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祝・藤川理論を始めて1年:これまでのふり返り(4)栄養の履歴書①

藤川理論を元に過去を振り返ると、「栄養不足だったから、ああいう行動をとってしまったんだ」と気付くことがたくさんあり、自分の栄養の歴史が見えてくる。
思い返すと保育園に通っていた頃から、うまく行かないと思うことが多かった。幼いながらも、周囲の大人や子どもたちとの関係において、常にぎこちなさを感じていた。自分がどこかおかしいということも頭のどこかで理解していた。

わたしは3人きょうだいの末っ子で、二番目の兄とは5歳離れているものの、何も栄養の対策をせずに出産を重ねると、やはり下に行くにつれ栄養不足は深刻になる。末っ子で女性であるということが、まず栄養不足の根っこの部分と言える。

栄養の歴史は親へと遡る。わたしの母は7人きょうだいの末っ子だった。一番上は男性だが、あとはすべて女性。母は数年前から認知症の症状が出始めているが、母の姉たちも似たような症状が多い。近年亡くなった母のすぐ上の姉は、かなり重度の認知症だったようだ。

そして、わたしの今日までの栄養不足の引き金になったのが、すべての女性にとっての引き金でもある、生理の始まりだった。
わたしは同級生の中ではかなり早く初潮を迎えてしまった。確か小学3年生の頃に、女子生徒だけを集めた生理についての授業があったと記憶しているのだけれど、その時すでにわたしは初潮を迎えていて、教師が「もう生理が始まっている人は?」と挙手させようとしてとても焦った。素直に手を挙げたのは体格が一番いいクラスメイトひとりだけで、本当に焦ってしまった。

もちろん他にもいた可能性はあるが、サニタリーボックスに捨てた生理用品をクラスのリーダー格の女子生徒に見つかり、取り巻き数人と一緒に来て「生理が始まったんだろう」と尋問されたこともあり、やはりその年齢で初潮を迎えるクラスメイトは少なかったのだと思う。
なぜそんな理不尽な仕打ちを受けねばならなかったのか、当時の自分が不憫だ。恥ずかしくて「始まっていない」としか言えず、それなのに相手は物証を盾にして責めてくるのでとても辛かった。
鉄不足の始まっていない彼女たちも、生まれながらに栄養が不足していたのかもしれない。もしくは、実は生理が始まっていることを彼女も隠し、わたしを責めていたのかもしれない。

実は、そのときわたしは自分の体に起こっている現象にひとりですべて対処していた。前述の母の不安定さはおそらくはわたしが物心つく前からだと思われるが、わたしが小学生の頃はとても意地悪な言動が増え、怒鳴ったり手が出ることもあり、当時母はわたしにとって何かを安心して相談できる相手ではなかった。
寄り添ってくれることがないわけではなかったが、たいていはわたしが悪いという結論になるか、「◯◯するしかない」という選択肢がない答えしかもらえなかった。

その頃の記憶が曖昧ではあるが、生理が始まったことに気づいた時、わたしは生理に関してほぼ知識がないにも関わらず、これを母に相談することはできないと瞬時に判断し、少なくとも数ヶ月そのことを隠し続けた。異常なことが自分の体に起きていてとても不安なのに、母に伝える方が怖かった。

こうして生理が早く始まってしまったことで、生まれつきの栄養不足に加え鉄不足が深刻になっていき、母との確執がさらに深まり、精神疾患の発症へとつながっていく。

今でもよく覚えている小学生時代のエピソードがある。小学3、4年生のときのリコーダーの授業で、始まってすぐ自宅にリコーダーを忘れたことに気づいた。そのことをクラスメイトの前で先生に注意され、とても焦ってしまったわたしは、何も言わずに教室を飛び出し家に取りに帰ってしまった。子どもの足で歩いて帰れる距離ではあるが、あまりに衝動的だ。

学校に戻る際に、軽トラに乗っていた近所のおじさんが、小学生が外にいる時間ではないのに道をひとりで歩いているわたしを見つけ、心配して事情を聞いてくれ、車で学校まで送ってくれた。
教室に戻ると、先生は何も言わずに家に帰ったことを軽く咎めたが、大きな問題になることはなかった。
その時の困惑した先生の雰囲気を今でもよく覚えている。リコーダーを取りに帰ることができて安堵しながらも、自分が異常な行動を取ってしまったとわかった。

また、この頃万引きをしていた黒歴史もある。街のファンシーグッズのお店には、文房具など欲しいものがたくさんあり、服の下に隠して家に持ち帰っていた。
お菓子屋さんでも常習的に行っていて、お店の人がわたしを見つけると何も言わずに手にお菓子を握らせてくれることもあった。お店の人はわたしを責めることはなく、ただ心配そうな、迷惑そうな表情をしていた。わたしは良くないことをしているとよく分かっていたけれど、頭がいつもぼーっとしている感じで、もちろん欲しいので手を伸ばしてしまうのだが、実際のところは行動に深い意味はなかったように思う。

実家は決して貧乏ではなかったが、その頃のわたしは、物ではなく、愛情が欲しかったのだと思う。そして今思えば、必要な栄養が欲しいと体が訴えていたのだろう。

万引きは小学生の高学年まで続いた。やめるきっかになったのは、ある日万引きしようとしてやめて外に出たところを、お店の人に注意されたことだった。
注意されてとても気まずかったし、後ろめたかったが、心のどこかでとてもホッとした。コントロールできない自分を、誰かに止めて欲しかったのかもしれない。警察に通報されることはなく、親にも知らされることはなかった。

買い与えていない物が家にあることを、両親はどう思っていたのだろう。両親とこのことについて話したことはないが、祖父からお小遣いをもらうこともあったので、あまり疑問に思わなかったのだろうか。
罪悪感に耐えられなくなり万引きした物をゴミ箱に捨てたものの、また母が拾って使っていて驚いたこともあった。
健康優良児でスポーツができる体格の良い兄2人に、わたしの存在はいつも隠れてしまっていたのかもしれない。

日々誰にも不調を打ち明けられずに、孤島に暮らすように過ごしていた小学生時代のわたしを思い出すのは、以前の自分にとってはとても辛いことだった。
意地悪な態度を取り続ける母のせいで精神疾患になったのだと思っていたし、何よりその頃の自分の不甲斐ない行動を思い出すと、ひたすら自責の念に駆られてしまい、過去はすべて取り返せない失敗であるとしか思えなかった。
母も栄養不足だったことを考えると、そんな状態で必死で子どもを育てていたのだから、仕方がなかったのだと諦めがつく。

栄養の履歴書は詳しく振り返りたいので、次回は当時自分が何を食べていたかを思い出して書いてみようと思う。


Thank you for reading so far.
yama

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