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日傘toジェンダー 2024/6/14

木村 このポスター少し笑っちゃった、
こんな毛のイメージはなかった。

能條 なんだかんだ我々after sun一番引きずってない?
まあ全員観たから触れやすいというのもあるけど

戸芭 思い返すと思い返すだけ、あれ?めちゃくちゃ良くなかった?、ってなる

能條 日焼け止め塗ると思い出す。after sunが日焼け止めって意味なの知らなかった

戸芭 日焼け止めもう塗ってるんすか

能條 母に塗れ塗れと言われて

戸芭 今年は塗ろうかな、って思ってる。去年痛い目見たから

木村 暑すぎて日傘さした

戸芭 やば、そんな暑いっけ

能條 今日は急に暑かった、日傘が羨ましくなるほど

木村 昨日今日意味わからない

戸芭 そういえばエアコンつけちゃってるわ、わたしも

木村 日傘、元カノを思い出す

戸芭 べつに女の人みんなさしてらぁ

能條 日傘見ると絶対、戸芭を思い出しちゃう

戸芭 なぜ

木村 笑笑
すごすぎるなこのツイート、おもしろ

能條 あ、美への執着そのものを大衆に晒す記号だって未だに過る

戸芭 いまでもやっぱりうっすらぜんぜんそう思っちゃうな

木村 日傘の効果を感じすぎて、今では雨の時の傘と同じに捉えてる

能條 日傘ってどうしてもピーチ姫みたいなイメージが絵面としてあって、男がさしてると滑稽に見えてしまうみたいなものはありそう

戸芭 日傘はまじでそういうジェンダー意識においてキーアイテムだと思う

能條 小雨のときの傘ですら欧米では男らしくないとされるみたいな話も聞いたことあるな

戸芭 その行為の主体が男性のときは「日傘をさす」という行為が、それこそ大衆に、「ジェンダー意識において最先端です」という態度を晒す(さらけ出す)、一種の方法になっている、、みたいな、、敏感すぎるかなあるいは遅れすぎてる

能條 「男が日傘をさしたって全くおかしくないさ」みたいな言葉を問わず語りし始めたら、ちょっと思うけど

戸芭 はいはい

木村 実際何も思わないし何も言わなくないか?

戸芭 それはもう木村がアップデートされきっているだけな気がする

木村 2人がジェンダー意識の観点で話題に上げること自体、?ってなった

能條 何も言うわけないけど、正直「男も日傘さしてるな、うんうんそうだよね。今は暑すぎて男女問わず日差しを避けるのは大切だからね。」みたいな一瞬の思考時間が存在する

戸芭 めちゃくちゃわかる

木村 なるほど

能條 ただ、男が日傘さしてることに対して有象無象言う人のことが頭に浮かんでしまう

戸芭 有象無象言う、って聞かない表現だな

能條 なんか変だな、なんだっけ

戸芭 「とやかく言う」?

能條 四字熟語ではないか

戸芭 四字熟語もありそうだけども

能條 やいのやいの がまず浮かんで、ちょっとStylishじゃなかったからやめた

木村 「stylish」

木村 ジェンダーの観点があらゆる思考に介入してくるの正直鬱陶しく感じている

戸芭 でも、いちいちあらゆることに関係してくる何かをいちいちちゃんと立ち止まって考える、っていうのはわたしたちが手放してはいけないものだよな、とも思う。
「そんなのどうでもいいじゃん」で前提を疑うことをしない人に、かなり懐疑的。思考のプロセスがあるって、洗脳されていない、ってことと表裏一体というかなんというか。

能條 電車でも今日、声を上げて一人騒いでいる人がいたんだけど、いちいち「ま、わたしは気にしませんが。」タイムが存在する。赤ちゃんが泣いているときもそんな風に思考する時間がうまれる。
別に全く苛立ったり嫌がったりしていないはずなのに、「この程度で苛立ったらどうしよう。」っていう不安

戸芭 そういう現象への反応が「常識」というものに括られて、当たり前みたいになった時に、人はそのカテゴリにおいて疑うことをやめてしまうので、そういう不安はある意味では良いことと思う。

木村 その疑いとか不安ってもちろん大切なんだけど、今の世の中、いつの間にかジェンダーの話にすり替わってる感が否めない時がある。
さっきも言ったように、もっと合理的な理由とか根本的なところに理由があるはずなのにいつの間にか性別の話になっている

能條 合理的な理由ももちろんあるし、別にそれを蔑ろにはしていない。ただ別軸に性別やマイノリティの声が浮かんでくる。
すり替えているつもりはないんだけど、ジェンダー意識もそれを排除した原理もどちらも話題として置いていくことはできない。

戸芭 「日傘をさすのは日光を防げるからです」という合理性には議論の余地がないけど、生理はいくらでもそれ自体を言い訳にして議論できてしまうという一面があって、それで人々が口うるさくなって声が大きくなって、いつの間にかそういう話になってしまっているのだと思われ?

能條 すでにそういう観念がわたしの頭にも社会にも刷り込まれてる今、ジェンダーを避けるのはもはや愚行では?社会の価値観に染み込みつつある以上、ジェンダーと向き合うことはもう「合理的」な選択で、生理でその価値観を拒否することは「非合理的」。

戸芭 生理を合理として受け入れる(向き合う)プロセスがあの一瞬の思考時間なのかも。そういう意味で、あの一瞬の思考時間が私たちを、立ち止まって思考することをやめず、価値観を合理的なものとして受け入れて生きていける、社会的現代人たらしめていると思う

能條 形に見えない風潮も、どこかにある以上ないものにはできない。思考に差し込んでくるんだから

木村 この差し込んでくるってのが、果たしてジェンダー平等のためになっているのか、と言われるとどこかで阻害している気がしてる

能條 もちろん阻害してはいるけど、だからといってそれをストップしては完全な停滞だから

戸芭 阻害してるか?そもそも差し込んでこなかったら、「意識」として存在しえないのでは

能條 広い目で見れば「阻害→受け入れ」の重要なプロセスであって、阻害ではない。新しいジェンダー観が、何も疑われることなく定着するまでの最後の時間としての思考。

戸芭 うんうん

能條 この思考がなかったら、ただ臭いものに蓋してるだけで根本的な解決にならない。適当な色で気に入らない下地に強引に上書きしただけ。

戸芭 「疑われることなく定着する」ということが、『いちいち「意識→思考→受け入れ」のフェーズを踏まないで反応できるようになるということ』と考えると、ある種洗脳的で、一辺倒にいいとも言えないのでは?とも思うけど、でもやっぱり、ジェンダーというカテゴリは、さすがに何も疑われることのない常識になっていくほうが安全か、、、
うん。安全というか当然なのかな流石に

能條 脳に「新しい常識」の注射を打ち込んでる絵面は気持ち悪い。思考を介さないダイレクトな定着

戸芭 ちょっと前に倫理の面で同じような話をしたよね確か。初等教育あたりでの「啓蒙」だけが「常識」をかたちづくり得る、みたいな

木村 した

詳しくはこちらの記事をどうぞ↓

戸芭 ジェンダーとかの規範もほんとうのほんとうに「常識」として当たり前になってるのは、啓蒙を受けた若い世代だけなのかな。
そしたら、啓蒙を受けた未来の若人だけが、ジェンダー規範を常識化・内面化してて、、、、だからあの一瞬の思考を挟まない老人は、規範常識のズレた人間として若者や社会からバッシングされて立ちゆかなくなるのだろうな。

能條 一瞬の思考を挟みつつ表面上は物言わず迎合しているのが今の現状です

戸芭 思考を挟んで迎合できているならそれは生き残れてるということだよ、ちゃんと。それが正解なんだと思う


<ここからは一同ややこしくなっております>

能條 思考を挟める理由は、やっぱり反対意見の存在を知っているからで、その反対意見すら徹底的に排除されたらそりゃ思考する機会も与えられなくなっちゃうよね。

戸芭 それとは別軸に、そもそも「反対意見」すらない生理の面での“飲み込め無さ”っていうのが確かにあるはずで、それを「納得・妥協(思考というよりも)」して迎合するのが必須だと思う

能條 生理の面といっても原始的な話ではなくて、結局それもかつての社会から半ば合理として押し付けられたものだから、なんとも言えない。

戸芭 いや原始的な“飲み込め無さ”も絶対あるって

能條 みんなが変って言ってたからなんとなく変に感じる、程度の生理じゃないかな

戸芭 なるほど。証拠とかの科学的な合理性じゃなくて、みんなこう言ってるから、飲み込め無さはあるっちゃあるけど、みんなに合わせとけば丸いだろう、という社会的な合理性ということか

能條 同性愛ってなると、結構根源の話になりそうなのでなんともですが

戸芭 結局はその“飲み込め無さ”の正体も、社会や文化の中で習得した常識でしかない、という話か。
まあそういうひどく内面化された社会性に基づく違和感をわたしはずっと「生理」として言ってると思ってほしい、というかそういう齟齬で理解がずっとうまくいってなかった。

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