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ギラ・ドーガはなぜアクシズを押したのか?

 この問題は非常に根深く、長年、色んな人が何回も疑問を呈している。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1377545588
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1320745113
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11173784896
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1250113817
 いろんな意見がある。


 自分の意見として、先日、逆襲のシャアを見た時に感じたことと、さっき「密会アムロとララァ」を読み返して感じたことを書く。
 前項(長い)



 「密会」の102Pの人間の4類型、アムロとララァとオールドタイプとシャアが富野由悠季の人間感としてかなり重要だ。
 包容力のあるアムロに、差別されたララァは同一化した。オールドタイプは自らの安逸にしか興味がない。シャアは知恵と狂気と肉体を持った人!
 シャアは単に現実主義者で肉体を使って戦う戦士であり、究極的に自分しか信じていない、いや、自分しか世界にいない人間なのではないだろうか。これは雑に言うとサイコパスなのだが。
 大衆としてのオールドタイプは経済格差や社会システムの搾取によって、他者との利害と言う関わり合いによって安逸を手に入れようとする。自分は大した力も持っていないくせに、テレビや新聞やツイッターで他人のうわさに汲々として足の引っ張り合いをして自分だけは助かろうとする、蜘蛛の糸のカンダタやレ・ミゼラブルのテナルディエのような人間が我々大衆です。社会システムに依存したこそ泥です。
 しかし、戦士は大衆ではない。戦士は知恵によって動物以下の利己的な行為を正当化する。戦士にとって確かなものは自分と、肉体と、道具と、経験と、現実しかない。戦って獲得する、それだけだ。だからシャアは強さを手に入れた。
 アムロとララァのようなニュータイプは意識によって分かり合えた。しかし、それはイメージの密会に過ぎないのではないか?
 そういう精神的な関係に対する対になる極として、「自分の肉体と現実」だけで戦うロンリー・ソルジャー、シャア・アズナブルをキャラクターとしておくのは創作術としても自然なことだ。

 シャアは現実的な経験として自分が「良い」と思ったものは「良い」と分かる能力はある。
 それがシャアの強さだ。物事の本質を理解する、と言う面でのニュータイプだ。
 だが、脆さでもある。
 シャアには自分しかいない。もしかしたら、世界が平和だったら、他の人間がもっと優しかったらシャアもアムロのようなニュータイプになれたかもしれない。だが、シャアは殺して生き延びるしかない戦士だと自覚する経験しか、現実社会で得られなかった人だ。シャアにとって世界の本質とは殺し合いと戦いでしかなかった。
 しかし、現実が殺し合いでしかないとしたら、殺して勝つ、それは正しいものの見方だ。


 で、シャアの反乱時点でのネオ・ジオンの参加者は元ジオン軍やティターンズや難民や軍人崩れが多い。地球連邦の社会から疎外された人たちだ。だから彼らはシャア・アズナブルを頼る。大衆の中から生まれた一般人でありながら、ララァのように地球連邦社会の大衆から排除された人々。そして、その中でもモビルスーツ、ギラ・ドーガのパイロットをやるような奴はシャアの縮小コピーのような戦士だ。
 彼らもシャアと同じく社会から殺され、敵を殺すことで生き延びることが現実だと経験して戦士になっていった。その時代の絶望的な状況は地球で殺人アスレチックを兼ねたマン・ハンターをする地球連邦の役人や、コロニーの軍事基地に自爆テロを敢行するネオジオン万歳、シャアが隕石を落とすからと言って野盗に落ちる香港の庶民など、映画の劇中で点描されている。
 シャアの縮小コピーの代表の一人がギュネイ・ガスであるが、彼も「コロニー潰しで家族を亡くした」という現実の不幸を味わい、「シャア以上のニュータイプになる」と強さを求めた。
 彼らはネオジオンと言う組織に属しているが、所詮は難民の烏合の衆。彼らはシャアと同じく、一人の戦士でしかない。レズン・シュナイダーのように。排斥され世界に絶望し、世界に自分の力以外に頼るべきものを見出せなかった人たちだ。
 だからシャア・アズナブル総帥は一人の戦士としてサザビーで突出し、難民のための政治よりもアムロとの個人的な決着を優先したが、ギュネイやレズンや、ナナイでさえもシャアのためではなく自分のために動く「個」なのだ。ジークジオン!と全体主義的な儀式をしているが、実は彼らはみな孤独な魂なのです。だから寂しい人たちが寄せ集まっているのがハマーン以降のネオジオンの実態だ。(二次創作の袖付きのことは考えない)
 だからと言って、地球連邦の既得権益という社会の生ぬるいつながりの中に運よく席を持つことができて、難民を排斥してのうのうと暮らしているアースノイドの大衆が正しいというわけではない。
 だから、地球の中に居場所を見つけられなかったクェスはシャアを求め、ハサウェイのような健やかな家族を持った奴を潰さないとたまらないのだ。



 ネオ・ジオンやナチスドイツが全体主義でありながら孤独だということは、富野由悠季以前にハンナ・アーレントが分析している。富野由悠季監督がGのレコンギスタの頃からハンナ・アーレントについて言及することが多くなったが、おそらく監督はヒットラーの尻尾であるギレン・ザビを描いたころから全体主義については勉強していたと思う。宮崎駿監督に若い頃にインテリ読書量を自慢されて富野監督が悔しい思いをした経験もあるし。


http://www.irohabook.com/hannah-arendt
全体主義ハンナ・アーレントは大衆社会が全体主義を生むと考えました。大衆とは
共同の世界が完全に瓦解して相互にばらばらになった個人から成る大衆(「人と思想」p110より引用)


です。次に引用する文章は非常に重要です。


現代の大衆社会に特有な個人化とアトム化が全体主義的な支配の成立にとっていかに必要不可欠かを明らかにするには、ナチズムとボルシェヴィズムを比較するのが最上の方法だろう。この二つは歴史的にも社会的にもこれ以上の相違は考えられないほど異なった条件のもとで成立していながら、結局はその支配形式ならびに諸制度はともに驚くべき類似性を示すに至っている。(「人と思想」p110より引用)



 ナチスと共産党は水と油のように最も離れた距離にありましたが、そのやり方はとても似ていました。排外主義的で、暴力的で、大衆を扇動する。この二つを支えているものは大衆であり、狂気と悪を冷静に判断できない個人の集まりです。

 悪に先導される個人の多くは共同体を失っていました。共同体とは家族であり、地域であり、国です。第一次世界大戦後、ヨーロッパには多くの無国籍者があふれ、家族を失った者がたくさんいました。共同体はそれまで(宗教などを通じて)一定の教育を与え、「感覚麻痺」しないための価値観も与えていましたが、それらはもうありません。

 加えて私たちは常に誰かから必要とされている状態を欲します。当時のドイツとソ連はその心理を利用するように、一人ひとりの個人に「あなたが必要だ」と訴えるのです。行き場を失い必要とされていないと感じる人々は、その言葉に酔ってしまう。

 扇動された個人たちに何が足りなかったか? おそらくそれは共同体であり、横のコミュニケーションでした。ばらばらになったことで、一人ひとりは上からやってくる言葉を、それが悪であるか判断もしないで受けとめたのです。


 シャアは狂戦士である。と言うことは一年戦争を描いた「密会」で記述されている。


 そのシャアがなぜ難民のカリスマ足りえたのか?むろん、ジオン・ダイクンという共同体を復権させてくれそうという血筋の問題もある。アトム化された個人の集まりである難民と言う大衆はジオンの名のもとにスウィート・ウォーターに集う。

 だが、第二次ネオ・ジオン軍の中枢に近い戦士たち、レズン・シュナイダーやギュネイ・ガスはシャアをむしろ利用し、軽蔑すらしているような面があった。強い男と認めながら、ロリコン趣味のヤツとして見ている。崇拝ではない。戦士として利用し合っているだけだ。
 彼らはよりシャアに近いがゆえに、シャアを軽蔑しつつ、シャアに似ている。自分の力、自分の経験、自分の魂しか世界に存在しないという狂戦士たちなのだろう。
 (ハイ・ストリーマーの序盤に出てきた武人とかね)


 彼らは腐敗した地球連邦の共同体と言う重力に魂を引かれていない戦士だ。その代わり宇宙に魂がアトムとして宙ぶらりんになり、ただ力を振るい、鬱憤を晴らし、自分より偉そうなものに復讐することを求める。(テレビ版のカミーユが崩壊した一因でもある。劇場版のカミーユは魂をつなぎとめる縁(よすが)を握ることができた)


 で、ギラ・ドーガに乗っているような連中がどんな人々かの説明をしたが、中盤を省いて、何故アクシズを押したのかという話題に移る。

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