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言葉を尽くしたその先で会いましょう―ナショナル・シアター・ライブ『スカイライト』

むかし、小川洋子の講演会に行ったことがある。

小説家の講演会なのに、そこで語られていたのは「いかに言葉が無力か」という話だった。

「たとえば私が真剣に『愛してるよ、だってこういうところが好きだから』と長い台詞を書くよりも、尾崎豊がひとこと『I love you』と歌ったほうが、よっぽど愛が伝わるというものです」

そんな身も蓋もない。笑ってしまった。しかし彼女はこう続けた。

「だから私たちは、言葉を尽くして、言葉のいらない状況を描くのです」

ナショナル・シアター・ライブの『スカイライト』を観た帰り道、ふっと思い出したのは、小川洋子のこの言葉だった。


『スカイライト』は、二時間半にも及ぶ長い舞台なのだが、その内容は三人の役者、というかほとんど二人の会話劇に終始する。友達に誘われ、私はほとんどヒロイン役のキャリー・マリガン目当てで観に行った。ちなみにヒロインの相手役トムを演じたのはビル・ナイだった(彼は初演にも出ていたらしい。今回観たのは再演なので、想定される男性像よりもかなり歳をとっていたのが最初は気になった。が、身のこなしがかっこよすぎるのと喋りのテンポがよすぎて途中から全然気にならなくなってしまったよ)。

レストランの経営者トムと、昔そこでウェイトレスをしていたキーラ。二人はむかし不倫関係にあった。キーラは現在ウェイトレスを辞め教師の職に就き、トムとは会っていない。しかしキーラのもとへ、突如トムの息子エドワードがやってくる。彼は「親父と喧嘩して、家出してきた」と言う。

そしてエドワードが帰った後、キーラの家へトムがやってくる。妻を亡くしたトムは、キーラのことがまだ好きだと言うのだ。

と、あらすじだけ書くと、「成功者で未練たらたらな中年男性と、労働者階級でもう未練はなく困惑してる若い女性」みたいな分かりやすい対比構造に思える。おっさん、うっとうしくないか、と。ちなみに政治的スタンスも、かなり分かりやすく対比されている。トムは保守でキーラはリベラル。

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キーラは大学を首席で卒業したくらい賢い女性なのだが、自分から進んで(おそらく労働者階級が多い学校の)教師という、イギリスでは稼げない職業に就いている。そんなキーラを、ひたすらトムは説得する。「俺のところに戻ってこい、やりなおそう、そしてこんなところに住まずにもっといい暮らしをしよう、才能を無駄にするな」と。

ずっとキーラの家が舞台なのだが、室内は寒く、辺鄙な場所にあることが何度も強調される。この窓の明かりの照明が本当に本当にきれいなのだけど、同時に労働者階級の多く住む団地のアパートだということも分かる。

しかしキーラは首を横に振る。あなたは私のことを何もわかっていない。なんとかやり直せないのか、なぜ別れなければいけないのか。ふたりはえんえん話す。そして会話を進めるうちに、キーラが決定的に許せなかった、トムのある行動を、打ち明けることになる。

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私はこの、「イギリスの階級格差やケアワーカーを軽視する社会構造の風刺が、そのまんま、ふたりの二度と交わらない恋愛関係の描写になっている」構造が、あまりにおしゃれで、グッと来てしまった。たしかにふたりの政治スタンスは違う。わかりやすいほどに対比されている。でもそこをなんとか超えられないのか、どうにか自分の思想や経験を分かってもらえないのか、ふたりは言葉を尽くす。ちょっとヒステリックなくらいに。

それでも、その溝は、決して埋まらない。それは単に階級がどうという問題ではなくて、決定的に、トムがキーラの大切にしていたものを壊してしまったからなのだった。しかしそのトムが恋愛関係で相手を軽視する様子が、そのまんま社会構造の皮肉にもなっている。その重ね方のバランスがちょうどよくて、観ててとても心地よかった。

トムは典型的な、元カノがずっと自分を好きでいてくれると思っているタイプの男性。「いるいる、こういう人」と笑っちゃうような。しかし彼をステレオタイプで退屈だと思わないのは、ひとえに、キーラがトムを愛していることが、言葉の尽くし具合から伝わってくるからだ。キーラとトムの間には、たしかに言葉がいらないくらい愛し合っていた時期があったことが、流暢に語られる言葉の端々から分かるからである。


二時間半、えんえんとふたりは言葉をかわす。愛情を、相手に不器用ながら伝えるために。

しかし言葉は常に届かない。でもその届かなさこそが、愛情というかたちのないものを語っているように見えるし、彼らがもう愛を語らなくていい時間は終わったのだと伝えているようにも見える。

そして、もうここで抱きしめるしかない、という場面で、ふたりは言葉なく抱き合う。えんえん愛情を交わした言葉が、一瞬だけ、途切れる。

そしてこの物語のすごいところは、こんなにもえんえんと愛情を言葉が濁流のように交わされているのに、最後、救いのように、とある行動で、主人公が救われるところだ。そこにあるのは、言葉ではなく行動だった。もちろんトムの行動じゃない。

普通、こんだけ男女のすれちがい会話劇をやってたら、言葉で物語を終わらせたくなる。だけど、ラストシーンに訪れるのは、言葉ではない。もういちど、言葉なくキーラは抱きしめる。

ああ、この無言のラストのために、作者はここまで濁流のような会話劇を描いてきたのか。私はそう思った。言葉のいらない瞬間を描くために、三人の間で大量の言葉が尽くされてきたのである。


個人的な好みの話になってしまうが、分かり合えない物語が好きだ。といっても、「人と人とは分かり合えないよね、フン」と斜に構えたいわけではない。誰かに本気でなにかを分かってもらおうとして、伝えようとして、言葉や行動やいろんなものを尽くして、それでもなおそれは他人には届かない、という話が好きだ。いややっぱ斜に構えてるかな。

でも、私は誰かがなにかを本気で分かってもらおうとするときの言葉が好きだ。心からなにかを伝えようと、あるいはだれかを刺そうとするときの言葉。人生で何度かあればいいくらいの、がーーっと内臓から何かがこみあげてくる、言葉の応酬。当然ながら現実ではなかなかそんな会話を味わえないので、フィクションに求めたくなるのかもしれない。

言葉を尽くして伝えて、伝えようとして、でも伝わらなくて、そして思わず、抱きしめる。まあ抱きしめたところで相手には何も伝わらないのかもしれないけれど、それでも、その一瞬を見るために、私は物語を追いかける。『スカイライト』、よかった。またアンコール上映あるといいな。


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