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「正しさ」に右往左往する人たちにうんざり

  さて、どこから書き始めようか。


 半年に渡ってブログの過去の良記事をnoteにアップしてきたわけだが。どうもそれもネタ切れ気味になってきて、ちょっと身辺雑記をこちらで書こうかという感じになっている。身辺雑記は、あまり集金能力は高くない。


 まあ、つらつらと最近不愉快に思っていることについて書くが。


 最近、新型コロナウィルス(COVID-19)流行に伴って、正しさを振りかざす人が増えてきている気がする。まあ、それ以外にもポリティカル・コレクトネスだのジェンダーフリーだの、いろいろな正しさで喧嘩が増えてきているようだ。


 コンビニでマスクを付けているか、つけていないか、という程度のことで成人男性が殴り合いの喧嘩になったり。

 国民に自粛要請をしているのに政治家が会食しただの、キャバクラに行っただの、ということで辞職させられたり。

 僕も富野由悠季の世界展富山会場に旅行に行ったのだが、それも暗に嫌味を言われたりもした。(僕としては不織布マスクと防じんマスクと脱脂綿と布マスクとマフラーで5重に口を覆っていたので感染を広めないような対策は自分でしたつもりではある)


 正しさ。



 それは人にとって非常に甘美なものなのだろう。正しさがあれば、他人を叩いたりツイッターで悪口を言ったり、職を奪ってもいい、そう考える人が多いように思う。まあ、絶対的に客観的に公平に正しさというものが本当に存在していれば、まだ許せるのだが、実はそんなものはない。いや、高次元の物理学や生物学の次元では「正しい現実」というものがあるはずなのだが、現代の人類文明はまだそれを観測する段階に至っていないと感じる。


 そういうわけで、本当の絶対的な正義にアクセスできないので、結局は個々人の不完全な人間が自分の所属する政治的傾向の団体やら国民性やら党派性によって、それぞれの不確定な正義を振りかざしていくだけなのだが。

 正義というものの性質上、自分の正義は不確定なものであると思いながら正義を振りかざすことは難しく、自分の正義は絶対的に正しいと思いこんで正義を振りかざす人が多い。なぜなら、その方が気持ちいいし、物理学など難しいお勉強をしなくてもよくて楽だからだ。


 それで、正義と正義の衝突が起こる。正義と正義の衝突は起こるが、どちらも自分が絶対正義だと思っているし相手のことを侮蔑して攻撃するのが主眼なので、対立する意見の理由、なぜそういう意見を持つに至ったかなど、を聞くことは少ないのでコミュニケーションによるすり合わせや、本当に現実的に正しいイデアを共同で探索することはあまりなく、ただただ相手が間違っていると侮蔑の言葉や攻撃の言葉をぶつけたり、時には暴力に訴えかけたりする。それが快楽原則に沿っている動物的な行動だからだ。


 僕は精神障害者であり、基底現実にはいない脳内妹と婚約しているし、無職だし、オタクだし、多くの人から正しくないと言われている。僕も自分が正しいなんて思っていないよ。バカだし。その場のノリで富野由悠季グッズを1万8千円も買ってしまって借金をこさえたり、貧乏なのにソシャゲに課金したりするし。


 そういうふうに自分は正しくない人間だと思っている、社会の枠の外の人として社会の中の人を見ると、「自分が正しい」という自己認識を守るために右翼も左翼も、リベラルも保守もひたすら相手を攻撃することに腐心しているように見えて、とてもくだらないなあと思う。


 別に攻撃するなとか仲良くしろ、とか、そう言う幼稚園の先生のようなことをいいたいわけではない。


 ただ、単純な功利主義として、「コロナウィルス対策の政策を批判したり、コロナウィルス対策に従わずにマスクを付けていない人を攻撃したら、あなたはコロナウィルスに感染しなくなるのですか?そんなわけはないですよね。ウィルスは人の善悪などは考慮しない。善行をつもうが悪徳にまみれようが、病気になるときはなる」ということです。

 悪い他人を吊るし上げようが、処刑しようが、そんなものは自分の幸せとは本質的には関係がないのだ。自分が病気になる恐怖を、他人を吊るし上げることでごまかしているだけだ。中世かよ。


 病気になるときはなる、からと言って積極的にマスクを外せと言っているわけではない。僕は自分が病気になるのは嫌なので、防じんマスクも買っているし喉の保湿や手洗いうがいはしている。しかし、それは自分のための行為である。そういう防疫の個人的な努力をしていても、やはり病気になるときはなると、個人的に覚悟している、ということです。


 結局僕は利己的な個人主義者なので、自分が病気になるかならないかでしかないと思っている。なので、他人がコロナウィルス対策に反する行動をとっていても、別に怒りは感じない。

 というか、コロナウィルス対策に反する人を吊し上げたり、喧嘩をするのは下らないと思う。というか、正義に沿って、正義に反すると思われる人を攻撃していれば(神様か何かが評価してくれて)病気にならない、というふうに考えている人がいるとしたら、それは中世の黒死病やペストの時代の宗教にしか拠り所のない民衆と変わらないだろうと思う。


 僕は僕の体にしか責任を負うつもりはない。(もちろん、国策としての防疫や政治とかワクチン流通に携わる人は職責があるだろうが、しかし、新型コロナウィルスというものやワクチンの反応機序はまだ未解明の部分も多いので、僕は彼らに100%の絶対性は期待していない)


 子宮頸がんワクチンや原子力発電所の事故などについてもそうだ。科学的に新しく、実証例が乏しいものがどうなるかはわからない部分が多い。結局はトライアンドエラーで副作用に苦しむ人や除染作業のリスクを負う人を出しながら、少しずつ科学的な精度を高めていくしかない。

 (まあ、精度の低い段階で政治的に発言力を高めるために強い言葉を使って喧伝する人もいるのだが。山本太郎の「ベクレてる弁当」とか。)


 科学的である、というのは絶対的だと思う人が多いかもしれないが、理系化学専攻の大学1年生で有効数字について叩き込まれた経験がある僕としては「科学的な精度の程度は絶対ではなく、機材の性能で変わり、エラーもある」という感覚です。


 なので、大学以降の科学的な態度としては不確実性を含みながら、行動していくしかないのだが、大体の人は大学以前の受験勉強で行動している人が多い。

 簡単に言うと「正解か不正解か」です。正解で正しいものは不正解のものを罵倒して攻撃してバカにしてもいい、というパターナリズムで行動している人が多いように思える。

 多くのTVバラエティの「才能アリ、凡人、才能なし」というデジタルな区分けや、ノーヒントのクイズなども「正解は偉い、不正解はバカにしていい」という価値観です。


 子宮頸がんワクチンや原発事故については色々と違う立場がありますが、僕はそれらに関係してはいないので、言及しないようにしている。自分の利害に関係ないものについては正しさを振りかざさず、沈黙するようにしている。

 もちろん、自分に直接利害が及ぶものについては、さらにツイッターでは軽々しく発言せず、法的に必殺攻撃しますけど。

 https://anond.hatelabo.jp/20180617205739

 僕の精神障害や親の自殺を揶揄したnekora2520は普通にはてな株式会社の運営に通報して、僕自身では手をくださず、はてな運営に追放処分させた。


 最も身近な例といえば僕の母親が自殺して、父親が僕にマウントしてくるという最近の生活ですが。


 機能不全家族であったし、僕は精神的に不安定な母親のカウンセラーみたいな役割をしていたが、僕が東京の会社に就職したら母親は不動産投資にのめり込み、父親はそれを無視して、母親が限界になるまで無視していた。そして母親は自殺した。

 父親は「自分は働いていて正しいことをしている。母親は投資など間違っていることをしているので罰を受けて当然」と思っていたようだ。

 社会的パターナリズムは人を殺す。


 父親は母親が自殺したあとに、親戚に「話を聞いてやればよかった」と言っていたが、母親は自殺する数日前に「お父さんはいつも知らんぷりしている!」って言っていて、父親は不機嫌になって寝逃げしていた。


 そして、母親が自殺して8年経ったけど、父親は毎日仏壇に線香を上げている。

 僕は「父親にとっては、不確実な人間同士として、生前の母親と話し合うより、”仏様”としての母親に線香を上げて仏教のしきたりのルールに従って自動的に供養するほうが楽ちんなんだろうな」と思う。


 人と人の違った価値観のすり合わせは難しいし苦しいけど、文句を言わない死んだ人の供養とか宗教のルールという「正しいと評価されやすいこと」はとても楽ちんに自分の正しさという自意識を補強する行動だろうなって思う。そして僕はそれはとても浅ましいと思う。


 そういうわけでぼくはますます宗教が嫌いになっている。父親が死んだら葬式もしたくないし仏壇は早々に処分したい。母親は生前、「お父さんが実家から仏壇をこっちに持ってきてからろくなことがない」と言っていて、同じ仏壇に位牌を入れられるのもいやだろうとおもう。まあ、 死後の世界も僕はよくわかってないのだが。


 そういえば、血天井でお馴染みの京都の源光庵の檀家なのだが、今年はコロナウィルスが怖いからと言って、毎年やっていたお盆も命日の法事もキャンセルになった。なら、代わりになにかするかと言うと、それもない。

 本当に宗教的な法事は無意味なんだなあと感じた。今まで金を払ってお経を読んでもらっていたが、それもやっぱり無意味だったんだろう。父親が死んだら檀家の契約も切ろうと思う。父親の世代はまだ、宗教的な価値観をパターナリズム的に受容しているようだが。

 僕も基礎教養として般若心経や法華経くらいは読んでいるが、母親が死んだからといって漢文のお経が理解できるようになるとは思えない。しかも、お経の読み方は漢文としての経文とは微妙に違ったところで区切ったりしていて、聞いていて不愉快。サンスクリット語は現代人にはもっと関係ない。死んだら仏になってサンスクリット語が理解できるのか?そんなわけはないですよね。


 父親の「正しさ」への信奉は宗教的な部分だけでなく、日常生活でも多い。

 とにかく棚や引き出しは「開けたら閉める」と僕に怒ってくる。たまにうっかり、電子レンジでレトルト食品を温めるのに使った蓋を片付け忘れることがあるが、父親は「いつもお前は忘れている」と全般化して攻撃してくる。



 洗濯機についても、


https://select.mamastar.jp/302619
洗濯機メーカーのHPを見ていると”洗濯槽を乾燥させているかどうか”によって洗濯していないときにフタを開けておくかどうかが決まるようです。乾燥まで洗濯機に任せる場合は洗濯物と一緒に洗濯槽も乾燥させられることから洗濯後、洗濯機のフタは閉めておいても良さそうですね。一方で乾燥は洗濯機ではしない、という場合はカビの心配もあることから洗濯していないときはフタを開けておいた方がいいのかもしれません。

 というメーカーの指導や研究結果があるのだが、父親は「開けたら閉める」という幼稚園レベルの「正しさ」を振りかざしてきているので、僕が「洗濯槽にカビが生えると嫌だな」と思って洗濯機の蓋を開けていると怒ってくる。湿度やカビという目に見えないものは68歳の父親には理解できない概念なのだ。


 僕の主治医の精神科医にそのことを相談すると「科学的な正しさは、父親は理解できない。単にマウントしたいだけで、その道具として常識を振りかざしてきてるだけ。説得しようとしても無駄だから聞き流すしかない」とのこと。


 僕も文章を評価されているし、僕の寄稿した同人誌が重版されたりしているので、そっちの方を見ているべきだと思うが。しかし、同じ家に生息している父親が僕の一挙一動を虎視眈々と常に批判しようと見ているのは生理的に不愉快だ。



 正義や正しさが自分にあると思い込んでいる人は、その正義の具体的な根拠や科学的な意味は無視して「自分が正義だ」と言って攻撃してくる。

 それが、実生活の父親でもあり、ツイッターの右派左派の罵り合いでもあり、非常に下らないと思う。


 自分が正義だとアピールしたら神様とか何かが評価して幸せになれるのか?そんなわけはないですよね。

 結局単なる暴力衝動のぶつけ合いに過ぎないんだよ。他人がコロナウィルス対策に従っているかどうかも、単に他人を攻撃して自分が気持ちよくなるための理由付けに過ぎない。

 人間は目に見えないウィルスに対策するよりも、同族の人間の目に見える行動に目くじらを立てて争い合って、問題の本質から目をそらして、自分の心理的な気持ちよさを優先する、本当に下らない生き物だ。

(と、精神科医に言ったところ、「社会に憎しみを向けるのは良くない」と言われるかと思ったが、逆に同意されて「息苦しくてやりにくい社会になりましたね」と同意された)



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