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記憶のあしあとをたどる。
自分の記憶を思い通りにコントロールできるようになりたい、と思うことがある。
でも、例えば「暗記パン」というひみつ道具を使ってテストの範囲を丸暗記しようとしたのび太くんのような、そんな使い方がしたいわけではない。
そうではなくて、他でもない自分が生きてきたことを証言してくれるはずの記憶の曖昧な態度に辟易としたり、少しずつ薄れていく友人や恋人との思い出を惜しく思ったり、思い返したくもない過去に捕われて眠れない夜を過ごしたり、そんなことの積み重ねに、ほんの少しだけ疲れてしまったのだ。
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でも、過去と向き合い続けることで、少しだけ分かってきたことがある。
記憶は「過去を覚えている」ためにあるのではない。
きっと「過去と出会い直す」ためにあるのだ。
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小説家の小川洋子さんは、心理臨床家の河合隼雄さんの死を追悼する文章で次のようなことを書いている。
... 物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、意識と無意識を結び付け、自分を一つに統合できる。... 物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。...
- 小川洋子・河合隼雄「生きるとは、自分の物語をつくること」
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自分の中に統合されていない過去と再び出会い、物語を紡ぎ直すために記憶があるのだとすれば、必要なのは記憶をコントロールすることではない。
きっと、自由に遊ばせてあげることだ。
そして、そう、例えば、記憶が、過去という広大な公園を自由に泳ぐ子供のようなものであるとして、私たちに求められるのは、子供の思うままに道を任せ、その半歩後ろをそっと見守りながら付いていく、そんな受け身の姿勢なんじゃなかろうか、と、絶賛子育て中の母親みたいに、そんなことを考えたりするのだ。
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子供が気まぐれに歩む先々では本当に色々なことが起こるのだろうと思う。いいことも、わるいことも。うれしいことも、かなしいことも。
こかげに落ちているドングリを夢中で集めたり。
ケンカしている幼稚園の友達と出会って仲直りしたり。
中に何が潜んでいるかも分からない落ち葉のベッドに飛び込んだり。
道ですれ違ったおじいさんの飼い犬に吠えられて思わず逃げ出したり。
でも、私たちが目を離すことがない限り、子供は安心して前に進み続けることができる。喜んだり、泣いたり、そんな偶然の出会いを過去の世界の中で重ねることで、子供は少しずつ自分自身の言葉を獲得していく。
そして、出会い、向き合い続けることで獲得された言葉は、きっといつしか僕たちの物語となり、今の世界をしなやかに生き抜くための力に変わってくれるはずだ、と、根拠はないのだけれど、今は何となく、そんなことを信じていたい気がしているのだ。
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だから、私は、今日も、明日も、その次の日も、記憶の背中を見守るようにして、ていねいに、そのあしあとをたどってゆこうと思う。