

しかし、私は少し違うと思います。

まず、そもそも矢作川を考慮する必要があります。大高城(名古屋市緑区)から岡崎に帰るのには岡崎城の西で矢作川を渡る必要があります。江戸時代でこそ「矢作橋」(現在の国道1号線矢作橋よりもう少し北)がありますが、この時代は矢作橋ありません。

江戸時代の矢作橋。奥に見えるのが岡崎城。

桶狭間合戦があった梅雨時の水量では矢作橋付近で馬を伴った渡河は水深も川幅もしんどいのではないでしょうか。当時は明治用水の取水もダムもないので、現在の調整後の水量と違い、降水直撃の水量です。普通に渡河できるなら岡崎城の西側防衛線・障害になりませんし、江戸時代に橋を架ける価値がありません。平針街道の現在の岡崎大橋付近より上流、天候と水量で岩津(現在の天神橋)付近まで北に迂回しないと馬を伴って矢作川を渡れないと思います。仮に渡河できても休憩や集結が必要です。

大樹寺は矢作渡河後に最適な集結場所(井戸があり飲用水確保)になります。兵たちも追撃を心配しながら夏に30キロ程度を歩き、汗かいて疲れています。そこで、きれいな飲み水と炊き出しを大樹寺で受けられたら、みな「松平のお陰」を実感するでしょう。献策があったにしても若い家康なりの人心掌握術のように私は思います

また、大樹寺の軍事拠点の意味として、西からの岡崎防衛の想定を考えると、攻勢側を矢作川の上流・北に迂回させ渡河直後に会敵・迎撃するための拠点機能を大樹寺が担っているように思います。

ルート的にも直接、岡崎城に入ると考える方が不自然です。

しかし、軍事的な事情以上に、重要なのは政治的事情です。

そもそも、今まで駿府(静岡市)育ちで、ほとんど岡崎にいなかった家康です。しかも外部・今川の力を背景にしている若造を、松平宗家の後継者・三河岡崎のトップとして誰が認めるでしょうか

今で例えると、議員の息子が東京の慶応の中高大で地元と全く縁なくやってきた。地元の方言もままならない。議員である親が急死したあとガタガタになった状態の地盤で「後継者です。よろしく」と言って25歳の若造が簡単に受け入れてもらえるでしょうか。そんな状態を想像していただければと思います。

実際に酒井忠次や鳥居忠吉などの祖父の代からの熱心な支持メンバーがいる一方で、反発する勢力がいないはずありません。全三河掌握など程遠い状態です。実際に反発もその後起きています

正統性を確認する政治パフォーマンス

今川勢が陣取る岡崎城にそのまま入ったのでは、家康に対して反発する勢力に「今川の派遣と同じじゃないかよ!」という非難に根拠を与え、説得力を持たせてしまいます。

家康としてはその反発される今川に同調してはいけない状況です。ここで「今川とはオレ違うから」を行動で見せる必要があります。そんな中で今川から「お疲れさまでした」と言われて、水出されて家康が飲んでたら岡崎メンバーも納得するでしょうか。大樹寺ならこの点安心です。

これをうまい形で反発勢力の非難をかわすのが、大樹寺にまず入るパフォーマンスなのではないでしょうか。今川が岡崎城にいて入れないというのは幕府に都合よい解釈のように思います。

もうひとつ。政治における「正統」の考え方。政治における「正統性」についてはマックス・ウェーバーはじめ、政治学で論じられています。

まず大樹寺に入ったのは、松平宗家の後継者としての正統性を確認する「政治的パフォーマンス」という意味があるのではと思います。

大樹寺には、松平宗家の菩提寺として祖父清康が寄進した多宝塔があります。名前の「康」の一文字に込めた意味からしても、大樹寺で正統性の確認を内外に示す必要があります。

祖父の清康が寄進した大樹寺多宝塔

 今回は里見浩太朗さん演じる住職に諭されるシーンもありますが、これもその一環で、まずは宗家の菩提寺の住職の支持を明確に得ていることが重要です。

今はほとんどありませんが、昼ドラなどで、葬儀で遺産相続でもめる中を菩提寺の住職の一言二言が重要な意味を持ってしまう、そういう構図と似ている側面です。

さて、大樹寺の観光ポイント。

山門から岡崎城を眺望するいわゆる「ビスタライン」は有名で観光ポイントです。(なお、このビスタラインの確保のために大樹寺小学校は校舎とプールの渡り廊下を地下にしてあります。)

しかし、これも考えてみれば菩提寺と岡崎城の強固な関係を三河全体に広く知らしめる政治的な意図ではないかと思います。これは別稿で述べる一向一揆との関係も無いとは言えないでしょう。

大樹寺山門から岡崎城を望むビスタライン

里見浩太朗さんが「厭離穢土 欣求浄土」をいう場面があると思います。岡崎市ではチビッ子たちも知っています。

住職としても、十四松平と名族が全員オレもオレもで収拾つかなくなり、戦乱がとめどもなく続く、これはやめようというのは当然と言えば当然でしょう。理念を言っているのはそうですが、私は実際に戦いが全く収拾できなくなりそうな現実の政治的な危機状況の面を無視してはいけないと思います。

 大樹寺としてはまた、徳川改姓と三河守叙任での朝廷工作にあたっても浄土宗寺院とのネットワークが大活躍しています。

 江戸以前ですと読み書きできるのは僧侶ぐらいです。そうした意味でも菩提寺の住職の支持の取り付けは大きいものがあります。現在の「菩提寺」の住職の感覚とは、格が全く違います。

NHK「ゆく年くる年」の大河番宣として、高視聴率の願いを込めて、ぜひここから除夜の鐘を響かせて欲しいところです。


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