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どうでもいいことばかりなら、本当にどうでもいい話がしたい。

日曜朝5時、曇天。学生時代の先輩の誕生会で朝まで飲み歩いていたところから帰宅し、真っ先にシャワーを浴びた。身体にこびりついた汗を流すほかに、昨夜の自分のおこないの愚かさやくだらなさを清めたくて、いつもより冷ためのシャワーを浴びた。そろそろ夏がやってくる。暑くてむさ苦しくて、人々が皆躁状態になって喧しい季節。気温だけではない、夏に付随する形相も身体を火照らせる。行き場を失った熱を冷ためのシャワーで流してやるのである。試したことがある方はわかるだろう。熱を帯びた頭皮から生ぬるいお湯が流れてきて、少しずつ身体が冷却されていく実感の気持ちよさ。熱暑において、この時間がもっとも快楽を感じる。

20代後半ともなれば、オールは大変しんどい。同年代が集まると、しんどいのは体力的な問題だけではない。みなだいぶ早い時間から精神的にも疲労困憊に陥るため、空気がギスギスしてくるのだ。祝いを口実に含んだ酒で判断力の落ちた我々はなんとなくで終電を逃してしまったが、いざそうなると、これから過ごす数時間の長さに途方に暮れるものだ。話題も尽きれば、機嫌が悪くなる者もいるし、もう何を喋っているのかよくわからない者もいる。大人はオールなんてするべきではない。名残惜しそうにしていても、ちゃんと終電で帰してくれ。
実際、同年代の者は最近終電になるだいぶ前の時間に帰路につくものも多い。目先の愉しさより、良質な睡眠をこよなく愛するようになるのだろう。そのリズムを崩してしまうと、我々の軟弱な肉体や精神は週5日の労働に耐えられない。

ところで、話を前日に戻そう。この日は学生時代から10年ほどの付き合いになる先輩の誕生日を祝う催しだった。先輩はもう30歳手前だが、未だにちゃんとベタにお祝いされることを欲しがる。とても気前のいい先輩でゴールデンウィークには箱根に連れていってくれて、そこでも大部分のお金を出してもらった。この先輩は学生時代からそういうところがあり、お金がない時でも「ラーメンに味玉つける?」と言って、なにかしら先輩らしい振る舞いをしてくれる男だった。私はよくしてくれた友人達に恩を仇で返すようなこともやってきたりしているので、人付き合いの継続性が壊滅的である。それでも、気にしていないのか、気が狂っているのかわからないが未だに親しくしてくれている友人がいるのはとてもありがたいことだ。

先輩についても、私のあらゆる粗相を概ね見逃してくれる。しかし、たまに「今日は先輩としてこいつにお灸をすえてやらねば」という気概をヒシヒシと感じるときがあり、そういうときは先輩が気持ちよく説教できるような顔を準備しておく。私は先輩が一番気持ちよく説教できるような相槌を心得ている。とは言え、説教とは大概嫌なものである。この多様で個人主義的な時代において、あらゆる価値観があるなかで仕事でもないのに、なにかを一方的に説く行為は暴力的であるとさえ受け取られる。むしろ仕事ではパワハラとされることも多い。もちろん、私も怒られるのは嫌だが、もう10年の付き合いになる先輩からの申し事であれば甘んじて聞き入れようと思える。きっと、人格に踏み込んで「あれは良くない」「こうした方がいい」と言うには、関係性なり場所感が重要なのだろう。

説教の話はどうでもいいのだ。というか、人生はだいたいのことがどうでもいい。集まった友人らの話題は「昔話」や「仕事の話」とか、「誰々が結婚した」とか、まったくどうでもいい話ばかりだった。隠し立てず言えば、退屈な時間である。私はもっと『ぼっちざろっく!』の虹夏ちゃんのツノのような部分は生命体なのかどうか、渋谷を含め大都市がイオンモール化すると悲観の文脈で語られているがモールは文化の発信点でもあったのではないか、00年代の森山未來はなんであんなに全力疾走していたのか、そういう話がしたい。どうでもいいことばかりなら、本当にどうでもいい話がしたい。
しかし、実際のところ目の前の生活や将来の安寧を気にかけるのは当然のことだ。生活においてプライオリティの低いエンタメや抽象的な話は、その楽しみ方を忘れた「大人」から見れば子供じみているのかもしれない。私はどこかで、生活と一直線には結びつかない思考実験や空想の話を楽しめる自分を誇らしく思っていたところがあるが、今はその想像力に縛り付けられ、かえって苦しめられている気がする。また、私だけが置いていかれるような気分だ。

そんなこんなで、三次会では残った3名(私、先輩I、先輩U)でセクキャバに来た。女体をお触りできるキャバクラだと思ってくれればいい。先輩Iはもう意識がほとんどなく、たくさんお祝いされて気前の良さに拍車がかかっていたので、私ともうひとりの先輩Uのお金を出してくれた。我々は先輩Iの気が変わらぬうちに店に駆け込む。
今回の狙いというか裏テーマには、風俗店に行ったことがないという先輩Uの背中を押す、というものがあった。もちろん、人には様々な信念や価値観があるから「一度は風俗行ったほうが良いぞ」「童貞じゃ駄目だぞ」みたいな押しつけはしたくないが、その先輩はあまりにモテないがため、誰の目にも明らかな具合で女性への偏見で性格が拗れてしまっていた。そこで我々は彼にショック療法が必要だと判断したのだった。

私自身はセクキャバに訪れるのは4度目である。一度は付き合いで行ったのだが、好みの女性とイチャイチャできるというのは大変気持ちがよいと感じたため、二度目は好みの方を指名して訪問した。その女性は非常に若く、今どきの韓国系の顔立ちで、スラッとした長身、すこし天然といった具合でクラスで会ったらひとことも口を交わすことはなかったであろう人物だ。なにより、なにか嫌なことがあったときある程度のお金さえ払えば、ただ側にいてくれて抱きしめてくれる人がいるという事実が性的な欲求を満たすことよりも大変嬉しく、そのシステムの存在に救済されたような気分だった。セクキャバはほとんど福祉だと思う。教会、銭湯、セラピーのような疲れたものたちの拠り所。もしどうしようもなく社会が嫌になって、人生にも疲れて犯罪を犯しかねないと思ったら、どこかひとつでも拠り所があるといい。それが私にはセクキャバなのだろう。

セクキャバに行く前は「いやー、そんなことにお金使うなら良いお酒を飲みたいね」「そんなに可愛い子いないでしょ?」「どうせそういうところに行くならソープに行きたい、中途半端が一番嫌」と散々豪語していた先輩Uだが、店からでてきた彼は溢れんばかりの笑みを浮かべていた。やはり、一度も経験せずに否定するのは良くない、まずは一度やってみるのがいいのだろう(例外はいくらでもあるが)。人生とはたいていくだらない、つまらない、退屈なものだ。ただ、人の変化を間近で見れたときはちょっとだけ嬉しい。


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