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見えなくても当事者目線

「当事者目線という言葉をよく聞く。それは確かに正しいと思う。

とは言え、当事者同士でも意見が異なることもしばしば。


先日障碍者の芸術鑑賞についてのシンポジウム(?)みたいなのに参加した。それこそ
障害当事者がいたほうがいいんじゃないかという事で、私は賑やか氏の枯れ木の一本
として参加した。

最後の質問コーナーで、ある視覚障碍者が「登壇者がどこで話しているか知りたいか
ら、初めにマイクなしで声を出して、どこで話しているか教えてほしい」と言ってい
た。マイクを使った朗読劇やコンサートで演者がどこにいるのかは気になるけれど、
こういった発表の場ではたいてい演者は部隊の真ん中にいるだろうし、発表は内容が
重要で、別にどこにいるかは、私はどうでもいい。

質問していた人は「もっとゆっくり話してほしい」みたいな事も言っていた。確かに
発表している人の中には大勢の人の前で話すことに慣れていなさそうな人もいた。要
するにこういうところに出てきてしゃべるんなら「話し方教室」にでも行けという事
なのだろうか。これは視覚障碍者に対する配慮がどうのという話ではない気がする。

それはともかく、こういう場面で発せられる声高な意見が共通認識になってしまうの
は恐ろしいなと思った。

今後いろいろなところで「今日は視覚障碍者がいるから、とりあえずマイクなしで発
声して、自分のいる場所を知らせてからスピーチに入らなければいけない」なんて思
われてしまうのだろうか。
そういう人もいるけれど、少なくともその配慮、私はいらないから(笑)


ところで、視覚障碍当事者間で一番意見が分かれるのはたぶん外出の補助なのではな
いかと思う。

スマホのアプリや補助具などを使って、とにかくどうにか自力歩行をしたい人。盲導
犬派、ヘルパー派。どれも一長一短である。

アプリなどを使った自力歩行は最終目的地の近くまで来れても、入り口が見つからな
かったり、建物の中で迷子になったりする。結局人に聞いたりしなければならなくな
るうえ、目の前の障害物に対する集中も切らしてはいけない。自由度は高い分、全部
自己責任でストレスフル。

盲導犬は素晴らしいバディーになれるけれど命を一つ預かるんだから責任重大。面倒
をきちんと見るのは当然。時間を決めて餌をやったりトイレに行かせたり、お風呂に
入れたり。しかしこれは見えない人にとってはかなり大変。小さい子供が一人いるよ
うなものである。盲導犬ユーザーでもこれをさぼりがちな人がいて、臭くなった犬を
平気で電車に乗せたりする人もいるとか。
犬が自分の言うことを聞かないと怒っていた人、よく聞いてみたら犬の世話は家族が
全部やっていたという事だった。動物は面倒を見てくれる人になつくんだから、世話
してくれないユーザーのいう事なんて聞いてくれないよね。
とにかく犬は動物なので世話が大変なのと、入れないところがある。いくら補助券法
があるとはいえ、毛は飛ぶのでカウンターや座敷のお店などには入りにくいし、病院
でも入れないところがある。

ヘルパーさんは融通も利いて一番いいけれど、事業所に何日か前に予約しなければな
らないので、急に買い物に行きたくなった時などには対応してもらえない。以前にも
書いたことがあるが、5000円ランチや映画やコンサートの時は二人分払わなければい
けないのかなど、微妙な問題もある。補助が出るとはいえお金はかかる。私は一回し
か会ったことはないけれど、仕事をしてくれない人がいた。私の名前も行く場所も把
握しておらず、挙句の果てに電話も持っていなかった。時間で行かなければならない
からお願いしたのに病院の予約に遅刻した。ガイドヘルプをお願いした意味のないヘ
ルパーさんでした(涙)

「当事者」がどんな選択をするかは十人十色だが、いずれにしても選択肢があるとい
うのはありがたいことだし、どれも私たちの生活の質を格段に上げてくれているのは
確実である。

最近は盲導スーツケース(?)や足につけるタイプのナビが開発されているようだが、
まだ開発途中で実用にはなっていないのか、話には聞くが実際に使っている人は聞い
たことがない。

今後自動運転の車なんかができたら、もっと行動範囲が広がっていくのかな。


同じ視覚障碍者でも、その人が生活してきた背景とか受けてきた教育、経済状態なん
かによって、それぞれの「当事者目線」が生じてくる。そしてどんな「当事者」にも
それぞれの「当事者目線」があるはずである。


所で、見える人と食事に行ったりすると私への配慮について晴眼者のほうに聞いてく
る人がいて、戸惑うことがある。見える人は「私に聞かれても」という感じになる。
やっぱり見えない人とは目を合わせられないから話しかけづらいのかな。

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