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ゆれながら、かがやいて。

 この小説について何かを書き記すことが本当に「正しい」ことなのか、今でも確信を持つことができずにいる。真冬の朝の白い吐息のように淡く儚い言葉で紡がれた彼女の世界は、それを幼稚な知性と感性とで無理に捉えようとした瞬間に、すっと私の手を逃れてどこかへと飛び立ってしまう。彼女の物語に触れたという記憶は、夢と現の曖昧な境界線上で混じり合い、少しずつその輪郭を失っていってしまう。本書の「あとがき」を記した文学評論家の川本三郎氏は、読者に次のような忠言を加えている。

感動的、素晴しい、といった賛辞を不用意に使うのがはばかられるような小説である。どこか森のなかに身をひそめている美しい動物を見に行くように、読者は、この小説に静かに、息をひそめて近づいていかなければならない。ようやくその姿を目にしても、決して発見したなどといいたててはならない。

 もし、この小説について何かを書き留めようとすることが即ち無作法に「発見したなどといいたて」ることであるならば、私は大きな過ちを犯していることになる。それでもなお、実態の見えない衝動に駆られて何かを綴りたくなるような、そんな不思議な力を纏う作品である。

 カナダの女性詩人であるアン・マイクルズによる小説「儚い光」について書きたいと思う。

 物語は、当時七歳の主人公であるヤーコプ・ビアが、ナチスによるホロコーストで敬愛する両親と十五歳の姉、ベラを失う悲惨な場面から始まる。惨劇を奇跡的に生き延びたヤーコプは、ポーランドで古代遺跡の発掘をしていたギリシャ人の考古学者であるアトスに発見される。アトスの故郷であるギリシャへと連れられたヤーコプは、海と山に囲まれた自然豊かなザキントス島の丘の上の一軒家で、アトスと共に戦争と戦後の時代を共に生き抜いていく。


 記憶とは何か。ヤーコプをヤーコプとして存在せしめるのは、彼の過去の記憶である。父親との、母親との、ベラとの記憶は、夜の帳の影に身を隠すようにして、平穏を取り戻しつつある彼の眠りに入り込んでくる。彼は、ベートーヴェンの楽曲を愛するベラの感情豊かなピアノの音色を忘れることができない。彼の背中に文字を描き出す彼女の優美な指使いを忘れることができない。もし彼が忘れれば、彼女は永遠に損なわれてしまう。大好きな姉と共に過ごした過去は、永遠に葬られてしまう。何より、彼は、彼でなくなってしまう。移住先のトロントで英語を学ぶヤーコプは、ポーランド語やイディシュ語以外の言葉を覚えていく彼の過去が沈黙を深めていくことに対して、安堵と恐怖が混じり合う複雑な感情を抱く。彼の記憶は、母国語と結び付いた記憶だからだ。

 アトスはヤーコプに言う。

きみが眠っているあいだにきみの記憶を盗んで、わるい夢をすっかり抜きとってしまいたいよ。

 しかしながら、同時にこんなことも繰り返し伝えるのだ。

きみが思いだすのは、きみの未来なんだ。

 アトスは、ヤーコプに何を言おうとしたのだろうか。ヤーコプは、アトスの言葉に何を思ったのだろうか。彼の記憶は、羅針盤を持たない彼が未来を生きる拠り所であり、同時に、彼を過去から攻撃しようとする破壊者でもある。

 言葉とは何か。ヤーコプが手に入れていくギリシャ語や英語は、時には彼を記憶から解放する救いとなり、時には彼を疎外する悪魔となり、彼の世界を確かな抱擁力で包み込んでいく。植物や鉱物の話(アトスは古植物学を専門にする考古学者だった)や、南極遠征の話(彼らは南極点を目指したスコット隊のウィルソンを憧憬していた)。繊細な表現が生み出す豊かな世界、地球のように大きく、時のように延びていく広い世界の存在を知った彼は、彼の歩みを物語として紡ぎ出す言葉を手に入れていく。詩的な言葉の世界で、彼は、父親と、母親と、ベラと、邂逅することができる。現実を超えた非在の時へと旅立つことができる。

“ 影の過去 ” それは現実には起こらなかった事柄で形づくられる。目に見えないそれは、雨が石灰石を溶かすように現在を溶かす。いわば “憧れの伝記” である。それは磁気のような力、一種の霊的な推進力によって、わたしたちをある方向へむかわせる。このようにして、人は解かれてしまうのだ。

 私は彼の言葉に、ティム・オブライエンの名著「本当の戦争の話をしよう」に収録された短編「死者の生命」の中に登場する主人公の「ティム」と同じ心性を見る。彼は、彼が愛したリンダを物語の力を借りて蘇らせようとする。

一人の作家として、私はリンダの命を救いたい。彼女の肉体ではなく、彼女の命をだ。... お話の中では、私は彼女の魂を盗みとることができる。私は、少なくとも短いあいだなら、絶対的にして不変のものをよみがえらせることができる。大事なのは表面ではない。内側に生きている存在の証こそが問題なのだ。お話の中では奇跡は起こりうる。リンダはにっこりと微笑んで起き上がることができる。

 彼の記憶と想像力と言語とが結び付いて、頭の中にリンダの霊のようなものが宿される。そこにはたしかな生の息吹の幻影がある。

 ヤーコプに話を戻そう。彼の言葉で綴られた物語 - 書斎の奥に仕舞い込まれていた彼の手記は、彼の死後、彼を敬愛する一人の少年の手で掘り起こされる。こうして彼は「死」という宿命を超えて、私たちの前に姿を再び現すのだ。

 積もり積もって丘となった灰は、掬い上げられて生命が再構成されるのを待っている。図書館の上方の本棚にある古い本は、誰かがそれを手に取って読み始めてくれるのを待っている。トロントの町で、夜の静寂と孤独に耳を澄ませながら、彼は過去に対する向き合い方を悟る。

わたしは、それが自分の真実だと感じた。わたしの人生は言葉のなかにではなく、ただ沈黙のなかに貯えうるだけだと。... だがそうは言っても、わたしは沈黙によって捜す方法を知らなかった。だからわたしはいつもほんのわずかずれていた。... わたしはベラのすぐ近くにいたが、ふたりのあいだにはつねに数インチの壁があった。... 詩を書くとは、そのずれを逆手にとることだと、わたしは考えた。... 喪失が言語をこわし、言語そのものとなるように。この空白部分、染色体の損傷部分を、言葉で、ひとつの像で、分離できたなら、そうしたら、人は名づけることで秩序を回復できるかもしれない。

 そうして彼は、詩の力を借りて、忘却に抗い、過去に戻っていく。彼がアトスに発見されたビスクーピン遺跡に、ザキントス島の家に、ナチスの隊員に破られたドアに。ひとつの過去、ひとつの記憶、ひとつの物語を取り戻すたびに、彼は少しずつ彼自身を取り戻していく。幸福で儚い、非在の世界での束の間の邂逅。ヤーコプは言う。言葉には破壊する力、省く力、消し去る力があることを、わたしはすでに知っていたが、詩の言葉には復活させる力がある、と。

 身体とは何か。ザキントス島からアテネに向かう道中、内側に閉じ籠ろうとするヤーコプを現世に引き止めたのは、彼の肩に掛かるアトスの腕の感触だった。息づく闇の中に生きるヤーコプを救ったのは、愛するミケーラの肉体だった。愛する人と身体を重ねることで、彼は初めて誰かに理解される歓びを知る。輪郭を失った生命に確かな安らぎを与えるもの。カタチを纏わないものに新たな可能性を与えてくれるもの。そう、エイミー・ベンダーによる短編集「燃えるスカートの少女」の一編「癒やす人」に登場する火の手の少女と氷の手の少女が、二人の手を重ねることで生身の手を創り出すことができたように。

 読み進めれば進めるほど、繊細に綴られた一文一文が細い糸となって撚り合わされ、繭のような形を少しずつ纏いていく、そんな物語だと思う。一本一本の糸は、ヤーコプとアトスの間に、相手の生命を想い合う確かな関係性を紡ぎ出し、織り成された糸で作られた繭は、彼らを穏やかに包み込むシェルターとなる。アトスはヤーコプに言う。

わたしはきみのクンバロスに、代父になって、きみやきみの息子たちの結婚式で介添え役をしてあげるよ ... わたしたちはお互いを支えあっていくんだ。そういうことができないのなら、わたしたちは人間といえるだろうか。... 小さな偶然は防ぎようがない。些細なできごとが共謀して宿命になっていくのはね。... しかし、もっと大きなこと、人間にとって価値のある事柄、目に見えるほど大きな事柄なら、確実に支配できるんだ。

 確かなものなど何一つように思える世界。時として、記憶は冷酷で無情な破壊者と化す。言葉は人を死に至らしめる凶器となる。身体は精神の統制を失い、暴走を始める。何の保証もない、寂しくて冷たい世界で、私たちは生かされている。

 それでも、誰かの存在の承認となることはできる。愛する誰かの生命を蘇らせることもできる。温もりを共有し、寄り添うこともできる。ヤーコプが言うように、戦争は果実の腐った部分であると同時に、それとは切り離せないきれいな部分でもあった。人間は他の人間に「対して」どんなことでもやるし、他の人間の「ために」どんなことでもやる、そのことを立証したからだ。私の、あなたの、誰かの傷と向き合うということは、無機質で拠り所のない世界で、小さな光の仄めきの可能性を信じて進むこと。可能性に裏切られてもなお、その可能性を信じようと試みること。水面で儚くゆれ動く光、過去に一度とないその一瞬の煌きを捉えて、人の可能性を明るく照らし出そうとすること。愛を感じ取ることのできない世界では在りませんように。そんなことをひそかに願い続けること。

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ArtWork ...
Photo at Kugenuma Coast, in Fujisawa City.
Made of Acrylic Panel.
Made by UV Printing and Laser Cutting.
In Honor of " Fugitive Pieces " Written by Michaels, Anne.