行動原理について

インディーゲームが産業に近づくにつれ、
「国内の若手インディーゲームクリエイターの一部を見ても、明らかにスタートアップのプロセスを内面化している」との指摘がみられたり、
あと講義でマーケティングの話とかすると
「バズったから作ったんですか?」などの質問を受けることもあった。

もはや若手ではないが、私の行動原理は…なんだろう。そもそもスタートアップのプロセスとか知らん。知ってたら資金調達とかできるんだろうか?

私の行動原理…は何かというと。
「自分にとっての一番面白いゲーム」を探しているんだろう。
最近遊んだエルデンリングもゼルダも面白いが、一生遊べるほど満足はしてないのだ。これは絶対的な評価ではなくて、
例えば「体の70%は映画でできている」というゲーム監督がいて、その監督にとって面白いゲームは映画的なものになるだろうけど、私の体はあんまり映画でできてないので映画的なゲームが一番とは思っていない。
だから私が一番面白いと思うゲームを作っても、それは客観的には一番面白いゲームでは決してない。あとクオリティの面はある程度目をつぶる、個人開発で最高の品質には到達できないので。方向性や設計を問うている。技術は可能な範囲でやる。

「作品は子供」と言う人もいるけど、人間の子供と違うのは自我を持って勝手に成長したりはしないということだ。
例えるならオーダーメイドの墓?ピラミッド?古墳?観光名所?遊園地?
まあ墓的な物なんだけど他人にとっては面白い場所ってことで。権力者ほど大きな墓が作れるが、創意工夫は誰にでもできるはずだ。

「カニノケンカ」も「エースオブシーフード」も面白いと思ってるが完成してみると欠点も見えてくる。だからまた作るのだ。

で「面白いゲーム」に他人の手が必要だなと感じたら、その人に仕事を頼む。仕事を頼むには金がいるのだ。だから商業性は無視できない。そもそも自分で「面白いゲーム」を作ってるつもりなのにそれが全く売れなかったら「自分」と「人類」の感性が乖離しすぎているということなので、「この世に生きるのが辛い…!」ということになってしまう。

産業から離れる事が「インディーの行動原理に従っている」と言われると、私は「この大作シリーズが世界一面白いし、一生関わっていたいぜ」みたいな作品がもし存在したらそこに居ただろうから、その行動原理には従っていない。。。
いや本当にそうか?「アーマード・コア」はかなり好きでフロムに入ろうとした事もあるが、今はそうでもない。「自分が関わる事で作品がより良くなる」と思えないからだ。
逆に「カニノケンカ」や「エースオブシーフード」は誰も真似してくれないので俺が作るしかない。「アーマード・コア6」が例え最高に面白いゲームだったとしても、それだけあればいいという事にはならない。
面白い作品はなんぼあってもいいですからね。その中から好みの作品を選んで遊べるという事が大事だと思っている。


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