やり続けるのだ
こんばんは。
フジミです。
たまーに考えることがある。
なぜ曲を作ったり、楽器を弾いたりするのかということを。
僕はすごく音楽に対しても熱意があるわけでも、才能があるわけでもない。
ましてや自信などもない。持とうとしても持てた試しがない。
それが何故か辞める期間はあっても結局は戻ってきてしまう不思議さがあった。
結論から言うと、宗教的な行為に近いのだと思う。
クリエイティブなことをしているとなんとなく生きていて良い気がする。
極端、それをしていないと不安になる、地獄に堕ちるような気がする。
自分に価値がないように思える。
そんな病的な焦燥感に追われ、それを以てして今に至る。
楽器や音楽単体で楽しいと思ったことは恐らく数えるほどしかない。
どこにも行けなかった僕に居場所を与えてくれたいろいろなライブハウス、あの空間が好きで通っている。
じゃあ、リスナーに徹すればいいじゃん。
と思ったりもした。
だけど自分の世界(曲)を自分の好きな場所でやる。それで誰かが共感してくれたり、楽しんでくれたり、繋がってくれたり。
きっとそれが好きなのかもしれない。
形容し難い動機というものがある。
僕にとってライブハウスが基数、音楽は乗数だと思っている。
この二つが合わさって初めて俺の宗教として成立するのだ。
毎日顔を洗うこと。顔を洗うとさっぱりするが冬の朝は寒くて堪える。できることなら洗いたくない。布団にこもっていたい。しかしやらねば肌が荒れてしまう。そんな感覚。
追われる感覚と創作意欲の競り合い。
僕にとっての活動とはそういうことなのかもしれない。
やめ時というのはいつでもあった。
特にコロナ禍のあの期間はそれが顕著だった。
しかしながらあの期間、最初の頃こそ何もなくゲームなどをやって過ごしていたが、次第に精神的に不安定になり、毎晩涙を流しながら布団に篭り、ついには寝たきりになり日課としていたSNSも三ヶ月ほど放置することになっていた。
回復には時間を要したが、どうにか戻って来れた。
その時に痛感したのが結局、自分は暇を楽しめない人間で何かしてなければ心が安定しないのだ。
別に物を書くなり、絵を描くなりすればいいじゃんと思うかもしれない。
しかしながら僕にはその術がない。
あるのはあの照明と爆音が鳴り響く空間なのかなと思った。
やはり、14歳の頃に親のギターを勝手に引っ張り出してきたのが運の尽きだった。
よくも悪くもそれが"呪い"だったわけである。
はっきり言うとしんどいことばかりだった。
人に言うのも憚られるぐらい嫌な目にあったり、仲違いをしたり、心を病んだり。
弾かないのでいいのであれば僕だってそうしたい時もある。
しかし、僕はその最高な"呪い"で自分が想像できないほど頼もしい人たちや素晴らしい世界に出会ってしまった。
だからきっとまだやれているのだと思う。
これからも場所、人を大切にしてやり続ける他ない。
やめることなんてのはいつでもできるしね。
居場所があり続けるならきっとやり続けることだろう。
もしも何かの拍子に居場所がなくなってしまったら多分その時が引き際なのかも。
僕の寿命が先に来るか、引き際が先に来るのか。
それは誰にもわからない。
もっともっと納得できる物を作らなきゃいけない。それが今の僕の生きるよすがでもある。
いつか自分の作った物で誰かに何かしらを与えたらきっとその日の緑茶ハイもうまいことだろう。
全力疾走でなくてもいい。とにかく自分のペースで走ること。走り続けるのをやめないことを忘れないでいきたい。
あのギターを初めて握った時のあの感じもたまに思い出すことを忘れずに。
人間臭くいこう。
生活をしていこう。
誰かと一緒に歩こう。
きっとそこから何かが作れると思うんです。
今日はこんなとこです。
それではまた!
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