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昔は若かったよねー

こんばんは、フジミです

あと二ヶ月ほどで僕は31歳になるわけですが、20歳そこそこの頃と何が変わったか考えてみた。

ベースの暗さと奇人さはきっと変わっていないのだろう。
しかし、人並みの苦しみと波に揉まれたことにより多少なりともその後の人格形成に影響を与えられたという部分はある。

20歳のころ、僕は社会に出ることが非常に怖かった。そして憎しみさえ感じていた。
まあ、それもそのはずである。
インターネットにはブラック企業問題やら政治不信の話題ばかりでとにかく大人が暗かったイメージがある。

いざ、働いてみるといわゆるブラック企業に属することになり嫌な大人ばかりに翻弄され、精神的に追い詰められここには書けないような行動もしたりもしていた。

だが、同時に"それなり"の生活に憧れていたため、野心も湧いてきた。

まず掲げることとしては食事を取れる環境にあること、精神的健康を得られる環境にあること、雨風凌げる部屋で寝ることができること、文化的に暮らせること。
文字通りこの公約と心中する腹づもりで僕はスーツに袖を通し、就活を開始した。

僕はとある会社の面接を片っ端から受けることにしたが、なんと一発目で受かってしまったのである。
僕を拾ってくれた会社は熱心に僕を使えるようになるまで育ててくれた。
社会で使えるようになるようにスキルも与えてくれた。
この会社にはいまだに感謝している。

やはり、人間に平等に与えられるものというと若さと死であるということを再認識させられた。

さて、就活編はそんなところで内面はどう変わったのかというところ。
・執着を断ち切れた
これは本当にごく最近なのだが、執着を断ち切れるようになった。東洋哲学の本ではよく執着が人を苦しめると書いてある。本当にその通りなのだが、深みにハマるとなかなかそれができないのである。
嫌な記憶やトラウマが蘇る。
フラッシュバック、もとい侵入思考というものはあらゆる人に起こると聞いた。
その時、怒りや悲しみの感情が沸々と浮かび上がる。
まず、執着を断ち切る一歩として主観だが自分の感情に気づくことだと感じた。
僕は今怒っている。
僕は今悲しんでいる。
では、その後どうするかというと僕の場合、原因がどうしようもないとわかった段階で諦め、悟る。坐禅を組んで深呼吸すると尚よい。
一見ネガティヴだが、どうしようもないことはどうしようもないのだから仕方がない。
自分を変えられても他人は変えられないとはよく言ったものだ。

・比較地獄に落ちなくなった
20代、比較地獄である。
あいつは上手いのに。
あいつは羨ましいなぁ。
など、黒い感情がたくさん湧いた経験は皆にもあるはず。
しかし、最近ではそんなことよりも結局、人は人で他人は他人だしなぁ。僕はアンタになれないよ。逆も然り。
の考えでいる。
鶏は鳶を羨んでも空高く飛べないのだ。
きっとそれと同じこと。
人間なので嫉妬の心もたまには出る。
だが以前より小さくなったと感じる。
お互い別の生き物であるぐらい吹っ切れた考えで良いのかもしれない。いずれにせよ黒い感情というのはカロリーを使うものだ。
人を羨むより、自分のアイデンティティを育ててあげたほうが良いのかも、と感じている。

・物事をうまく躱せるようになった
20そこそこの頃というと全て真に受けて精神をやられたり、真面目にやりすぎて倒れたりとそんなことばかりだった。
しかし、自分の裁量がわかってくると上手い手の抜き方、躱し方ができるようになる。
これを培えたのは仕事のおかげかもしれない。
真面目にやることは大変素晴らしいことだ。
サボれという話ではなく、力を入れるべきところに注力すべく、体力を温存すべしと思っている。マラソンも全力疾走では42.195kmなど到底走れない、あくまで自分のペースと力の入れどころが大切である。とフジミは思っている。
嫌味を言われても笑顔で流し「なに言ってんだコイツ」とか「コイツぜってー童貞やろな。」など内心でこき下ろすのがベストだ。
時には流れに身を任せるのも大切なのかも。
なるようにしかならない。

このような感じで20の僕と30の僕は大いに自分の中でも変化を感じた。

あの頃できなかったことができるようになり、あの頃できたことが今はできなくなっただけ。

なんだかんだプラスマイナスゼロで世の中上手くできている。

もし僕の考え方が誰かの参考になれば幸いである。

またねー。

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