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ネコな俺と彼の事情

6月12日(金)

夜9時、足早に人混みを歩くマサル。 「今日は少し早く終わったな。タカシさん、まだ来てないよな。」 足早に機矢町の雑踏を歩いていく。世間は花金なのだ。すでに酔いが回って出来上がっている人々がそこかしこにみて取れる。 今日は晴れている日だったが、梅雨の時期に入っている。機矢町を流れる小川の淵の植え込みに咲く紫陽花の彩りがより金曜の夜を華やかにしている。湿った重苦しい空気をうっとおしくも感じるが、夏の到来を告げるようでいて嫌いになれない。それに、男性の露出が多くなるこの時期は、つい視線が泳いでしまう時期でもある。

ふと視線を感じてあたりを見回す。まさか、同僚とかいるんじゃと少し心配になる。K都は他の都市部に比べたら狭い街だし、機矢町自体は色々な飲み屋や風俗店などもある。ひょんなことで会社の人間にバッタリということも考えられるので慎重にならざるを得ない。路地裏に光る眼を見つけて、ぎょっとするマサル。凝視してみると、暗闇に浮かぶ二つの光玉は四足動物のそれとわかり、暗闇に目が慣れてきたせいか暗がりの輪郭を浮かび上がらせる。 「なんだ、猫か。」 心配しすぎだなと胸をなでおろし、足早に向かう。先についてビールでも飲んでれば、じきに来るだろう。マサルは辺りに知り合いがいないことを確認して、ビルとビルの間の狭い道を通り抜けていく。K都に住み始めて、もう15年。狭い小道をくぐり抜けていくことを覚えてこそ、街の本当の姿はわかっていくものだ。暗がりの中に、お目当の黄色いドアを見つけて入っていく。中からはカラオケの音。もう盛り上がりっているようだ。

ドアを開け、中に入ると見知った顔が2-3人、初めましてが2人ほどいる。初見の二人はカップルだろうなと思いつつ、カウンターの席に案内されていく。見知った顔にはお疲れ様ですと定型文を送る。知り合いグループと(恐らく)カップルの間の席に通されて、少し居心地が悪い感じもするが、ややも言っていられない。渡されたおしぼりで顔をふき、その冷たさに仕事終わりの気分を解放させる。ひとまずビールを頼んで、自分の喉を潤していく。

30分くらいほどした後だろうか。カップルは相変わらず二人で喋り続けているし、知り合い以上友達未満の常連さんとの会話にもなかなか踏み込めずにいる。その時、一瞬夏の湿った外の空気が店の中にまで入り込み、マサルの鼻腔をくすぐらせた。一瞬動いたかと思えるドアは一度閉じられ、そして、再度開け放たれるのだった。その仕草からマサルはタカシが来たのだなと察するのであった。

「遅れて、ごめんなさい。」 短く、だが、はっきりと店内に響き渡る重低音で自分に謝ってくるタカシ。特に何時などは具体的に約束していないし、お互いの連絡先も交換していない。恐らく自分のビールの減り具合から察してくれたのかもしれない。タカシのこう言った察しの良さはマサルがタカシを好きなところでもあるし、職場でも重宝されている性格なのかなと想像を巡らせる。 「あー、大丈夫だよ。暑いからビールをぐいっといっちゃってたけど。何かトラブル?」 「いえ、大した問題じゃないんですけど、一週間後に行う予定だったオンライン会議が相手の都合で急遽週明けに行うことになってしまって。資料の見直しとかで時間をくってしまってました。」 ニューヨーク支社?オンライン会議?自分が普段働いている環境からでは出てこないような言葉が飛び出してきて、一瞬虚を突かれてしまう。こういう時に、中小企業の三流SEの自分と大企業商社勤めのタカシとの違いなのだろうかと一人不安になってしまう。

ちょうどタカシのビールが来たので、そんな不安を振り払うかのように空元気の声を出して自分を鼓舞する。 「今週もお疲れ様〜〜。カンパーイ。」 仕事からの解放感もあるのだろう、タカシが笑みをこぼす。マサル自身の一週間の疲労も彼からの溢れる笑顔によって癒されていく。改めて、彼への気持ちを強く意識するマサルなのであった。

6月13日(土)

UR住宅の1LDKの1室に一人たたずむマサル。花金の夜はなんとも素晴らしいのだが、酒豪ではない自分には飲みすぎた翌日のだるさと付き合っていかなければならないことに軽く腹立ちを感じる。これでは、花金で飲んだ憂さ晴らしが結局打ち消されてしまっているのではないかと思い、空しさも同時にこみ上げてくる。

窓を開け放っているが、それにしても暑い。気分が塞いでいるのに、それに拍車をかけてくる。多分、この落ち込みはあれなのだろうなと昨晩のタカシとのやりとりを回想する。

昨日の夜、マサルは久しぶりに会うタカシと楽しい時間を過ごしていた。お互いの会社の同僚・上司に対する愚痴や最近のテレビの話、昔見たアニメの話題など話題が尽きない。 1時間ほど経った頃だろうか、マサルはタカシがふと時計に目をやり始めてそわそわとしているのに気づいた。 「どうしたの?何か用事?」 「あ、はい。ちょっと大切な人を家で待たせているので、今日はそろそろお暇しようかと思って。遅れてきたのに、申し訳ないですけど。」

大切な人?家で待っている?何が?大切な人が?マサルの頭の中でぐるぐると回る自問自答のループは次の言葉を紡ぎ出してようやく出口を迎えることができた。 「あ、そうか。じゃあ、早く帰ってあげなよ。きっと心配しているだろうし。」 そうだ、俺は5歳も彼より年上なんだ。大人の余裕、大人の余裕と頭に念じ続けて、なんとか消えそうな笑顔を維持し続ける。

会計を手早く済ませたタカシは申し訳なさそうにお辞儀をして、 「また飲みましょうね。おやすみなさい。」 と短く告げて店を足早に出ていくのであった。タカシが店を出て行った後のことは特に覚えていない。30分ほど店にはいたのだろうか、何かいたたまれない感じになって会計を済ませて、気づいたら自分の布団の上で横になっていたのだった。

そして、今の怠さである。 「なんだよー。恋人できたのかよー。言ってくれよ。」 と独りごちてみても言葉が空中に放たれて霧散していく。最初出会った頃は確かにシングルだって言ってた。 「そうか、あれだけカッコいいんだもんな。出会いなんてどこにでもあるんだろうな。」 今はオンライン隆盛の時代だ。人と会うことにそれほどの障壁はないのだろう。まして、タカシの容貌とガタイと性格の良さだ。付き合う相手など簡単に見つかってしまうのだろう。

同じようなことをただぐるぐると朝から考えていることに気づいたので、気分を変えようと昼食がてら外出することにしたマサルだった。

空気は湿り気を帯びて、重しのように街に降りかかる。晴れるわけでもなく、厚い雲が覆った空を見上げて、出かけてもあまり気分が高揚しない。 少し神社の中でも歩いたら気分が変わるかと思って、KM可茂神社に歩を進める。K都の北東部に位置するKM可茂神社は境内に御山からの湧き水の川が流れて、木々も茂っている。初夏の新緑を目にすれば少しは自分の気持ちも晴れるのだろうと思っていたが、その目論見はうまくはいかなかった。

KM可茂神社に到着すると境内の川では小さな子供を連れた家族がそこら中を闊歩している。40すぎの男性が家族づれの中を一人たたずんでいるのが奇異に映るのだろう。親たちからの容赦ない視線がいたたまれない。おまけに子供の純粋さは時に残酷に機能する。 「あのおじさん、どうして一人でいるの?」 そんな不躾な会話が聞こえてくるのも今の気分を悪化させるだけなので、足早に境内からは離れていき本殿で恨み言にも似た祈りをして、すぐに神社を後にするのだった。

どこにも居場所を見出せない気分になり、河端通り沿いをトボトボと歩いていくマサル。 その時だった、自分の目の前にふっと黒色の猫が現れた。突然の猫の登場に驚きつつも、その猫をよく見てみるとどこか気品が溢れた雰囲気で、その首には首輪をつけている。年の頃はよくわからないが、まだ幼さが残る。

猫が外を一人で散歩するというのはついぞ聞いたことがなかったので、おそらく近所の家から逃げ出したのだろうと思ったマサルは事故に遭われても寝覚めが悪いのでその猫をとりあえず捕まえることにした。

「おーい、よしよし、クロおいで。怖くないから。ここは車も多くて危ないから早く家に帰ろうな。」 なんでクロなんだよと独りごちる。 姿勢を低くして、精一杯の笑顔を作ってみたものの黒猫はなかなかこっちに近寄ってこないし、それどころか黒猫は警戒の色をあらわにしていた。

なかなか埒があかないことに苛立ったマサルは、ジリジリと距離を寄せて、一気に猫を捕まえる作戦に変更した。充分に距離が縮まったところで、マサルは一気に踏み出そうと右足に力を込めたのだった。そして、黒猫はその力が入る瞬間をしっかり気取っていた。それはまるで黒いレーザーのように歩道から車道へと一気に駆け抜けていこうとする。目の端で黒猫が車道の方に動こうとしたのを捉えたマサルは、自身も体の動きを変えて車道の方に駆け出していく。「後少しっ」と思ったところで、右手が黒猫の尻尾を捕まえて、なんとか抱きかかえることができた。彼らの後ろから疲労が溜まって判断力が鈍っていた運転手が運転するファミリーカーが直前まで来ていることは、その時マサルは気付くこともできなかった。

突然の強い衝撃がマサルを襲いマサルの体は宙に投げ出された。どれだけの距離と高さを飛んでいたのかわからない。ただ、落ちていく時に曇った空が少し晴れ、青空を覗かせていたことは確認できた。歩道の方にマサルがいるのが見える。 ーそういえば、この辺りに住んでいるって昔、言ってたな。 徐々に体がアスファルトに引き寄せられていき、強い衝撃を感じる。猫は大丈夫なのだろうか。腹部に黒い塊がもぞもぞと動くのが見える。か細い声だが、ミャーと鳴いているのも聞こえる。おそらく大丈夫だろう。マサルが歩道から飛び出して近づいてくるのが見える。急激な眠気に引っ張られて、瞼を閉じる。そこからマサルの記憶は途切れていく。

6月15日(月) 薄暗い明かりが自身の目にあたっているのに気づいたマサルは、瞼をそろそろと開けてみる。さっきのは単なる悪夢だったのだろうか。夢の中で自分が猫を助けて事故にあう夢だった。やけにリアリティがあり、なんとも寝覚めの悪い居心地になる。どれだけ寝ていたのだろうか。よっこらせと体を動かす。徐々に暗闇に目が慣れてくると、次第に部屋の輪郭が浮き彫りになってくる。 ベッド脇の時計を見ると午前2時を少し過ぎたところ。はて?ベッド脇に置いていた時計はあんな形だっただろうか。そして、もっと気になったのが6月15日という日付だった。15日!?俺は確か寝入った時は13日の土曜日だったはず。日曜はどうしたんだ。いや、そもそも俺は昨日寝入った時の記憶がない。特にお酒を飲んでいたわけでもない。それに、このベッド。俺はいつも布団だ。こんなスプリングの効いたベッドで寝ていない。 とっさに暗闇の中で何かが隣で動くのを感じ取ったマサルは驚いてそちらを見た。どうやら、巨体の持ち主が自分の横に寝ていたようだ。 なんだ、こいつは?俺が連れ込んだのか?ここはホテルか?いや、俺が連れ込まれたのか?なんで、記憶がない。誰だこいつは? 頭の中をスパークしそうな勢いで疑問が駆け巡っていく。汗を拭おうと自分のおでこを触ると、そこには今まで体感したことの無いような手触りがあった。俺はこんなに毛深くないぞ。いや、そもそもなんでおでこに毛があるんだ。ゲイの嗜みのごとく髪の毛は短く揃えているはずなのに。 ただただ言い知れない不安が自分の喉元を這い上がってくる。なんだ、どういうことだ。俺はベッドから抜け出て、鏡がないかを探す。先ほどから光が反射しているアレは鏡だろうとあたりをつけて向かっていくと、自分と同じ方向に黒い猫が一匹いるのがわかる。猫?俺の後ろにいるのか?何度も振り返って確認するが、そのような姿は確認できない。 そもそもマサル自身の姿が先ほどから鏡にどれだけ近づいても一向に映らない。どういうことだ?どんどんと鏡との距離を縮めていく、鏡に映る猫の姿はどんどんと大きくとなってくる。マサルの予想は悪い方で的中していた。ずっと猫だと思っていたのは、マサル自身だったのだ。しかも、よく見るとこの猫は自分が助けたあの黒猫と姿が酷似している。 突然、背後で人が動く気配がした。先ほどの大男だ。いや、大男だと思っていたのはマサル自身の体が猫になっていたからなのだ。とりあえず、自分はまだ夢の中にいるとしてもう一度眠りにつくことにしたマサルだった。

目覚めると朝日は完全に昇りきっていた。急いで鏡の前まで行き、自分の姿を確認する。変わっていない。黒猫のままだ。 突然、頭上から声が降り注いだ。 「おはようー、マックス。今日は早起きだね。」 そこにいたのはなんと、ワイシャツ姿のタカシだったのだ。猫を、もとい、俺を抱きかかえるタカシ。タカシの顔がどんどんと近づいてくる。これがタカシの匂い。

ーと、とりあえず理由はよくわからないが俺は猫になったようで、その猫はタカシさんのところの猫みたいだ。 タカシが出社した後、今の状況を整理するマサル。 それにしても、タカシが出て行ったあとの家はがらんどうで心細くなる。

ーそうだ!タカシさんが出社している間に家の掃除やら片付けをしておこう。

夕刻、タカシが家に帰り着く。家のドアを開け放ち、タカシはリビングの惨状を目撃するのであった。

6月17日(水)

黒猫のマサルが日向の中でうなだれている。月曜から今までなんとかタケシの役に立とうと色々なことをした。しかし、それはただの躾ができていないペットが家の中を引っ掻き回したという状態にしかならなかった。しかも、タカシは仕事で疲れているのだろうか。 いやに元気がない。自分のイタズラ(マサルにとっては献身的な行為の結果)を怒鳴ることもなく、ただ微笑むのであった。その微笑はただ悲しい色を帯びて、いつまでもマサルの心を離さないのであった。

ー俺は一体何をやっているんだ。タカシさんを困らせてばかりで。 しかも、今は猫の体なのだ。言葉を伝えることも出来なくなっている。日向にいるせいか、考え事は深刻でも体は正直に反応し、まどろみの中に拘泥されていってしまうマサルだった。

ガチャ!

ドアノブが回される音に起こされたマサルはあたりを見回す。どうやらタカシが帰ってきたようだ。時間を見ると23時を過ぎていた。いつも遅いが今日は殊更に遅いなと思っていると、酩酊状態でふらふらになったタカシが部屋に入ってくるのであった。

顔は真っ赤になり、体からはアルコールの匂い。なんだ、今日は飲み会か?と思うが、タカシの顔は全く楽しそうではない。それどころか、頬のところに涙がつたっている。

ーどうしたんだ?大丈夫か?何があったんだ?

必死にマサルはタカシに呼びかけるが、ニャー、ニャーとしかマサルの言葉は伝わらない。 自分のペットは餌を欲しがっているのだろうとタカシは思い、台所に立ち、マサルの餌の準備をしマサルに渡す。 「遅くなって、ごめんね。」

ー違う、そうじゃないんだ。俺はお前が泣いてるのが心配なんだ。

自身のペットの尋常ならざるを得ない雰囲気を感じ取ったタカシはマサルを抱きかかえる。 「慰めてくれるのかい?」

マサルはタカシの涙を何度も舐めて、少しでも気持ちを伝えようとする。 「僕たちのせいで、。」 と言うと、タカシはまたむせび泣く。 「僕のせいで、マサルさんは。」

そのあとの言葉は意味を伝えることはなく、闇に吸収されていく音となって通り過ぎていくだけだった。 マサルはタカシの発言で自分はもうこの猫の体として生きていくしかないことを悟るのだった。

6月18日(木)

昨晩、タカシはそのまま泣き疲れて寝てしまい、朝にはいつの間にか出勤して部屋はもぬけの殻となっていた。 おそらく、自分は事故で死んでしまったのだろう。だから、俺の魂はこの猫の体に乗り移ってしまったのだろう。考えても仕方のないことだ。割り切ってしまいたい。しかし、自分は気付くこともなく死んでしまい、今は猫の体となっている。 一体何が起こっているのか頭がただひたすらに混乱してしまう。

ーこのまま好きな人のそばにいれるだけでも良しとするべきなのか。 どうせ、家族は居ないにほぼ等しい。結婚することばかり気にする親に自身のことを伝えて、それから連絡は取り合っていない。あちらからも連絡がないのだから、推して知るべしと言うことか。

ーそれにしても今日はいやに眠い。どうせ、何を考えても意味がないのなら体だけは休めるようにしよう。

そのまま眠りにつくマサル。 目を覚ますと目の前にタカシがおり、驚いてしまう。しかも、お風呂も入っているようだった。

ー俺はどれだけ寝てたんだ。かなり長い時間寝ていたんだな。 独り言の言葉も、「ミャー」と言う音となるだけ。 マサルの鳴き声に気づいたタカシは、穏やかに微笑む。 「どうした?もうご飯は食べただろう。あまり食べ過ぎるのも良くないよ。」

ー俺がご飯を食べた?いつ?ずっと寝ていたんだぞ。 不思議に思いながらも、しかし、確かに腹部の圧迫感と口の中に残るキャットフードの匂いから自分が数分前に食事をしたことを理解するマサル。 同時に自分の記憶の欠落を意識し始めてしまう。

6月19日(金)

意識し始めたせいなのか。今朝からの記憶の断絶が悪化していることを確認するマサル。 ー朝6時に俺は確かに目が覚めた。そして、毛づくろいをした。ここまでは覚えている。そのあと、タカシさんが出勤する姿を俺は見ていない。 ー今は昼の12時。さっき時計を見ていた時は11時だった。どうやら、俺の猫ライフももうすぐ終わりを迎えるってことか。

正直を言えば、猫のままでもいいからタカシのそばに居たかった。いや、俺はタカシの横にいて、あいつが辛い時はそばにいて励ましてやりたかった。言葉を伝えて、あいつの支えになりたかった。抱きしめて、いつもそばに居るってはっきりと伝えたかった。

夜10時、タカシが家のドアを開けるとそこには黒猫が佇んでいた。 「マックス、待ってくれていたの?今ご飯を用意するからね。」 そういって廊下を歩き出すタカシ。ここ数日のマックスだったら、俺の足に自分の体を擦りつけようとするのだが、今日はタカシの方を振り返ることもなく前を歩こうとする。 マックスも大人になってきたと言うものなのかと不思議に思いつつ、晩御飯の支度を始めるタカシだった。

6月20日(土)

目覚めると全てが真っ白な部屋に居た。いや、これは部屋なのだろうか。 全ての色が白いため、どこまでが境界なのかがはっきりと掴めない。 目の前に一点。そして、自分が立っているのか横になっているのかもわからない。漂うという感じなのだ。 ーここが天国なのか。いや、あの世ってやつなのかな。 まとまらない思考を言葉として紡いでいく。よくみると前方に黒いシミのようなものがあることに気づいた。そして、それはやがて黒い猫の形となり、さらによくみると今まで自分の体となっていたマックスの体であることに気づいた。 ーそうか、俺はもう死ぬんだな。 今まで自分が動かしていた体が今目の前にいる。おそらく仮初めの命の期間が終わったのだろう。

「勝手に自分を殺すなよ。」

突然、自分が発していない言葉に驚くマサル。あたりを見回すが猫以外には誰もいない。

ーそれとも天の声か? 「天の声ではないよ。君の目の前にいる私が喋っているんだ。君は今まで猫の体として生活してきたんだ。少しくらいは想像力を働かせなよ。」

目の前の猫が流暢に言葉を手繰っている。 ー猫が喋っているのか? 「何度も言うけど、そうだよ。さて、まどろっこしいのは嫌いなんだ。手短に済ませよう。この場もそんなに長くは保っていられないしね。」 「君に伝えたいことは2つ。君の身体は生きている。後、想っていることはいつだって言葉にしないとダメだよ。以上だ。それでは、さようなら。」

いきなり言葉を突きつけられて、しどろもどろになる。 ー俺が生きてる?なんで!?じゃあ、これは?生きてる?って人間の身体?猫は?え?猫なのに喋っている。お前、何?宇宙人? 「質問は一つずつお願いしたいし、あと系統立ててしてほしいところだけれども、状況が状況だからね。気持ちはわかるよ。そうだね、じゃあ、一個ずつ答えていこうか。」

「まず君の身体のことなんだが、K都市内のN赤病院で入院中だ。君は車の事故に遭ったことは覚えているね?」 ーああ、車に轢かれて俺はそこから意識がなくなって、気づいたら猫の身体になってたんだ。 「君の身体は、あの後病院に運ばれて、治療を受けていたんだ。事故直後は危険な状態だったが、今は安定した状態になっている。そして、君が猫の身体、つまり、私の身体に入っていた理由は私が君の魂と身体を分割して、君の魂を一時的に私の身体の中に保存していたからなんだよ。」

ーどう言う意味だ?そんなことができるのか?なんで、そんなことをする必要があったんだ? 「君たち人間にとっては魂と身体は基本的に不可分だ。魂だけでは、その器を定義されることがないため、形が維持できずに崩壊してしまう。逆も然りだ。魂と身体は相互に関係しあい、一人の君と言う精神を作り出している。精神とは身体という大海の上で浮かぶ魂の船の乗り手なんだよ。だから、魂・身体のどちらかが欠けてしまうと人間の生命はそこで終わってしまう。それが死なんだ。」 「事故直後、君の身体は激しく損傷し、回復に専念せざるを得なかった。君の身体に回復に専念させるには、魂との相互補完の同期作業を一時的にではあるが止める必要があった。同期作業には莫大なエネルギーを必要とするからね。事故直後の君の身体でそれを行えば回復に要するエネルギーの総量が減少し、身体の器官の壊死が始まっていただろう。そして、身体は崩壊し、魂もその形を維持できなくり、君の精神は終ぞ消滅していた。つまり、死んでいた。」

ー身体と魂が同期しなくなって、俺の身体は回復できるようになったってこと? 「そうだ。君の魂を切り離したのはいいが、一つ問題があった。さっきも言ったが、魂は身体という器がないとその形を維持できない。グラスに注いだ水のようなものだね。肝心の身体の回復を成し得ても、魂自身体が崩壊していれば結末は変わらない。それを防ぐために、一時的な避難場所として私の身体の中に君の魂を保管していたんだ。」

ー魂を保管するって? 「文字通りの意味だ。君がここ数日、猫として生活をしていたことを思い出してくれれば、容易に想像はできると思うが。」

ーさっきから、魂とか、身身体と魂の同期とかって正直信じられないのだが。そんなことをできるお前は一身体なんなんだ?猫の姿を借りたエイリアンなのか? 「いや、私は地球で生まれ育った、君たち人類が猫と呼称する生き物だよ。ただ、人類が想像しうる猫の定義からは少し逸脱しているけれども。 私たち、猫は君たち人類より遥か前に生まれ、地上で栄華を極め、そして、物理的な意味による生存の進化から精神的な構造体としての進化を選んだ種と説明するのが妥当だ。海に沈んだアトランティス大陸という話があるだろう?あの大陸はかつて我々が生存していた大陸だったのだが、現生人類とは異なる進化を遂げた我々は人類に他の知的生命身体の存在を知られないようにするために大陸を海に沈めることにしたんだ。」

ーさっきからお前が何を言っているのかさっぱりわからないのだが。。 「別に理解する必要はないよ。私と君たち人類は違う種類の進化を選んだもの同士ということだ。君たち人類は個体ごとに分かれた進化の体系を選んだ。私たち、猫類は一個体にして全体であり、全体にして一個体という魂を共有した存在としての進化を遂げたのだ。」

ー猫は全体で一個体ってことは、じゃあ、お前たちの体は一体なんなんだ。 「私たちの体はなんというか、休暇用のスペースみたいなものかな。たまに全体とつながっているのも嫌になる時があるだろう?会社の一部でずっとあり続けることが嫌だみたいな。そう言った感情が全体に漂ってしまうと私たち全体も自己崩壊を起こしてしまうんだ。それを防ぐために、逃避用のスペースとして与えられたのが君たちが普段目にしている猫の姿なんだよ。ちなみに、あの端末ボディが物理的に破壊されると魂は全体の元に還っていくだけなんだよ。」

ーじゃあ、俺がお前を必死に守ったのは全く意味がなかったってことなのか。。 「それについては私も君に対して申し訳ないと思っている。あの時、私自身の端末と魂の連携がなぜか不具合を起こしてしまっていてね。自動操縦の状態になってしまっていたんだ。そのために、迂闊な行動に出てしまい、車の接近を許してしまった。 本来であれば、私たちは現生人類へのこのような精神的な接触は禁じられているんだ。多種の知的生命体が地上に存在していると、争いを引き起こし共倒れになってしまうからね。しかし、今回は私自身のミスだ。今回は特例として、君の魂を私の体で預かり、君の体が自己治癒に専念できるようにしたかったんだ。」

ーそうか、ありがとうな。じゃあ、俺はもうすぐ自分の体に戻れるのか? 「間も無く戻れる。今、こうやって私と話せているのは、私の体から君が遊離しかけているからだ。それは、君の体が君の魂を呼び戻そうとしている。体にそれだけの余力が戻った状態になったんだよ。」

ーでも、こんなにお前たちのことを知ってもいいのか? 「それは大丈夫。魂だけで保持できる情報は限られている。魂は揮発性メモリみたいなものだから、一時的、かつ少量の情報しか保持できない。魂に保持された情報は肉体に転写されることで記憶として定着するんだ。」

ーじゃあ、ここで喋っていることもお前が猫じゃなくて、いや、猫なんだけど、俺たちが考えるような猫じゃないっていう秘密はわかんなくなっちゃうんだな。 「ただ、一つだけ君に覚えておいてもらいたいことがある。私たちは言葉を必要としないんだ。なぜなら、魂自体を共有しているからね。今も君と私の魂の一部を共有しているから、違う言語のインターフェースを持つ種族間でコミュニケーションが取れているんだ。しかし、君たち現生人類は個としての進化を選択し、進化を続けてきた。そのため、魂の共有によるコミュニケーションは取れないんだ。」

「つま。。。、私から・・・ごにつた・・」

さっきまで流暢に喋っていた猫の声が急にくぐもり始め、途中から意味をなさなくなった。

ーなんて言っているんだ。全然わからない。 「君の・・・だがき・・をもど・・として・・」

その時だった、後ろから強烈に引っ張られる感じがし、俺の体はどんどんとひきづられていくのだった。後ろを振り返ってみると、さっきまで白い空間だった場所に大きな黒い穴がぽっかりと口を開けて、今まさに俺を飲み込もうとしていたのだった。

「伝えたいことがあるのなら、君たち人類はその想いを言葉に乗せて伝えないといけないんだ。」

黒い穴に飲み込まれる直前だった、それまでノイズがひどかったあいつの声が最後にはっきりと聞こえた。

目を覚ますと、そこには白い天井が見えていた。体のいたるところから痛みが襲ってくる。点滴の管、鼻からは呼吸用、心音図用のケーブルとなんとも管だらけの身体と思っていると、ふと、自分の左手に暖かいものを感じた。 首は動かせないので、目をなんとか左側に寄せようとすると、タカシさんだった。 疲れているのだろう。身体を揺すりながらそれでも俺の手を握ってくれている。 俺は起こしてはいけないとわかっているのだけれども、ぎゅっと握り返す。タカシさんはそれに気づいたのか、目を覚まして俺の顔を凝視し驚いた彼の顔を見つめる。俺はそんな彼を見つめながら、この言葉だけを送るのだった。

「あなたのことがずっと好きで、これからも好きであり続けたいです。」

終わり。

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