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自己肯定感の低い私と『親』①

自分と向き合うために書き始めたこのシリーズ。
ぶっちゃけ、かなりしんどい。
よくよく考えたら自分のトラウマと向き合うことになるんだなと…

毎日書けるかなと思ったけど、1つ記事を書くと凄く消耗して長めの休息が必要になるっぽいので、本当にゆっくり書いていくしかないかな、と思う。

さて、今回は自己肯定感が高くならなかった原因の一つ「私」の親について書いてみようと思う。

前回も書いたけれど、同じような経験をした人にはしんどい内容だと思うので、本当にしんどいと思ったらページ閉じたりして自衛して下さいね。


親、親か…
前回の記事でほんのちょっと書いたけど、どちらも他界していてもういません。
いなくなって、関わりがなくなったからこそ書こうかなと思ったのもある。
まだ存命なら、多分「私」はまだ縛られていて、思うように思考し動くことは出来なかっただろうから。

うーん
親について話すのってちょっと難しい。

そうだなぁ
精神的負担がすくなそうな父親の方から書いてみよう。

「私」にとってある意味、父親は戸籍上、もしくは名目上の父親だった。
いや、別に、不倫していて家にいない人だった、とかそういう訳じゃないのだけれど、正直、父親との思い出と呼べるものがほとんどないのだ。

私が物心ついた時、父親と母親は別々に暮らしてた。
単純に父親が単身赴任してたってだけなんだけど、会うのは年に数回だったかな。
同じ県内に住んでいた筈なのに、驚きの少なさだなと今は思う。
ちなみに私が住んでいたのは、離島で、船に乗らないと父がいる所には行けなかったんだけど、それでも会うの少なすぎでは? と今なら分かる。
正直、父が住んでいる所へ行っても、父親の住んでいるアパートに泊るだけだった。
会いに行ったからといって、どこかに連れて行って貰った事もないし、遊んでもらった事もない。

遊園地だとか、デパートだとかそういうのは全部母親としか行ったことない。
後は一番上の兄が時々連れて行ってくれた…くらいかな?

「私」の中で父親の存在はとっても薄かった。
母親が父親だよというから、そうなんだろうと思っていた部分はある。

そんな状態が一変したのは、「私」が小2の時だ。
当時はよく分かっていなかったが、父親が視力を無くして実家に戻ってきてからだった。
それまで実家は、母親と私と姉の3人暮らしだった。
あまり馴染みのない父親と急に暮らすことになって、正直戸惑っていたように思う。
嬉しいと思った記憶は一切ない。

全盲となった父親と暮らすのは大変だった。
どこかに出かけるにも、父親の手を引いて、段差があれば逐一教え、どこに何がある、こうしないといけないと教えないといけなかったからだ。
と、言うか、何で「私」がそれをやらされていたのか、今思えばおかしな話である。
遊びに行きたいのに、父親を○○に連れて行かないといけないから、と言われ、当たり前のように時間を奪われていた。
それを拒否すると「冷たい」とか「自分の親なんだからそれくらいして当たり前。常識知らずが」となじられていた。

大人になった今なら、生まれつき目が見えない人だったわけじゃないから、父親本人も何かと大変だったんだろうな。と今なら好意的に思えるけど、小学校の低学年の子どもには無理だった。

父親は元々とても器用な人だったらしい。
私は健常者である父と暮らした記憶がないので、それを知らない。
頭がいい人なんだろうな、というのは知ってるけれど…。
何でも自分で出来る天才タイプだったのだから、急に視界が奪われて今まで出来ていた事が出来なくなって歯痒かったのかもしれない。

その結果なのだろう。
イライラとした父親と母親はよく喧嘩をしていた。
それまで家にいなかった人が、家に現れ、怒鳴り、母親と罵りあう。

怖くて泣いたこともあった。
そして当時の「私」は絶対的に母親の味方だった。

父親に言い負かされて、母親はよく泣いていた。
怒鳴り合う両親を見て、父親に対して芽生えたのは、嫌悪だ。
「私」はずっと父親が嫌いだった。

その内、母親の事も信用できなくなるのだが、子どもの頃はとにかく父親が嫌いで仕方なかった。

母親を泣かす悪い人。
穏やかな暮らしを壊した人。
という認識の他に「私」の存在そのものを否定する人だったから、余計にだ。

私は父親に褒められた記憶は無い。

他の兄弟と比べられ「兄と姉は今の『私』くらいの歳で、もっと家の事ができていた」とか、小さい時はすぐに言葉を覚えていっぱい喋っていたから、頭がいいのかと期待したが、一番馬鹿だった、とか。

そんな嫌味はよく言われていた。

「私」は私が馬鹿だから、出来が悪いから、父親からは褒めてもらえず、愛情をきちんと注いでもらえないのだと、そう思っていたし、今でもそうだったんだろうな、と思っている。

それに加え、父親の中で、子どもは長男と長女の2人だけだったらしい。
そう言われたことがあると、次男に言われ、やっぱりそうなんだ、と思ったのだ。

普通にショックではあった。
どこかでそれは2番目の兄の聞き間違いや勘違いなんじゃないのかと思った事もある。

しかし、それは「私」が高校生の時に確信に変わってしまった。
「私」は兄が2人に姉が1人の4人兄弟である。

高校3年の冬までそう思って生きていた。
もうすぐ高校卒業という時期に、電話がかかってきた。
電話口で母親が叫び、何事かと思った。

電話内容は、従兄が亡くなったという内容だった。
「私」はあまり面識がなく、それが誰なのか良く分かっていなかったのだが、姉がそこで言ったのだ。

「血のつながった兄だよと」

意味が判らなかった。

母親は長男を産み、おそらく年子でその従兄を産んだのだ。
そして女の子が欲しかった。と言っていた父親と母親は本来の二男である従兄を父方の兄弟の家へと養子に出したのだ。

戸籍に従兄の出生記録はない。
産まれてそのまま従兄として「私」とは違う戸籍に入ったのだ。

「私」以外の3人の兄弟達はそれを知っていたようだが、私はそれを知らなかった。
それはそれでショックではあった。

ただ、その時思ったのだ。

本当に、長男と長女しか望んでいなかったんだなと。

しかも父親は実の息子が死んだというのに、それを笑いながら話し「私」はその時、父親に殺意を覚えたのだ。


人が1人亡くなっても、笑って話せるくらいにどうでもいいのなら、どうして「私」を世に送り出したのかと。
お前達の意思で作り、産んだんじゃないのか。と

ただ、よくよく話を聞くと「私」は思いがけず出来てしまった子どもであり、やはり望まれて産まれた子どもではなかったらしい。
気が付いた時には堕ろせない週数になっていたのだと、母親に聞かされた時は、とても傷ついたのだ。
妊娠に気が付いていたのなら「私」は今ここにいなかった可能性が高かったということだ。

それを本人に話す母親も母親だなと思う。

実は「私」が気が付いていないだけで、父親は「私」のことを愛していた可能性もある……のかもしれないが、他人の目から見ても、父親の「私」に対する態度は酷かったようだ。

私が小学校の高学年の頃によく家に遊びに来ていたおばさんがいた。
そのおばさんに「私」はとても可愛がってもらっていた。
今思えば、孫みたいな感覚だったのかもしれない。

そのおばさんが母親に「何で父親は「私」にあんなに冷たいの?」と聞いていたのを耳にしたことがある。実は本当の子どもじゃないの?とまで疑われていたレベルだった。

恐らく血は繋がっている…と思う。
100%そうだと言い切れないのは「私」が何度か母親の浮気現場にいたことがあるからだ。
おぼろげな記憶ではあるのだが、母親が父親ではない男性と一緒にホテルのような場所にいた記憶がある。
ただ、皮肉なことにその男性の方が「私」を可愛がってくれていたのも事実なのである。
なんだったら、父親よりもその男性の方が「私」のことを気にかけてくれていたように思う。
大好きなおじちゃんだった。

とはいえ、そのおじちゃんが「私」の父親かどうかはよく分からない。
私が産れるまでは、父親と母親は一緒に暮らしていたようだし、その間は浮気はしていなかったっぽいし。
「私」が産れてから母親は父親の生まれ故郷に引っ越し、父親は1人単身赴任して稼いでいたみたいだし。

私が認識している母親の浮気は、単身赴任している間のことであるし。
そのあたりも踏まえて、希望的観測で父親が実父なのかなと思っている。

どちらにせよ、望まれていなかった子どもであることに代わりはないのだ。

望まれず、期待されず、否定された「私」は自己肯定感なんて育つわけない。

せめて母親が「私」を全肯定してくれる存在であったらよかったのに…とそう思う。

次は母親について書こうかと思うけれど、やっぱり書くのにかなりの気力を使うので、少し時間を開ける必要がありそうだ。

あぁ、疲れた。
簡易的に書いていてこんなに消耗するなんて、先が思いやられるなぁ。






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