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「楽しい」からの挑戦状 ー日常と非日常の境でー

※まずはじめに、この記事では不謹慎論を中心とした「正しい/正しくない」の論争をするつもりは一切ありません。あわせて、過去の同じような出来事の記憶も含みます。あくまで個人が見た一つの景色とお捉えいただければ幸いです。

今、世の中がとても騒がしい。それは決して楽しくない騒がしさ。
現実問題として、仕事がかなり減った方もいるだろうし、楽しみにしていたイベントを諦めなければ行けない方もいるだろうし、一生に一度の機会を奪われた方もいるのだろう。

幸いなことに、わたし自身はまだそれほどの影響を受けているわけではないですが、この不安や不信、嘲り、批判…どうにも昔の記憶が頭をよぎる方、多いのではないですかね?

2011年のお話、あのときのわたしは某大学の生涯学習機関で働いていました。
今でも忘れない、一年で一番電話が鳴るはずの申込み受付の開始日。
大幅に増設された電話が、その瞬間から一つも音を鳴らさなくなりました。

それからの日々は、多くの方のご記憶の通り。
ほんのわずかな出来事だと半ば期待を込めて見ていた事態は雪だるまのように大きくなり、それに比例してわたしたちの日常は非日常になっていきました。

そのときに思ったんですよね。
「楽しんでる場合じゃない」って。

なんとなく、世間がざわざわしているときは「楽しい」ことがはばかられるような気がして。
誰かがどこかで苦しんでいるんだから、自分も苦しくなきゃダメだっていう、セルフ同調圧力。
太陽蟹座・月乙女座の特徴なのか、ついそんな感じで過ごしてしまうんですよね。

でもね、そんな中でも「楽しい」って感じる瞬間は確実にあって。
イレギュラーが続く中、みんなで解決していく過程とか。
どうにもならない状況で、みんなギリギリで助け合っていることを感じた瞬間とか。
本気で心配して、本気で応援している瞬間とか。
いろいろ苦しかったのは確かで、立場的にいろいろな槍玉に上げられましたけど、やっぱり瞬間の「楽しい」は嘘ではなかったと今でも思うわけです。

今の状況、これは「楽しい」からの挑戦状かな? と感じます。
わたしたちは試されているんじゃないか?、楽しいっていう気持ちから。
異例の社会状況なのは確かで、ただ楽観していればいいわけではないのも承知しています。
その中で、日常と同じく「楽しい」ことに敏感であることを通じて、わたしたちは心を取り戻していくのではないかと思っているのです。

あれから9年、わたしたちはまた3月を迎えます。
今回は「楽しい」を味方につけて、前に進む世の中を創れると信じています。

では、またのちほど。

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