大河ドラマとしてのアイドル
櫻坂46小林由依卒業コンサートの1日目を観に行きました。
卒業コンサートということで、ゆいぽんが主役でありながら、でもグループ全体を魅せるんだという、やっぱりこのグループかっけぇな、と思わせるライブでした。
でも、少しずつ一期生が卒業していくにつれて、
「あの頃」が少しずつ終わっていくことを実感します。
昨年はYOASOBI「アイドル」が爆発的にヒットし、
アイドルという存在自体がフィーチャーされたことが印象的な一年でした。
「推し活」という言葉が様々なオタクコンテンツの間口を拡張し、新たなカルチャーを築き上げています。
しかし、この「推し活」時代に違和感を覚えるのは僕だけでしょうか。
「推し」という言葉は確かにキャッチーですが、カジュアルに使われすぎて、
僕は何に惹かれて、どういうところが好きなんだろうか、という1番大事なことをぼんやりと覆い隠してしまっているのではないか。
疑似恋愛の対象としてのアイドル、憧れの存在としてのアイドル、友だちを応援するような感覚、ビジュアルが好き、パフォーマンスが好き、人間性に惹かれた。。。
おそらく、千差万別の「推し」スタイルがあるのに、全部ごちゃ混ぜにして「推し」と言ってしまうことについて違和感を覚えずにはいられません。
昨年、プロレスラー武藤敬司の引退にあたって、
グレート・ムタと奇跡のシングルマッチを闘ったWWEスーパースターSHINSUKE NAKAMURAは、「ムタはアイドルだった」と語りました。
多分、この中邑真輔が言うアイドルは「推し」ではない。
「推し」という言葉を使うようになったことで、
かえって「アイドル」という存在がぼやけてしまったようにも感じるのです。
そこで、僕が櫻坂46そして、前身の欅坂46が好きな理由を改めて考えてみました。
欅坂46のデビュー当時、彼女らは「笑わないアイドル」と言われていました。
たしかに、デビュー曲「サイレントマジョリティー」を筆頭に、大人への反抗を思わせるような、従来のアイドル像とは異なる路線が注目を集めました。
ですが、本質はそこではない。
(というか、彼女らは最初から笑ってたよ!?)
当時中高生だった僕は、
グループとしてのアイデンティティを悩みながら、模索していた姿に、自分の姿を見たのです。
乃木坂46の姉妹グループとして、
乃木坂のようなアイドルに憧れて入ってきたメンバーもおそらくいたことでしょう。
その中で、「欅坂46」とは何なのかを自分たちに問い続け活動していく姿が、
中高生の共感を呼んだ。僕もその1人だったのだと、今になって思います。
欅坂46の物語は自分自身の物語でもあったのです。
デビュー曲のMVで最初に進み始めた小林由依が、
様々なターニングポイントの舞台となった渋谷で卒業したことは、
欅坂/櫻坂46という大河ドラマの大きな区切りになったことは間違いない。
そういった意味では、
僕らが自分自身の物語であるように「推し」てきた「あの頃」にも区切りがついたように思います。
(この文章の「あの頃」は
今泉力哉監督の映画「あの頃。」から影響を受けているのは、その通りでございます。)
そして櫻坂となった今、
欅坂時代に築き上げてきたパフォーマンスというアイデンティティを持ったまま、
新しい景色を次々と見せてくれる。
次のシリーズとも言うべき新たなドラマに、すでにワクワクしているのです。
欅坂の物語を終わらせずに紡ぎ続けてくれた一期生、
欅坂の物語を受け継いで櫻坂として咲かせてくれた二期生、
そしてこれから新しい未来へ連れて行ってくれるであろう三期生。
メンバーの数だけのグループ史観があり、ファンそれぞれにも多様な物語がある。
これを「推し」の一言で済ませていいものだろうか。
これが最近の葛藤であります。
「推し」という言葉に逃げるな!
何が好きでどんなところがいいのか、きちんと言語化しろ!(自戒)
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