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オリジナリティーを発揮する。

数か月ぶりに何の予定もなく、「課題」というプレッシャーもない日々。
うつらうつらしながら、積読本を読んでいると、こんな一節が目に飛び込んできました。

 そのような自分の体験から思うのですが、自分のオリジナルの文体なり話法なりを見つけ出すには、まず出発点として「自分に何かを加算していく」よりはむしろ、「自分から何かをマイナスしていく」という作業が必要とされるみたいです。考えてみれば、僕らは生きていく過程であまりに多くの物事を抱え込んでしまっています。情報過多というか、荷物が多すぎるというか、与えられた選択肢があまりにも多すぎて、自己表現みたいなことをしようと試みるとき、それらのコンテンツがしばしばクラッシュを起こし、時としてエンジン・ストールみたいな状態に陥ってしまいます。そして身動きがとれなくなってしまう。とすれば、とりあえず必要のないコンテンツをゴミ箱に放り込んで、情報系統をすっきりさせてしまえば、頭の中はもっと自由に行き来できるようになるはずです。
 それでは、何がどうしても必要で、何がそれほど必要ではないか、あるいはまったく不要であるかを、どのようにして見極めていけばいいのか。
 これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。もしあなたが何か自分にとって重要だと思える行為に従事していて、もしそこに自然発生的な楽しさや喜びを見出すことができなければ、それをやりながら胸がわくわくしてこなければ、そこには何か間違ったもの、不調和なものがあるということになりそうです。そういうときはもう一度最初に戻って、楽しさを邪魔している余分な部品、不自然な要素を、片端から放り出していかなくてはなりません。

村上春樹「職業としての小説家」第四回オリジナリティーについて

ちょうどここ数日「個性を活かすとはどういうことか?」と自問していたところでした。ヒューマンデザインで個性を伝えて、それからどうするのか?どうしたらオリジナリティーを発揮しながら生きていけるのか?

引用した文章は、プロの文筆家して生きるためという前提ではありますが、「オリジナリルを生きる」「創造性を発揮する」とはどういうことか?ということの核心が、この文章の中にあるような気がして、何度も繰り返し読んでしまいました。

わたしは人生の前半で、生きるための知恵やスキルを得ることが成長だと信じていましたし、すでに人生の後半を歩んでいる今でも「もっと、もっと」と何かを得ようとしてしまいがちです。
けれどこの地球上に生を受け、どれだけ自分のオリジナリティーを発揮できるかという段階では、何かをプラスすることではなく、必要のない矜持や信じ込み、エゴ、価値観などをどれだけ捨てられるかというところにかかっているのだと思います。

自分がどれほど不要なものを持っているのか。わたしたちはなかなか気づくことができません。それらはまるでわたし自身であるかのように、ぴったりとわたしにくっついています。
それが自分にとってそれほど大切ではないことに気づくためには、深いレベルでの内観や、人生に起こる出来事からのチャレンジ、他者のガイドや何らかの施術を受けるなどの方法があります。

そしてわたしはヒューマンデザインで言語化されるものの中にも、その可能性を見いだしています。自分の中の生きる喜びに直結した「楽しさ」や、靴の中に入った小石のような「不調和なもの」を、この不思議な言葉たちが自分の中に浸透することで、緩やかな気づきを得て、軽やかにオリジナルを生きることができると確信しつつあるのです。

オリジナリティーを生きるために、ヒューマンデザインのセッションを受けてみませんか?


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すがこ
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