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ハッピーアワー

 映像作品の供給過多による映画やドラマを早送りで観る人が増えている事が昨今少しだけ話題になりましたが(早送りで観る人は本来興味がない人が無理矢理、話題についていこうとしているだけだと思うので、そこまで相手にする必要はないと思うのですが…)

 早送りしたら絶対良さが伝わらないタイプの作品を中心に(もちろん、どの作品もそうなのは前提ですが)これから紹介していこうと思います。

 今回は先日、第71回ベルリン国際映画祭に、『偶然と想像』で審査員グランプリとなる銀熊賞を受賞した濱口竜介監督の『ハッピーアワー』です。

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 濱口監督はこの作品が高く評価された事をきっかけに何かと話題だった東出昌大、唐田えりか共演の『寝ても覚めても』で商業デビューを果たし、今年公開予定の村上春樹原作『ドライブ・マイ・カー』など、これからの活躍が期待されている作家です。

 また『ハッピーアワー』の共同脚本を手掛けた野原位と共に東京芸術大学の恩師である黒沢清監督が第77回ヴェネツィア国際映画祭の銀獅子賞(最優秀監督賞)を受賞した『スパイの妻』の脚本に参加した事が記憶に新しい。『スパイの妻』は第二次大戦前を時代背景に黒沢清監督の故郷である神戸が舞台でしたが、『ハッピーアワー』も現代の神戸が舞台になっています。この作品は映画を制作する事を前提に神戸で開催された即興演技ワークショップに参加したほぼ演技未経験の人達がキャスティングされている。あの『カメラを止めるな!』と同じ成り立ちです。


簡単なあらすじ

 30代後半の女性4人組が主人公。彼女らは友人で知り合った時期や環境が異なり、それぞれが年齢なりの問題を抱えている。その内の1人の仕事の関係で4人で参加した奇妙なワークショップをきっかけに彼女達の友情が揺らぎ始める。


 カメラの前で演じること

 濱口監督がワークショップを通じて、ほぼ演技未経験の人達をキャスティングして『ハッピーアワー』を完成させた、言わば本作の演出プロセスをまとめた『カメラの前で演じること』という本があります。

 この本を読むと『ハッピーアワー』の物語を理解する上でのサブテキストというか、演出プロセスのメタファーとして本作のストーリーを読み解けるなあと思いました。物語の発端で主人公達は『重心に聞く』という少々胡散臭いワークショップに参加する。鵜飼という男が講師で窓を背にして座っており逆光で顔が影で覆われている為、怪しい雰囲気を醸し出している。鵜飼は東日本大震災の復興ボランティアで東北にいる際、沿岸部の瓦礫を絶妙なバランスで立てる事にはまり、それをやり続けた結果話題になり一部で有名になったと自己紹介する。それを証明するかの様に椅子を一脚だけで立たせてみせる芸のようなものを披露する。そこから重心を探りながら相手とコミュニケーションを図ろうとする珍妙なワークが展開されるのだが、この部分の描写がダイジェストにせず、ほぼオンタイムでじっくりとドキュメンタリックに切り取られている。僕はこの場面を観てワークショップに参加した、ほぼ素人の演者である彼女達をどう開花させるか、その試行錯誤をこれから時間をかけて、じっくり丁寧に追っていきますよ、という宣言の様に感じました。言い忘れていましたが本作の上映時間は317分もあります。つまり5時間以上もあるのですが、その結論に至るまでの過程を見せていく訳ですから、これ位の尺が必要だったのではないでしょうか。


カメラの残酷さと可能性

 僕は人の目を見て話すのが苦手なのですが、それは意識的にしろ無意識的にしろ考えを悟られないようにしているんだと思います。例えば嘘をついた事がバレるんじゃないかとか、異性に対して好意を抱いている事を悟られるのが恥ずかしいとか。僕自身赤面症なので顔に出やすいのですが、そうじゃなくとも声のトーンや動きがギクシャクしたりして思いの外、体は雄弁に語ります。逆に嘘をついていなかったり、相手に好意を抱いていなくても「そう思われているんじゃないか。」という思考が働いた時に同様のケースが起こり得ますよね。その伝達の不正確さを防ぐ為、言語によるコミュニケーションがベースにある。このような暗黙の了解があるから大事な事を伝える時以外は基本的に他人の目をじっと見ないのではないでしょうか。この視線をカメラに置き換えたらどうなるだろう。通常ではあり得ない凝視が行われる。それはテレビや映画、ネットの動画などを通して。その事によりカメラを向けられた人の体は強張る、ないしは過剰に振る舞う。それをカメラは容赦無く切り取ってしまう。この恐ろしいカメラを前にして自身を素直に表現する勇気を得るには自身に関心を示す他者の存在を確かに感じる事だと濱口監督は述べています。


「聞く」事によって生まれた317分

 演じるという事はどこかで「恥を捨てる」必要があるのではないか。しかし、それは同時に「彼女は私ではない」と断じる事でもある。「彼女は私ではない、かつ彼女は私でしかない」といった矛盾を両立させる必要がある。そこで濱口監督は脚本を執筆する際、演者の体の「言えなさ」に即して書いている。それは社会の目ではなく、自分自身によって吟味した「最も深い恥」を探る作業だ。演者と執筆者で面談を重ね、その都度、脚本の改稿を行った。物語のほとんどが日常から始まり日常から逸脱する事で展開していく。執筆者の物語を語ろうとする欲求がアクセルとするなら、演者との面談はブレーキとして作用した。これは決して大きく前進するものではない。つまり「日常からは現れないその人」を表現する困難さがダイレクトに脚本に反映されている。本編の長尺はそれ故にある訳です。また執筆者と演者のコミュニーケーションにより「自尊」が生まれる。これが自身に関心を示す他者の存在を確かに感じる事に繋がっていく訳です。他者との関係を優先するあまり自身の感情を抑圧すると何処かでいずれ破綻をきたす。『ハッピーアワー』では「自分が自分のまま、他は他者のまま、一緒にやっていく」事が重要であると同時に困難であることが4人の主人公の人生を通して描かれている。その背景にはこのようなスタッフとキャストのプロセスが反映されていたのだ。って今書きながら、それって『大豆田とわ子と三人の元夫』っぽいなぁと現在、坂元 裕二脳の僕は唐突に思ったりしました。あちらは洒脱なコメディですが、ちゃんちゃん!


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