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映画感想/アステロイド•シティ

 まだ映画を観られていない方、観られる予定がある方は、要注意でお願いします。なるべく映画は映画館で観てほしいので。ネタバレというネタがあるような映画ではないので、まあ確かに、これを読んだからといって、という気もしますが念のため。

 午後七時からのウェス•アンダーソン監督『アステロイド•シティ』を鑑賞する。なぜ感想文を書こうと思ったのか問われれば、観終わった後からモヤモヤしているからだ。
 設定はおもしろい。アステロイドシティという架空の町を舞台にした芝居をしているその舞台裏を映すテレビのドキュメンタリー番組で、嘘が何層にも積み重なって、観客は映画という虚構を観ながら、スクリーンに映し出されるテレビ番組を通して展開するアステロイドシティという芝居を観ることになる。
(説明が難しい。映画を観た本人でさえ何を観たのか理解できていないのだから…)
 アステロイドシティでは、パステルカラーの水色の空の下で核実験が繰り返されている。隕石が落ちたクレーターだけが観光名所の砂漠の町。天才キッズとその家族が集められて、その名誉を讃える授賞式の最中にUFOが……
 と書くとなんとなくおもしろそうだが、実際には何を観て、何を感じればいいのか、まるでわからない。

 私はウェス•アンダーソンが好きだった。いまでも『ザ•ロイヤルテネンバウムス』や『ライフ•アクアティック』は影響を受けた映画として、オールタイムベストに名を連ねている。寓話的なエピソードに滑稽な台詞、センチメンタルな映像、胡散臭い人物たち。
 ウェス•アンダーソンの映画は、小さなエピソードを丁寧に紡いでいくことで、やや突拍子のない台詞や映像が空まわりすることなく、その一つ一つのエピソードが登場人物たちの魅力になって、〈滑稽だけど悲しい〉というウェス•アンダーソンの世界を構築していたのだと思う。
 しかしウェス•アンダーソンは『ダージリン急行』のあたりからそういう物語の描き方をやめてしまう。
 この映画でも小さなエピソードは散りばめられている。壊れた車から飛び出すまるで生きているように痙攣する部品。母親の遺灰をモーテルの路地に埋めようとする少女たち。窓の向こうではスカーレットヨハンソン演じる女性が「私はいつか浴槽で死んでいるのを発見されるわ」と芝居がかった台詞で告白する。
 この微妙な距離感なのだと思う。
 この映画全編に横たわる違和感や、無意味さや、私が物語に入りこめない理由は。
 主人公とスカーレットヨハンソンとの会話はいつも窓越しで、その距離をどうしたいのか? 縮めたいのか、遠ざかりたいのか? そんな感情はどこにもなくて、死んだ妻役を演じるはずだった女性との会話はバルコニー越し。そこには体に触れることができない、実在を確認することができない沈黙(セリフはあるのだが沈黙しているに等しい)があるだけだ。悲しみも笑いも何もない。

 この作品は、現在のウェス•アンダーソンが描きたいことなのか?と疑問を抱きながら、観客はそれを受け入れるしかない。虚構に虚構を重ねて、肉も骨もない人間が喋り、本当はどこにもない。魅力的な嘘さえ存在しない。痛みや悲しみをパステルカラーで塗り潰して、そのカラフルな壁は観客の感情移入を拒絶して、夜中の吉野家でだべって感想を話すことさえ許してくれない。話すことが何もないのだから。

 と感想を書いて、胸のモヤモヤが晴れたわけでもなく、つまらない映画だったと言うのは簡単なんだけど……とか思いながら、「あれ、また映画撮ったのね」と次回作も映画館に足を運ぶわけです。ウェス•アンダーソンが好きなので。

 土曜日の夜に映画を観て、そのまま吉野家に行って注文した牛焼肉丼ができるまで手持ち無沙汰に感想を書き、牛焼肉丼が到着してからはそれを胃袋に流しこみ、そのまま忘れて、日曜の夜に書き足したりした。吉野家は久しぶりだった。そういった牛丼屋さんに行かないわけではなく、近所にあるのはすき家で、自分が選ぶとしたら、なか卯だから。


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