人は口が寂しいから煙草を求め、手が寂しいから誰かの手を求める。それと同じで耳が寂しいから音楽を求めた。

私はずっと音楽を聴いて生きてきた。
中学高校を経て、大学を卒業して社会人になった今日に至るまでずっと音楽を聴いて生きてきた。
別に大して高尚な音楽ではなかったけど、それでも私の人生の節目節目には大抵何かしらの曲を聴いていた。

何故音楽を聴くのかという問いは全人類に向けられてもおかしくはない、普遍的な問いだろう。別に音楽は限られた人間のみが享受できる物ではなく、数多の人間が感覚的に、ナチュラルに楽しめる物なのだ。

そんなことを揺れる電車のシートに背をかけ、やはり音楽を聴きながら考えていた。
時代は進歩したもので、今ではケーブルを介さずに無線で音楽を聴けるのだからすごい。ポケットから伸びたケーブルが何かの拍子で絡まって本来の長さを持てなくなったりマスクと絡まったりした時代が嘘のようだ。
ふと、曲の再生が終わり次の曲が始まるまでに僅かな沈黙が訪れる。
電車の中は基本的に人が集まる場所であると共に、車輪がレールを切りつけて走る音だったり風が窓を叩きつける音が絶えない喧騒の渦なのだ。イヤホンから音が途切れると、本来その場所にある無数の雑音が私の耳に届く。

そういえば、そうだったなと思った。
私は誰かの話し声や雑踏の音、不快な環境音が嫌いでずっとイヤホンで音楽を聴いていたのを思い出した。

音楽は常に私の傍にいた。

人は口が寂しいから煙草を吸うのと同じ理屈で私も耳、或いは気持ちが寂しいから音楽を聴いていた。
人生の中で色んな場所を巡ってきたが、その何れにおいても、誰かと話をしている時間よりイヤホンで音楽を聴いていた時間の方が長かったと思う。

別に外しても良かったんだけど、面識のない他人の会話が耳に入って不快な気持ちになったり、そもそも煩い場所に居るのが苦手だったから、それならば自分の好きな曲を聴いている方がよっぽどマシだからとずっとイヤホンを耳にしていた。

それに音楽は常にダウンでネガティブな気持ちに覆われていた私の感情を紛らわせてくれた。
人生の不平等さや人間関係を構築することの難しさに苦しんでいた時期(それは今もだけど)は気持ちが晴れなくてしんどかった。
そんな時に馬鹿らしい曲を聴けば少しは気持ちがアガるし、次第に考えなくなる。
耳が寂しいのもあったけど、やっぱり心のどこかで寂しさを覚えていて、それを埋めてくれたのが音楽だったんだなと思う。
麻薬みたいなものかもしれないが、基本的に誰かといる時間よりも一人で居る方が長いこの人生において音楽が私に寄与してくれた物は実に大きく、無かったら今頃どこかで朽ち果てていたかもしれない。

私が死んだら、葬式では好きだった曲をずっと流してほしい。

特に好きな曲に関しては、それをよく聞いていた時期に抱いていた感情を同時に紐づけする形で記憶しているので、その曲を再生する度にその時々の感情が胸に思い起こされる。
別に大して幸せな感情ではない。
一番好きな緒方理奈の「SOUND OF DESTINY」ですら、聴くたびに人生をもっと上手く演じられなかったのかと後悔してしまう。
けど、それでもいいんだと思う。
「SOUND OF DESTINY」や「WHITE ALBUM」に閉じ込めたままの感情は嘘偽りないものだし、手元にある音楽プレーヤーや棚に並べられたCDにはそれらが沢山眠っている。

だから、せめて葬式では好きだった曲をかけてほしいのだ。

私には結婚式を開く予定は無いけれど、葬式を開く予定はある。
別に今から自殺をするみたいな話じゃなくて、人は死から逃れられないので、私もいつか天に召される日が来るのは確かであり誰からも忘れられない限り葬式は開かれるはずだ。

だから……退屈で陰鬱な人生だったけど、耳の、心の隙間を埋めてくれたあの音楽達に囲まれて最後は死んでいきたいと思う。


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