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ICUC第27回(篭もって第21回)2020.8.16【誕生日の1日は人生の縮図である:40代最後の1日に想うこと】

動画の収録は49歳最後の日。今日は2020年8月17日。
角田さん50歳のお誕生日!おめでとうございます!

今日の推薦図書
『夜と霧 新版』ヴィクトール•E•フランクル著、池田香代子訳(みすず書房刊)

(そんなわけで今回だけ画像変えました)
角田さんのSNSもOfficial SiteもYoichiroに変わってますね。14時からのSeasoningでは改名とのこと。ヨウが苗字みたいな感じでヨウさんと呼んでもらうんだとか?!!そして定着しなかったら戻すかもとか(笑)

動画 (ICUC先行公開後に一般公開)
ICUC#21「誕生日の1日は人生の縮図である:40代最後の1日に想うこと」
おはようございます!8月16日の動画です。
この8月17日で50歳になります。

[CAMPFIRE] ICUC 知的好奇心向上委員会

ICUC note

ICUC主宰:ヨウイチロウwebサイト

mireva channel

動画の内容
・明日は50歳の誕生日
・30歳の誕生日は人生の縮図
・30歳の僕の誕生日は…
・40歳の僕の誕生日は…
・30歳のみんなの誕生日は…
・50歳の僕の誕生日は…?
・未来は今思うこととズレていく
・夜と霧
・具体的な経験があなたの生きる意味
・50歳の僕の生きる意味
メモという名の私の感想

明日は50歳の誕生日

 おはようございます。角田陽一郎と申します。ICUC知的好奇心向上委員会の8月16日版でございます。私は8月17日が誕生日でございまして、2020年8月17日でちょうど50歳になるものですから、この動画はその前日ということで40代最後の動画でございます。
 ということで49歳の最後の動画で何を喋ろうかななんて思いながらこの収録を今やってるわけでございますが…

 あれですよ。誕生日というのは皆さんどこまで気にするかと言うのは本当にそれぞれだと思うんですけど、僕は誕生日というのは結構気にしてたりして、子供の頃から。メモリアルなことを気にするかどうかってことだと思うんですけどね。全然「あ、忘れてた!」みたいな人もいらっしゃるじゃないですか。僕としてはこの動画で結構言ってるかも知れないけど祝う祝われるとかじゃなくて、単純に自分の道標みたいな意味で、やっぱりお正月とかいうのもそうかも知れないし、4月の期初めってのもそうかも知れないけど、誕生日ってのが8月にあるってことで、そこで今年の自分はどうなのかなーってことを考える。皆んなそうだと思うんですけどね。
 そんな中で私は50になると言うと、いつもだったらこの1年はみたいな総括なんだけど、10年はみたいなことになりますよね。40代が若いのかどうかはともかく、50代は少なくとも若くないんだよなってことだけは分かっているので、ついに突入かーという感慨深いものがあるなと思っています。

30歳の誕生日は人生の縮図

 30を超えてこの話をどこかで読んだ…秋元康さんが書いてたのかな、違うと思う…これね出典がどこが調べれば分かるのかも知れないですけど、どこかで読んだんです。なるほどなーと思ったんですけど、30歳の誕生日の1日を皆さんはどんな風に過ごしました?あるいはこれから過ごしますか?みたいなことってあるじゃないですか。20歳でも30歳でも40歳でも50歳でも60歳でも70歳でも80歳でもあると思うんですけど、30歳の誕生日の1日をどう過ごすかということがその人の人生の縮図になっているって言うことを書かれてたのを読んで、へぇーと思ったんです。

 これ何かというと、例えばメモリアルなものを気にする人はやっぱり誕生日の日をメモリアルな日に飾ってるし、全然気にしない人は日常をこなしていつの間にか過ぎてるみたいな。という意味でその人がその1日をどう過ごすかっていうことを選択すると、それはやっぱり縮図になってるって話なんですよね。それでなるほどなと思って。
 20歳の時は当然そいういう風な縮図かも知れないけど20歳って…あ、すいませんアラームが鳴っちゃいました(笑)。はい止めました。──20歳の時ってまだ自分のやりたいことがあってもやれなかったりしたりするから、そんなに縮図にならないんですって。ところが30は自分の生き方をある意味コントロール出来てる。ということで30歳なんだってことが書いてあったんですよ。

30歳の僕の誕生日は…

 僕はその話を30超えてから知ったんだよな。自分は30歳のとき何やってたんだっけと思い出したら”本編の編集”をしてました。本編っていうのは…30歳のときはまだ金スマもやってない、金スマが始まるってとき。「さんまのスーパーからくりテレビ」のロケを僕らはサブ出しと言ってるんです。ご長寿早押しクイズとか、玉緒がゆくとか、ファニエスト・イングリッシュとか、からくりビデオレターとか、それがサブ出し。サブから出すから編集と言って、それを一回さんまさんにスタジオで見せて皆んなで回答、早押しクイズをやったのを、次に一時間の”本編”にまとめるのを”本編編集”って言うんです。その本編編集を編集室に篭ってやってたんです。スタッフはオペレーターさん、TKさん、ADさんがいたりして。「あぁそっか、30歳って言っても特に何もなく編集やってるんだな。」なんて思いながらね。

 本編ってのが僕っぽい。つまりロケにバンバン行ってる人もいると思うんですけど、僕は比較的早く総合演出みたいなものになっちゃったから本編をやってる回数が多いんですね。だから部下や後輩のスタッフがロケに行ったものをまとめて一本にする本編をやってるというのは、すごい僕っぽいなぁなんて思いながら。
 つまり現場といってもロケ現場とか外、海外に行ってるってことじゃなく、編集室に篭ってるのが僕の人生なんだな、なんて思ったわけです。

 30歳になる直前は何やってたかというと、ムーンライダーズにサーティっていう歌があって。ムーンライダーズのベーシストの鈴木博文の作詞の曲なんですけど、サーティって歌は4分何秒の歌なので、この曲を聴き終わるとちょうど30歳になるっていうので、僕は編集中にヘッドホンをつけて11時56分ぐらいからサーティを流し、終わって、「あぁ30歳の誕生日」だなんてことをやっておりました(笑)
 それで別に誰にも祝われずにこのまま終わるんだなぁなんて思ったら、12時過ぎたぐらいで(編集室だからずっと朝までやってますからね)そしたらこうADさん達が急にずらずらずらーっとやって来て、ケーキを持ってきてくれて、祝ってくれました。うん、もう、すごいいい思い出です。楽しかったなー。
 だからそういう1日を過ごして自分としては30歳の誕生日っていうのは編集室に篭ってる、本編を編集する。だけど現場で祝ってくれる人もいる。なかなか楽しかった。別に派手でもないけど。つまりそういう人生なんだななんてことを思ったわけです。

40歳の僕の誕生日は…

 これが面白いのは、ということでそれから10年、40歳になるじゃないですか。40歳の誕生日ってまた感慨深いですよね。30代の時はまだ自分のこと若いと思ってるけど、40代はもうまごうことなきオヤジだな、おっさんだななんて思いながら。
 40歳の誕生日はどう過ごすのかななんて思ってたら、その時はもうプロデューサーだったので本編の編集とかもう全然やってなかったんですよ。やってなかったんですけど、たまたま、8月ってお盆なのでディレクターとか人のやりくりが回らなくなっちゃって、そこでプロデューサー、僕の同期と一緒にやってたんですけど、その同期の人が「角ちゃん、ちょっと本編一回やってくんねぇかな」と。人が足りないからって言われたんで、軽く「いいよー」って言ってたんです。
 ということで、40歳の8月17日は、つまり30歳と全く同じっていうシチュエーションっていうか、編集室で編集してました”本編”を。

 ちなみにその番組は「さんまのからくりテレビ」じゃなくて「EXILE魂」という番組だったんですけど、30歳と全く同じことやってるじゃんと思って。この格言ってやっぱり当たってるな、みたいな。30歳と同じことやってるじゃんみたいな、40歳で。

 ところが1個違うのはその30歳の時は何かまだ若いし、みんなとそんな話をしてたかも知れなくて、たぶんその日が僕の誕生日だってことはスタッフが知ってたんでケーキを持ってきてくれたんです。なるほど。嬉しい。ところが40歳のEXILE魂の時はgoomo(グーモ)というネットの会社も作ってたし、そんなに誕生日のことなんか話したことないので、EXILE魂のスタッフは僕の誕生日だってことをたぶん知らないんです。あえて言う必要もないし。だから知らないまま編集してたから「あぁ30歳の時はケーキが出てきたけど40歳じゃ出てこないんだー」とかって思いながら40歳の誕生日を迎えたわけです。ムーンライダーズのサーティって曲は30歳だからサーティなので流したけど、40歳の時はそんなこともせず「あ、40歳超えたじゃん」と、30歳の時はケーキがあったなぁなんて思いながら過ごしたわけです。
 そうしたら12時過ぎたら、さっき言ったgoomoでも「あいまいナ!」って番組をやってたんですけど、そこのスタッフがわあーっとやって来てくれて。ちょっと離れてる「EXILE魂」の番組のとこまでわざわざケーキ持って来てくれて、祝ってくれて、あぁ嬉しいなーって。つまり僕は30歳と40歳でまったく同じ経験をしたっていうのがこの誕生日の逸話というか誕生日のメタファーというか。

30歳のみんなの誕生日は…

 ちなみにこの話って30歳の1日がその人の人生の縮図になるって話は僕が33、4、5?くらいに知ったのかな。結構面白いから僕の後輩とか色んな人に「30歳のときこうだったよと、皆さんはどうでしたか?」と聞くと、後輩の女の子は「あー!友達が一緒に祝ってくれてました!」みたいなね。彼氏いないです!みたいな女の子は「女友達と朝まで飲んでました」みたいな子もいたりとか。
 「金スマ」で一人農業ってやってると思うんですけど、あれをやってる渡辺直道ってディレクターは僕の師匠がプロデューサーなんです。人生かけて茨城とかに引っ越しちゃってるわけで、だからもうディレクターというか農家をやってる人みたいになっちゃってると思うんですけど、人生かけてるじゃないですか。その渡辺直道に「30歳のときに何やってた?」って言ったら、僕の師匠つまりそのプロデューサーに「色々注意されて6時間くらい怒られ続けました!」みたいな(笑)。そのプロデューサーに農業行けってこう言われて行ってるという意味で言うと、その人にだいぶ人生をコントロールされてるんですよ、ディレクターは。面白いんですけど。
 そうしたら縮図としてはその人は6時間怒られてた。「ああ30歳の誕生日なのにこんなに怒られるんだ」って思いながらずっと一緒にいたっていう経験を言ってて。ああ合ってるな。

 あとね、後輩ですごい育ちのいい、お金持ちというか良い家柄…家柄って今あんのか知らないけど、なんか都内のすごい良いお家の、僕は行ったことないですけど見た人が「すんごい壁が大きい、すんげぇ豪邸があるんだよ」みたいなことを言ってて。そこに住んでる後輩に「30歳何やってた?」って聞いたら「えーと、何やってたかな…あ、家族で食事してました。」みたいな(笑)。あぁ〜そうか良い家柄だとそうなるんだなとか。

50歳の僕の誕生日は…?

 本当にね、結構こうその人の人柄がでます。なので皆さんも30歳の誕生日、なにをやってたか思い出すと面白いんじゃないかなと思いつつ、僕は30歳40歳と同じようなことをやっていたので、さてじゃあ明日50歳の誕生日は何をやってるのかなって思いますよね。少なくとも本編はやってないですね。まあ色々ちょこちょこっと予定は入ってるんですけど、どうなんだろうな、わからないです。ただちょこちょこっと予定が入ってるという意味でいうと、その予定というのは仕事でもあり、ということは仕事やりながら楽しくやってるってことなのかなと、自分にこう言い聞かせつつ生きていくのかなぁなんて思いますね。

未来は今思うこととズレていく

 8月2日に収録した回で言ったけど、8月っていうのはずごい色々考えさせられると。6日の広島の日だったり、9日の長崎の日だったり、15日の昨日の終戦、敗戦の日だったり、お盆だったり、大事な方が亡くなったり。まぁ色々あるんですけど僕の中では夏休み、夏休みは色々思考が巡るからって話をしたと思うんですけど、そんな中で僕が8月に誕生日を持つっていうのはやっぱり、なんか、すごい色んなことを考えるなーなんて思ってます。
 実はこれ話そうあれ話そうってこんな風に適当に話してますが、まぁちょこちょこっと考えてて、それで8月になった時にこの話をしようかな、ああでもこれは49歳最後の日に動画で喋ろうとかって思いながら取ってある話とかもあったんですよ。でもいざ8月16日、今日、今now撮ってますけど、うーん面白いですね。喋ろうと思ったことと取ってある話ってのが全然リンクしてない。これ本当に面白いんだよな。話したくなくなるんですよね、寝かしとくと。寝かしとくと話したくなくなるって面白いな。これって書き物も若干そうで、これ書こうと思ってメモったりしていることが、いざ書こうとするとやっぱり書けない、書きたくない。書きたくないの方がちょっと近いんだよな。

 その瞬間その瞬間に思ったことと行動っていうのは、以前に昔に思ったこととその瞬間じゃない過去に思ったこととやっぱりちょっとズレが出てくるんですね。ということは、今僕が思ってる未来に対してこういうことがあるとか、こうなったらいいなみたいなものっていうのは、今思ってることとはズレるっていうのが前提だとすると、そのズレるっていうのは運命的にズレるっていうのもあるし、意思としてなんかやりたくないなーみたいになったりすることを含めて考えると面白いですよね。
 そうすると、なんかこう、その日その日をただこう過ごしていくってことしか、たぶん僕は出来ないんだろうななんて思いますね。

夜と霧

 そっか、なるほど、ちょっと待ってくださいね、ちょっと待ってくださいねって何を待つのかっていう、動画止めりゃいいんですけどね。
 そうそう、本をね紹介しようと思ってて、いや何にしようかななんて思いながら、全然違うものを紹介しようと思ってたんです、実は。だけどやっぱりこれを紹介しなきゃだめだ。というのを今日は今思い出した(笑)。なんで今思い出すんだ。本当はね、全然違う小説を、やっぱり40歳最後の小説は何かななんて思ったんだけど、やっぱりこれをということで。今用意してなかったんだけど、たまたま近くにあったから良かった。

 今日紹介したい本はこれですね。「夜と霧」ビクトール・E・フランクル。
 「夜と霧 新版」でございますが、すごい有名な本なんで僕なんかが説明するのもなんなんですが、これは強制収容所、アウシュヴィッツじゃないんですよねこの方、強制収容所を生き残ったフランクルさんの手記じゃなくて、この方は心理学者、お医者さんなのでむしろ心理学者としてつとめて冷静に書いているという本ですよね。当然すばらしい本だってことは昔から聞いてて、尚且つ絶対読んだほうがいいって色んな人に言われてたんだけど、やっぱり強制収容所の本って聞くとすごい悲しいし怖いし読みたくないなと思いながら読んでませんでした。ずっと持ってるのに。
 そう思いながら色々思いが巡るって話をしたので数日前に今読むタイミングだろうと思って読んでみたら1日、そんなに長い本ではないからというのと、池田香代子さんの訳がすばらしく平易に書かれているからすらすらすらって読めちゃうんです。それで1日、夜読んで残りがちょっとだけあったんだけど、それで全部読み終わっちゃいましたね。

具体的な経験があなたの生きる意味

 いやー、すごいです、この本は。すごいっていうのは結論から言うと読んでよかった。なんて言うんだろう、生きるということの意味が無いって言うと語弊があるんだけど、意味ということを考えていることの意味ということを教えてくれるんですね。すごい色んなことが示唆に飛んでるから、これは本当に読んでいただいたら皆さんもすごい気づかれることがあると思うし、尚且つどなたかも自分の人生が苦しくなったなと思う時はこの本を読むことにしているっておっしゃってる方もいるくらいなので。僕はなんかこの本を大事な人に捧げたいななんて思ってて、そう、だから鞄に入れてたんだけど、ただ大事な方はもう読めないかも知れないななんて思いながらね。そんな感じです。
 それでこの生きる意味を問うというところがあるんですね。ちょっとここで…でもね、この部分だけ読んでもしょうがないかも知れないです。やっぱりだってここまで読んでからの生きる意味を問うってところなんで。そのちょっとだけ前から読むと、

生きていることになんにも期待が持てない。こんな言葉に対して一体どう答えたらいいのだろう。
で、生きる意味を問うっていうところなんですけど、
 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的展開が必要なのであり、もういいかげん、生きること の意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることにほかならない。
 この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命を自ら進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だかすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いに対するたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。

 続くんですけどね、あぁ、あと最後の一文を読んじゃおう。

 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

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 はい、という本でございます。あのちょっと文章で読むのと僕の拙い朗読で読むのだと感想が変わっちゃうかも知れませんが。生きるということがどうやって生きようかというよりは、生きることは自分が何を求めて生きるかではなくて、生きること自体があなたに何を求めてるんだっていうことを言っているんですね。それがコペルニクス的転回、つまり天動説と地動説の逆ってことだと思うんですね。なんて言うんだろう、みんな生に何かを求めるんですけど、生きてると言うこと自体があなたに何を求めてるか。で、その生きるって時には楽しいことも当然あるし、悲しいこともたくさんあるし、辛いこともたくさんある。そしてこの方はたぶん強制収容所で本当に死ぬほどの辛いことを経験されて、なのになんで生きていかなきゃいけないんだ?なんでそんなことを私の命で体験するんだ?ってことをたぶん思われたんだと思うんですね。そのときにそれでも生き続けるということ、そういう日々の具体的な自分に襲ってくるもの、自分に向かってくるものというものがあなたに何を問うてるのかっていうことなんだという、うーん。
 この考えっていうのは、この部分のことはね、この本を読んでなくてもなんとなく聞いたことはあったんですけど、実際読んでみると、こんな僕の拙い朗読とかよりも本当に読んで欲しいんですけど、でも逆に言えば読まなくてもいいです。つまりその時に例えばたまたまこの動画を見た人が読んでみようと思ってこの本を読むという体験、具体的な経験があなたの生きる意味なんですよっていう。で、この動画を見てみてそうなんだって思うだけでもいいし、いや絶対読まねぇよと思ってもいいし。つまりその日々の具体的なことをどう受け入れるかということが大事なんだってことを教えてくれましたね。

50歳の僕の生きる意味

 だから、強いて言えばね、明日から50歳になるわけですけども、自分としてはこの後の人生を受け入れるというか、日々あることが、具体的に言えばこの本書きましょうとか、この仕事こういう風なのやりましょう、あるいはどうですか?と質問される、あるいは番組つくる、分かんないですけど旅行行く、勉強する、修士論文書くみたいなこととかが、やりたいからやってるってのもあるし、向こうからやってくるものもあるし、だからそれを自分がどう応えるかってことが僕の生きる意味なんだなあなんてことを思いますね。
 僕の生きる意味ね…ずっと思ってましたね、生きる意味ってなんだろうって。ただ意味なんかないんだよって言う方も僕の師匠にいて、そう思うと何も生きていけないじゃんって思うんですけど、逆にこの「夜と霧」を読むと、そこに意味を問うんじゃないんですね、意味を問われてるっていうことがなんかすごいわかるなあと思いました。

 生きるとはインタラクティブなものだってのは僕よく言ってるんだけど、つまりインタラクティブってなんだ?ってことなんだと思うんですけど、問う問われるって言う関係性のコペルニクス的転回、逆っていうことなのかななんてすごく思いますね。だから8月13日に僕はこれを書いてるんだな。

他人の目を気にしない、他人の芽を摘まない。他人に気持を押し付けない、他人の気持を曲解しない。他人の人生を矯正しない、他人の人生に強制されない。他人の判断を尊重する、他人に判断を委ねない。他人の幸せを望む、他人に幸せを任せない。つまりコミュニケーションとは他人は他人だと知ること。

 と、つぶやいてるんですけど。たぶん「夜と霧」を読んで周りの人との僕の生き方みたいなのを想った時に、周りの人ってのはもしかしたらSNS上かも知れないし、仕事かも知れないし、プライベートかも知れないし、あらゆる周りの人との僕の関係性について今言ったようなことを思ったっていうことをちょうど呟いてるんですよね。

他人の目を気にしない、他人の芽を摘まない。
他人に気持を押し付けない、他人の気持を曲解しない。

自分の気持ちを相手に言いすぎるのもなんだなと思いながら、
他人の気持ちを聞きすぎてると自分が歪むしと想った時に
他人の人生を矯正しない、他人の人生に強制されない。

じゃあ自分だけで生きていけるかというと生きていけないわけで
他人の判断を尊重する、他人に判断を委ねない。

じゃあその他人と全く関係を結ばないのかと言うと、
やっぱり僕らは他人の幸せを望む。
だからってその人がいないと生きていけないというような
他人に幸せを任せない。

 結局僕が思ってることはそんなようなことなのかななんて思って、40代最後の動画を終了したいと思います。ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

メモという名の私の感想

 私が30歳の誕生日の話を聞いたのはICUCのどの回だったかな。すっかり30歳の時のことを思い出せず、ペットの猫の年齢を基準に今と同じ家で過ごしていたことから思いだし、仕事の日だったかはちょっと覚えてないけど(死ぬ気でやれば調べられそうだけど)たぶん、家族と猫たちと幸せな日常だった。そして40歳も同じく(たぶん)。ならば2027年4月24日の私の50歳の誕生日も、きっと日常に溶け込んでしまうような日常らしい一日なんだろう。確かに私は特別がないような、毎日が特別のような、そういう日々が好きだ。

 ICUCの7月19日の推薦図書の「海馬」を読みすすめてる途中で、どうも糸井重里さんがこの30歳誕生日の仮説を作ったようだと思われる一文があった。そうかそうか、"ヨウさん"は忘れちゃったけど、こんなところに隠れてて、どうやったのか推薦図書に選ばれて、私は運良く見つけることが出来た。文字に会えて嬉しくなるってこういうこともあるのか。

 生きることに意味があるか?ある人もいるだろうけどそれは何か特別な人だとずっと思ってた。なんせ私は日常万歳の人だから。だけど、そうでもないのかも知れない。ならばさて自分の生きる意味はなんだろう?日々自分に届く事象に応える中にあるのか、応えた先にあるのか。
 そう考えると確かにどんなに未来を思い描こうと、事象に応えているうちにずれて当然という気がする。スピリチュアル系の人も、セラピストの人も、未来と過去より今を見ろというけど、生きるということは未来なんか心配してる場合ではないのかも知れない。未来を心配したり過去と比べたりするから鬱になるというけど、"今"以外に囚われているうちは生きる意味から遠ざかっているんだろうな。

 その日々の事象はどこからやってくるかと考えると、周りの人だ。人が動くことで事象が発生するから、自分が動いたずっと先で誰かが応えてることもあるんだろう。本や歌や、アーカイブされて残るのは特にそうだ。そうするとSNSなんていうのは強力な事象発生即時派生装置だ。囚われて疲れる人が出て当然の装置だったのか。
 その周囲の人に助けられながら、励まされながら、応援しながら、自分は自分で、他人は他人で、応えながら、意味を見つけながら。

生きる意味って人が人と生きることなんじゃないかな、インタラクティブ。
人に始まり人に終わる。私は誰とどう生きたいか考えてみよう。
とりあえず「夜と霧」買ってこよう。

ICUCは
一人一人の知的好奇心がくすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心をアップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)

[CAMPFIRE]知的好奇心向上委員会 ICUC

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