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源氏物語オタクが刀剣乱舞未履修で舞台『刀剣乱舞』禺伝 矛盾源氏物語を見た感想ーー源氏二次創作としてよすぎない!?

「お、おれのための舞台では」と配信を見ながらうめいた舞台『刀剣乱舞』禺伝矛盾源氏物語、見たよ!! 見てきましたよ!!! なぜ「おれのため」と思うかといえば、私はこれまで刀剣乱舞カルチャーに一ミリも触れてこなかったのですが、それにもかかわらず「源氏物語×宝塚×日本のフィクション文化」という文脈が自分にドンピシャだったからです。

私は書評家として普段は活動しているんですが、古典の解説本を出していたり(国文学で大学院を出ているので)、古典の解説連載を持っていたり、まあ古典および源氏物語は自分のバイブルだ!! と自負しているわけです。

(『刀剣乱舞』の舞台を見ながら「実質……妄想古文……ってコト!?」って呟いてしまった。ごめん。ファンの方怒らないで)。

ついでに宝塚を普段見るのも好きで、今回も「彩凪さんと七海さんの殺陣が見たい♡」がほとんど鑑賞理由の大半を占めていたという事実は否めません。ちなみに末満さんの作品はミュージカル『ヴェラキッカ』のみ配信で観たことがあり、それがすっごく良かったので、刀剣乱舞舞台もどこかでちゃんと履修したいなーと思っているところでした。

しかし実際に鑑賞してみると………びっっっくりしました。「え、刀剣乱舞ってこんなハイコンテクストな話なの!?」「こ、これどこまでファンの方着いてきてるの!?」「こんな複雑な話が日本のチケット取れない2.5次元舞台(※私は2回くらいチケット応募したんですがどっちも外れちゃったよ……)!?!?」と自分が舐めてかかっていたことに気づいたわけです……。いやだってゲーム原作の2.5次元舞台で源氏供養の話出てくると思わんくて……艦これみたいな話だと思ってたよこちとら!!

というわけで、前置きが長くなりましたが、古典オタク(※刀剣乱舞未履修勢)が見る舞台『刀剣乱舞』禺伝矛盾源氏物語の感想です。ネタバレとか一切気にしないのでそのつもりで読んで頂ければ~! あとあんまりあらすじの説明などしないので、あらすじはググってください(いやこれ舞台見てない方読まないと思うが)。


1.刀剣乱舞と源氏物語の共通点ー「キャラクターに文脈が付帯する」受容のあり方

ええと最初から『刀剣乱舞』を知らなかった話から始まるのですが、そもそも主人公の「刀剣男士」たちは、刀の単純な概念擬人化というのではなく、「付喪神」なんですね!?(今回の舞台を見てはじめて知った)。

この設定が私はかなりキモなんじゃないかと思っていて。そもそも彼らは名刀、つまり歴史に名を残す有名な刀なわけですが、この「歴史に名を残す」ってなんじゃい? って話があり。つまり「菊一文字則宗」と聞く人が聞けば、一瞬で「沖田総司のやつ! 店主が特別に売り渡したんですよね」というエピソードが連想されるわけですが、それはつまり「菊一文字則宗」という言葉に”沖田総司”をめぐる文脈が付帯しているんですね。

この文脈が付帯しているという考え方は、古典文学を読み解く上で重要で。たとえば日本の和歌を考えてみても、「あかねさす」というと「紫」がくる、という枕詞の関係を授業で習った人は多いでしょうが、これはなんでこんな文化が成り立ったかといえば、「あかねさす」とはそもそも”朝日が上る時”という意味を内包していて、だからもう”朝日が上る頃の空って赤だったり紫だったりするよね”という文脈をひとことで付帯しちゃっているわけです。だから枕詞なんてものができているんですね。

そう考えると、刀剣乱舞に出てくる刀たちは、刀の名前=概念が人間の形になった存在でありつつ、同時に、その刀のエピソードがたくさんの人に伝授されるなかでできるエピソードを内包した妖怪でもある。たぶん。単に刀そのものなだけじゃなくて、刀がもつ文脈を内包した存在でもある……んですよね。たぶん。「持ち主とのエピソードを織り込んだ存在」みたいな。だから付喪神、なんですよね。

一方で、『源氏物語』もやっぱり日本で最も多く「文脈」になっているフィクションではないでしょうか。源氏香や投扇興といった遊びに始まり、和歌に能に小説に漫画に舞台に、源氏物語をモチーフにしたエンタメがこの国にはどれほどあるのか。ある意味、日本で源氏物語くらいメディアミックスや二次創作を経験したフィクションって他にない。「紫の上」という言葉を使えば「光源氏というロリコンに愛された悲劇的な美少女」という文脈が即座に引っ張ってこられるし、「六条御息所」という言葉を使えば「嫉妬ゆえ生き霊として憑いた女性」という文脈を付帯できる。

これってメタ的にみると、源氏物語のキャラクターは、刀剣乱舞における刀剣男士のあり方とほとんど同じような受容をされている……と理解することはできないでしょうか。つまり源氏物語のキャラも刀剣男士たちのキャラも、(伝承であれ物語であれ)なんらかのエピソードを体の内側に付帯する存在であるんですよ。

そしてさらにメタ的な考え方をすると、「刀剣乱舞の2.5次元舞台化」というものがそもそも「刀文脈を付帯したキャラクターを、生身の人間が演じる」というもので。今回の『刀剣乱舞禺伝矛盾源氏物語』のキモとなる「源氏物語の文脈を付帯したキャラクターに、紫式部周辺の歴史上の人物たちがなっていた」ことと構造的にまったく一緒なんですよね。

「刀剣乱舞」という物語は「刀の持ち主とのエピソードを付帯する“刀の概念”(=刀剣男士たち)が、そのエピソードではない場所で勝手に動き回る」話ですが。今回の源氏物語のキャラたちもまた、「源氏物語のエピソードを付帯する“キャラの概念”が、源氏物語には描かれていない行間で勝手に動き回る」存在なのでした。……いや、めちゃくちゃメタにメタを重ねててびっくりしましたよ私は!! 複雑!! 

そしてさらにメタなこと言うと、これって宝塚の生徒さんたちもまた、芸名(=男役の自分)の文脈を付帯しながら生身の人間を生きてるわけで……メタ的ですよね……。


2.実は源氏物語供養の話だったー能楽『源氏供養』オマージュ登場

舞台を見てない方はこのへんで「どゆこと!? どんな話!?」って思われたかと思うんですが。いや私も配信見ながら最初「どゆこと!?」って目をまんまるくしましたよ。平安時代にやってきた刀剣男士たちが見つけたのは、小少将の君(『紫式部日記』にも登場する紫式部の同僚)が弘徽殿の女御と呼ばれているところだったーーそんな場面からこの物語は始まるんです。つまり文字通りこの世界では、紫式部の周辺人物たち(現実)が、源氏物語のキャラになってしまった(虚構)。そして虚構であるはずの源氏物語のキャラの世界の方が、「現実」になってしまったのです。

虚構の世界と現実の世界が反転してしまった世界。この世界を正すために、物語に矛盾を与えようとするのが、どうやら今回の刀剣男士たちのミッションらしい。

しかしだんだん舞台を見てゆくと、どうやらこの世界は『源氏物語』の世界ではないらしいぞ、とわかってきます。

というのも、舞台上の人々が「紫式部は『源氏物語』を書くという罪を背負ったため成仏できない」と言い出します。この時点で『源氏物語』好きな方は分かるはず。そう、この舞台は、『源氏物語』というより、『源氏物語供養』の世界なんじゃん!? と。

『源氏物語供養』とは何か。それは能楽の演目にもあるのですが、源氏物語の時代から下ること中世、「好色なフィクションを書いた紫式部は地獄に堕ちて成仏できてない」という伝承が伝わっておりました。嘘をついて人々を惑わす女、というイメージとでもいいましょうか。ちなみに能楽の演目では紫式部の霊に「供養してくれ」といわれたお坊さんが彼女を弔い、紫式部は菩薩の生まれ変わりだったことがわかる……というあらすじで演じられています。

今回の舞台では、僧侶ではなく、とある名もなき『源氏物語』オタクの男性が供養しようとする役割を担っていました。彼が、紫式部の成仏を心配するあまり「嘘を書く罪を背負った紫式部を成仏させるために、『源氏物語』はフィクションじゃなくて現実だったことにしなきゃ!!!」と考えて作り出した世界ーーつまり紫式部の供養のために「物語と現実が反転した世界」は生み出されたのでした。

そう、刀剣男士たちが入り込んだ世界は、とある紫式部オタクの男性の手で紫式部の罪をなくそうとした、『源氏物語供養』の世界だったのです。

この現実世界でのオタク男性は、『源氏物語』の光源氏のキャラクターになっています(夢小説やん……)。そして紫式部はよりにもよって藤壺のキャラクターに配置されるのです。藤原彰子は六条御息所に。紫式部の同僚である小少将の君は、弘徽殿の女御に(私は笑ってしまったんですが、やっぱ紫式部オタクからすると自分より仲の良い女友達を、弘徽殿の女御という「悪役」にあてがいたくなる、ってことなのかな)。

私としては、紫式部が藤壺だなんて一番キャラ違うし絶対に紫式部は藤壺に自己投影するような女じゃないだろ!? とツッコミ入れたすぎるのですが、しかし紫式部ファンの男性はそんな冷静で彼女を見てはいない。そもそも、「供養」すら、実は紫式部が頼んだものではなく、後世の男性が作り出した文化だったのです。オタクが勝手に「僕が紫式部を救わないと!」と先走った結果こんなことになっちゃったんですが、いらん暴走すぎる。しかしそんなこと彼には見えちゃいない。こうして光源氏というキャラクターを付帯しながら、紫式部ファンは暴走してゆくのでした。

物語を現実にしてくれなんて誰も頼んでないのに、なぜ「いや物語よりも現実のほうが価値高いでしょ!?」って言い切ってしまえるのか。

それはある意味、日本の歴史で「フィクション」が長い間「女子どもだけが楽しむもの」とされてきた歴史の反芻なのかもしれません。


3.女たちが斬る光源氏ー『源氏物語』二次創作としての『刀剣乱舞』禺伝

しかし現実の体を得た『源氏物語』のキャラクターたちは、次々に光源氏や源氏物語の展開への恨みつらみを語り始めます。ーーなぜ私は、私たちは、あのようにしか描かれなかったのか、と。光源氏というクズ男に翻弄される女たちとして描かれた私たちとは、何だったのか。

そして女たちが光源氏を刺そうとするシーンは、痛快としか言いようがない。私が見たかった源氏物語はこれだったのかもしれない、とすら思いました。

しかし実際に光源氏および紫式部オタクの男性を刺したのは、刀剣男士の1人である歌仙でした。が、この歌仙を女性が演じているっていうのも、なんともエモい。

源氏物語供養という文化が男性たちによる紫式部という天才作家への蔑視だったと言えるのと同じように。源氏物語を現実にしようだなんて考える男による今回の世界もまた、女性蔑視の意匠そのものだった。しかし紫式部も、彼女の生み出した女性キャラクターたちもまた、言うのです。「私たちは物語の中にちゃんと存在している」と。それは決して男性たちに踏み躙られることのない、たとえば紫式部がいくら父に抑圧されていたとしても源氏物語を書くことをやめなかったことと同じ、物語と共に女性たちが戦った軌跡だったのでした。

そう、男性性に抗う女たちの話なんですよねこれ。だからたぶん日本史上初めて「女の手で書かれたホモソーシャル」こと雨夜の品定めの場面から物語が始まる。なので(繰り返しますが)物語のなかで刀剣男士を演じるのが女性なのは、私としては、とても救われた思いでした。平安時代に武士でもない女が男性を斬るだなんてちょっとリアリティがないかもしれないけれど、ここに刀剣男士というギミックを挟んだら、「女の手による光源氏殺し」が可能になるんですよ。

女性の手で女性が救われ、そして女性の刀で斬る男性性の物語になっていた。それが『源氏物語』二次創作としてあまりに美しかった。単純に源氏物語ファンとしても嬉しかったです。ああ、平安時代から1200年経ってやっとこの二次創作がメインカルチャーとしてお客さんが呼べるようになったんだ、って。

女性の観客たちが見る、全員女性が演じる舞台で、この話が演じられたこと自体が本当の意味で「源氏物語供養」じゃん、って感じました。


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