シャカパチの意味

こんにちは。ぬるぬる侍と申します。

自分は普段デュエプレをやっている者です。昔は紙デュエマも仲間内でちょいちょいやりました。デュエマしかやってこなかったので、記事上の「カードゲーム」という言葉の中身は主にデュエルマスターズを想定しています。デュエマは他のカードと比較しても特にシャカパチが激しいのだそうです。

本記事は、2022年12月頃にシャカパチがTwitterで炎上していた時に書いて放置していたものを、最近再炎上した際に書き上げたものになります。現在の炎上の最大の争点がシャカパチかは怪しい所ですが、本記事がシャカパチだけをテーマにして書いているのはそういう背景あってのことです。


記事概要

本記事は、とかく荒れがちなシャカパチを巡る議論を整理することを第一の目的としています。また、整理した上でシャカパチの是非についても自分なりの見解を示す予定ですが、それは二の次です。

第一章では、シャカパチが持つ炎上しやすい性質を明らかにします。シャカパチは良きことか悪しきことかは一旦置いておいて、不毛な議論(というか悪口)を避けるために必要なことを考えます。ここまでは大して長くないので、是非読んで頂けると助かります。

第二章では、シャカパチには世間の常識を押しのけるだけの必然性があるのかを検討します。その上で、そもそもシャカパチはどういう意味を持つ行為なのかを考えます。

第三章では、これまでの内容をもとに、これからのシャカパチのあるべき姿を構想します。

第一章 シャカパチはなぜ炎上を繰り返すのか

シャカパチに限らず、カードゲームにおいて相手にやられたくない行為は色々あるものです。個人的にはシャカパチよりも言いたいことが色々あります。

それでも本記事があえてシャカパチを扱うのは、この話題には不思議と我々を饒舌にさせる性質があり、何度も炎上を繰り返してしまうため、議論を整理する必要を強く感じたからです。

ザガーン事件に学ぶ、炎上の条件

筆者は、かつてザガーンが人気投票で優勝してしまって炎上した際、論争に決着をつけてやろうと思って「ザガーンをネタ抜きで擁護する記事」という記事を書いたところ、炎上の構造に筆者自身も絡め取られ、結果的に炎上に加担してしまうという大プレミを犯しました。飛んで火にいる夏の虫とはよく言ったもので…

本来なら「なぜ炎上したか」を俯瞰的に分析した上で、その理由に自覚的な立場から書くべきでした。深く反省しています。

具体的には、

「ザガーンが1位?萎えたわー」
という意見を見ると、ついつい

こいつは分かってないわ、ザガーンは五条やコイルと違って元から本当に人気があってウンヌン、だから人気投票1位に文句をつけるのはお門違いウンヌン」
と言いたくなる節があります。

しかし、ザガーン1位に納得行ってない人は、こう言われるとかえって

こいつらは俺の不満を全く分かってない、言ってやらなきゃ分からない」と感じ、

「いや、ザガーンが冷めることに変わりはないウンヌン」
「俺は闇のSRの枠が潰された事に怒っててウンヌン」
「私はボルバルやサファイアがNDに来れるチャンスを潰されたのに怒っててウンヌン」
と反論する必要を強く感じてしまいます。

炎上の理由はお分かり頂けたでしょうか。

議論が激化し炎上するには、大前提として両者の意見の対立が必要ですが、それに加え、「相手は我々の論理・感情を理解していないに違いない」という信憑があると、我々はついつい饒舌になってしまうようです。

五条事件などの場合、大きな子供達による悪ふざけの結果なのが明らかであり、話題にはなっても議論になりようがありません。むしろ、目を三角にして「ふざけるな!」と怒ってみせる方が、大きな子供達の思惑通りでダサい気がするので、反応は「分かってねーな」とはならず「くだんな」「草」などと冷笑してみせるものが多くなるでしょう。

この「こいつ分かってないわ」感について、炎上を繰り返す我々はもう少し自覚を強めるべきだと思います。

今回の「こいつ分かってないわ」ポイント

今回のシャカパチ炎上に関しても同様のことが起きたように見えます。つまり、シャカパチ否定派と肯定派が、お互いに「分かってねーなこいつら」と感じ、どんどん饒舌になってしまっているようです。まずはこの辺りの事情を説明します。

常識的には、考えてる人に聞こえるように音を執拗に鳴らす行為は腹立たしいものです。将棋の対局中、相手が駒をパチパチと鳴らしながら考えるとか、勉強中隣の人がボールペンをカチカチカチカチずっと鳴らすとか、ひいては食事中のクチャクチャ音、電車で隣の人の貧乏ゆすり等、これらは一般的には嫌がられるものです。だとすれば、シャカパチもわざと聞こえるように音を鳴らし続ける点でこれらと大差ないのだから不快に感じる方がいて当然です。(俺らは不快に思わないぜと反論されそうですが、不快に思わない人がいるのも当然と言えば当然です。それは後述します。)

よってシャカパチを巡る論争は、一見、
「その場にシャカパチを不快に感じる人が居るならやめよう」
で即決着がつきそうなものです。

これは本記事の結論の1つです。是非、カードゲーマーの皆さん、対面の方がシャカパチを嫌がっていたら止めてください。より多くの人が気持ちよくカードゲームを楽しめるかは皆さんにかかっています。どうかお願いします。

さて、嫌がっている人がいるならやってはいけない、という規範は否定派からすればあまりにも自明過ぎます。「殴られるのは嫌だから殴るのをやめろ」と同じぐらい自明に見えます。なので、「何故こんな簡単な事が分かって貰えないのかが分からん」と思ってしまい、つい饒舌になります

一方のシャカパチ肯定派は、悪意なく本心からシャカパチをよきものとしてやっています。シャカパチの良さが分からない人にシャカパチを否定されたくないのは当然です。外から文句を言われても、「分かってねーのはそっちだ!」となってしまうのは当然です。

お互いの価値観がすれ違い、「お前らは分かってない!」となっていますね。これが今回の炎上の原点です。特に今回は肯定派からのカウンターの声が大きく聞こえます。

原因は常識の違い

何故これほどまで分かり合えないのでしょう。それは一言で言えば、カードゲームの常識は世間の常識とは違うからです。

前回の炎上の際、「不快に思う人がいるならやめるべきだ」という主張に「ち○ちん丸出しでドリブルするようなものだよね?」と喩えを添えるツイートを見かけました。当時はサッカーワールドカップ真っ盛り。スっと出てきた喩えがそれなのは仕方がないとして(?)、言いたいことはよく分かります。実際筋も通ってると思います。ちんち○だけに

しかし、この過剰な喩えに思える「丸出しの男がウロウロする状況」ですら、全然不快じゃないという場合があります。分かりますか?

銭湯です。銭湯では丸出し野郎がウヨウヨしていますが、私の心は我慢ひとつしていません。なぜなら、銭湯においては丸出しこそが常識だからで、むしろ服や水着を着て入ってくる人の方が大迷惑です。他の例を出すと、手術中にメスで人を切り刻んでも問題ありませんし、ボクサーがリングの上で相手をタコ殴りにする行為も同様です。

このように、我々人間は皆「二重の基準」を自然と使いこなしており、普段は不快なものでも特別な状況では別の基準で判断することが可能です。

シャカパチについても全く同じことが言えます。シャカパチをする彼らがあの音を不快に感じないのは、それがその場の常識だからです。実際、筆者自身、勉強中のボールペンカチカチ野郎は不快でも、カドショで嵐のようなシャカパチを浴びても全然苦に感じません。今、シャカパチが本来的に善か悪かは問題ではなく、二重の基準を適用できてしまえば不快じゃなくなるのは人として全然おかしくないということを言っています。

今回の炎上の強烈な「こいつ分かってないわ」感が、お互いが常識的に正しいことを主張しているために生まれていることがご理解頂けたでしょうか。

とりあえず、Twitterにお気持ちドーンする時は、お互いの常識がズレていることを念頭に置いた発言を心がけるべきでしょう。そうでなくてはただの悪口になりかねません。

シャカパチする側は、自分たちがしていることが(世間の常識の中で)ボールペンカチカチと大差ない失礼なことだと思われて当然だと自覚すべきです。まあ普通は自覚があるものですが、稀にこの自覚が無く世間の常識に挑戦しようとするモンスターがいるから困ったものです。

また、カードゲームの雰囲気に慣れてない人は、カドショでシャカパチしている彼らは、銭湯で裸になるのと同様、別に普通のことをしているつもりだと理解するべきです。一見意味不明でも、彼らからすれば普通のことなんです。あいつら頭おかしいのか?とか言っちゃいけません。

さて、一旦炎上の理由は示せたとは思いますが、「じゃあどちらも常識的に正しい訳だから、常識の違う人どうし住み分ければ良いよね」だけでは、この議論は終われません。

というのも、この2つの常識は必ず交わるからです。それは、非カードゲーマーがカードゲームを始める瞬間です。この問題はシャカパチが存続する限り永遠に起こりえるため、避けて通れません。

では、カードゲーマーの常識と一般的な常識とで、実際どちらを優先するべきなのでしょう。それを次の章から考えてみます。


第二章 シャカパチという特殊な常識に必然性はあるのか

さきほど銭湯の喩えを出しましたが、銭湯ではその場の特殊な常識に…つまり裸になるのに明らかに正当性があります。服が濡れ、お湯が汚れるから当然です。手術中のメスも、暴力ではあっても治療のためには不可避だから正当性があり、誰もが受け入れざるを得ません。

このように、「その場でしか通用しない常識」が世間の常識を凌いで強制されてもなお正当性を維持するには、そうじゃなきゃいけないという必然性が必要です。必然性が無いならただのマナーが悪い集団です。

という訳で、本項はシャカパチに必然性が有るのか無いのかを考えます。Twitter上での主な争点はここですね。

予め断っておくと、「シャカパチはルールで禁止されていないからいいんだ」という意見は的外れです。シャカパチを許容するルールそのものが疑われているので。いわゆる自然状態を想定した議論がしたいわけです。

SNS上の主張

ここからは各種SNSで筆者が見かけた意見を載せていきます。

・鳴らしてると頭の回転が速くなる。
・鳴らしてると落ち着く。
・ラケットを回すのと同様、スポーツにおけるルーティンのようなものである。

大変頻繁に見かける意見です。個人的には共感できませんが、全然疑っていません。確かな事実なのでしょう。繰り返しの動作から安心感を得られるという感覚を持つ人がいるのは十分想像つきます。スポーツ選手のルーティンは良く知られていますし、自閉スペクトラム症の方は同じ動作をずっと繰り返すことで心を安定させることがあります。シャカパチを繰り返すことで、シャカパチが心の安定に直結する身体になったというのは全然あり得ることです。

しかし、それでシャカパチに必然性があるとは言えません。なぜならゲームに集中する目的でシャカパチを習得した人はいないからです。「思考に集中できない…せや!シャカパチを習得して集中できるようにしよう!うおおおおおこれで勝つる!」とはならんやろ。なるんですか?

本当に集中力を高めたいだけならじっと考えますし、仮に何か動きが欲しいとしても敢えて音を立てて対面の聴覚を巻き込む方法を選ぶ必然性がありません。

というか、鳴らしてないと落ち着かない。
もう手癖になっているから仕方ない。

仕方なくありません。あなたは万引きが手癖になってしまった少年に、「まあ手癖ならしゃーないか!俺もシャカパチやめらんねーし!」と言うのですか?

自身の意思でシャカパチを習得しておいて、やめられないのは自分の意思ではないなどと、ずいぶんと都合の良い理屈です。それでシャカパチに必然性があるとは言えません。

ハンデス対策になる。
目線を読まれる対策になる。

それ、常にシャカパチしなくてもハンデス前によく混ぜれば事足りませんか。未だにゴーストタッチ撃った瞬間相手の手札に手を伸ばして強奪する小学生野蛮デュエルやってるんですか。やってませんよね。というか、皆さん普段からシャカパチしてるのに、ハンデス前に改めて混ぜてますよね(しかもシャカパチせずまぜまぜしてる)。それシャカパチがハンデス対策になってない理由を自分で雄弁に語ってませんか。

目線読みは…いやそもそも相手の目線読んだり、目線読みケアなんかに頭のリソース割くなら盤面にリソース使った方が勝率出そうじゃありませんか。まあそれは置いていて、ケアするとしても定期的に混ぜれば良いですよね。敢えて相手の聴覚をずっと巻き込む必然性はそこにありますか?

※追記
「目線読みケアが重要なのは本当だぞ」という批判を沢山頂きました。全くその通りです。トップかどうかや、数ターン温めてる札かといった情報は馬鹿にならないのは自分もカードゲーマーとして理解しています。なので、「目線ケアは大して意味無くね。」じゃなく、「敢えて対面の聴覚を継続的に巻き込む形を選ぶ必要は本当にあるのか。目線ケアだけしたいならこっそり混ぜろよ。」とはっきり言うべきでした。パチパチやり続ける「あの形・あの様式」に落ち着く理由の説明としては全く不十分だということを申し上げたいのです。

相手の集中力を奪いたいから(ルールの範囲内で)

中には開き直っている人もいました。倫理観が終わり過ぎているので早めに改心するかそのまま何らかの罪を犯して刑務所にぶちこまれるを楽しみに(略

一応マジレスすると、それが許されるとしたら、各々が自己中心的にルールの範囲内と解釈する妨害行為を咎める理屈が無くなるのでだめです。遅延とか体臭とか色々です。自分だけじゃなく色んな人が楽しむにはどうしたらよいかを考えるべきなので、この意見は論外です。

そんぐらい耐えられるだろ
そもそもシャカパチ無理な人はカードゲーム向いてない
シャカパチで集中途切れる方が悪い

これはシャカパチをする理由ではなく、シャカパチが苦手な人を責める言説ですが、この主張には本音が詰まっていると思うので取り上げます。

それは誤解です。因果関係が逆なんです。シャカパチを受け入れられた人だけが今も続けてるのであって、シャカパチが耐えがたい人はもう辞めてます。その結果、今は誰もがシャカパチを受け入れているように見えるにすぎません。

シャカパチの意味

(5月頃そこそこ編集しました)

ここまでSNS上の意見を見てきましたが、どうもシャカパチには必然性が見いだせませんでした。

しかし、ある意味必然性はあると筆者は考えています。

こちらのtweetと動画をご覧ください。

どうですか。面白かったですか。

これは、ポンポコ宮本さんがシャカパチしてる風でしてない人を演じ、それを面白がる趣旨の動画です。どうでしょう。あなたの目に、シャカパチできてない姿は滑稽に映りましたか?

一旦笑えたことにします。しかし、何故笑えたのですか?(仮に滑ったとしても、ポンポコさんはこの青年を滑稽なものとして演じ、ネタ動画として上げたことには変わりありませんし、コメント欄にウケてる人がいるのも事実です。何故この動画がネタとして成立し、実際ウケてるのかを考えてください。)

シャカパチをする人は、よく「落ち着くから」「集中できるから」という理由でシャカパチを説明します。だったら、ポンポコさん演じる青年がそれで思考に集中できるならその動作を絶対に馬鹿にできないはずです。それはシャカパチして集中している自分を笑う事と同義ですから。

あのダサい動きが笑えたのでしょうか?でも言っておきますけど、確かにコスコスは謎の行動ですが、外から見ればシャカパチも同様に謎の行動で、そこに一切差はありませんよね。コスコスがキショいならシャカパチも結構キショいです。なんで自分のシャカパチは気色悪いと思わないのでしょうか。

もう一度聞かせてください。動きには大差ないのに何故、シャカパチは良くてコスコスは滑稽なのですか?


いえ、分かりますよ。カードゲーマーの常識の中ではシャカパチ(だけ)は格好良いものとみなされているからです。皆さんが笑っているのは、シャカパチに憧れているくせに、フリで格好だけつけようとしてる青年の態度を、です。

ポンポコさんの動画とその一連の反応は、シャカパチという動きは戦術的な価値が本質ではなく、あの様式そのものが価値を持っているということを図らずも明らかにしています。つまり、シャカパチは一種のファッションです。シャカパチは、できると偉く、できないと偉くない、ただそれだけの記号としてカードゲーマーの間では機能しています。

だとすれば、シャカパチを習得し、不断にシャカパチを繰り返すのは、本質的にはファッションの実践です。あれは自分がカードゲーマーの常識・論理に染まっていることの不断のアピールに他なりません。

(以下には飛躍を含みます。後で架橋します。)

シャカパチを、徹底してただの人間が身につけるファッション(記号)として捉えると、その機能だけが見えやすいです。シャカパチの文化を受け入れている人は自分たちの論理に染まった「カードゲーマー」とみなされ、かたやシャカパチの文化を受け入れられない人は排除され、嘲笑されることすらあります。筆者は、まさにその機能こそがシャカパチの本質であり、目的ではないかと思うのです。

本項は、シャカパチという限定的な空間でしか通用しない常識に、世間の常識を凌ぐだけの必然性はあるのかを問う所から始まりました。

必然性ならあります。

新規参入者にシャカパチを良しとする価値観に同調することを強制し、拒否反応を示す人をカードゲームから締め出すことそのものが目的なのだから、なるほど、「シャカパチは受け入れて当然」という特殊な常識は、世間の常識を凌いでなお強制する必然性に満ちています。

突飛な主張だと思われるでしょうか。しかし筆者は真剣です。

(いや、分かる!お前の言っていることが分かるぞ!という方は右下のハートボタンを押して貰えると嬉しいです。)

特に、俺は新規を排除したくてシャカパチしてるわけじゃないぞと反論したい人は多いと思います。しかし、あなたの事情はともかく、新規からしてどう感じられるかだけが重要です。

これは、自分が初めてシャカパチをされた時の感情を思い出せば理解しやすいのではないでしょうか。

(先の話で納得いかなかった人は、これで腑に落ちるかもしれません。)

受け入れを強要する構造

友達や兄弟に誘われてカードを始めた時。あるいは初めてカードショップに行ってガチ勢と同卓したとき。あなたは初めてあの奇妙な行為に直面します。訳も分からずカードを擦っては執拗に音を鳴らしてきて、最初は理解に苦しんだはずです。普通にうるさいし、対戦に不要な動きだし、常識的に考えておかしいだろ、煽ってるのかな?と思ったことでしょう(この不快感には個人差があります)。ちょっとやめてほしいとあなたは思いますが、向こうは全く辞める気配がありませんし、かといって悪気も無いようです。ここがカドショなら周りもパチパチしているので、対面の方にだけ言ってやめて貰ってもあまり意味がありません。どうやら、あなたはこの音を受け入れるか、さもなくばここを去るしかないようです。音に文句を付けるのは早々に諦め、我慢しつつ対戦を楽しむことにしました。

「シャカパチ」と呼ばれる音に慣れたころ、周りが華麗にシャカパチしてる中で自分だけ出来ないことに、どこか恥ずかしさを覚えてきました。ポジティブに言えばシャカパチがかっこよく見えて憧れたから。ネガティブに言えば初心者っぽく思われたくないから。そんな感じの理由で、あなたはシャカパチを練習し始めます。中々難しい動きで結構時間がかかりましたが、遂にあなたはシャカパチを習得するのに成功しました。 初めて満足にシャカパチを対戦中に繰り返したあの時の感情、思い出せますか。「カードゲーマー」になれた。みんなの輪の中に入れた。そう思えたのではないでしょうか。

…みたいなストーリーがあなたにもありませんでしたか?

何が言いたかったかというと、実際にシャカパチ文化は「これがカードゲームの常識なんだぞ」と新規に受容を強要するように機能してしまっているし、それを受けて新規は「馬鹿にされたくない」「初心者だと思われたくない」といった動機でシャカパチを身につけただろうということです。

「馬鹿にされたくない」というモチベーションは、「できないやつはダサい」という価値観と表裏一体です。このファッションを理解する人がポンポコさん演じるコスコス青年を嘲笑するのは、この上なく自然な流れです。

いやいや、やっぱり自分はこの界隈の既存の文化に同調してシャカパチを身につけただけで、新規に受け入れを強要云々と言われる筋合いは無いと反論されるかもしれません。シャカパチを好む個人同士が鳴らしあって何が悪いんだと言われるかもしれません。確かに。それは全然いい。ありがとうまであるぞ(?)。おっしゃる通り、これは個人間の問題ではありません。

個人間の問題ではないということは、つまりこれは界隈全体の問題だということになります。皆がシャカパチを繰り返すことで、シャカパチを受け入れて楽しめる人だけがカードゲームに定着できる構造になってしまっているという話です。意思を持った一人ひとりが云々、という訳ではなく、シャカパチという文化が、構造として排他的に機能しているという事実を指摘しているだけなんです。

このあたりは「赤白」「ネクラ」等、非公式用語で文明の組み合わせを呼ぶ文化にも通じる所があります。3色の通称を覚えるの、大変でしたよね。3色の通称はまだ一言で呼べるメリットがあるものの、色呼びは本当に一利もない誰得謎文化に思えます。しかしそれも、既存プレイヤーと初心者とを区別するファッションとして機能していると考えれば説明はつきます。正直、これは筆者も使ってしまいます。すっかりファッションに染ってもうてます。

外国語や方言、スラングの習得にも似ていますね。言語を習得することでその言語圏の内輪の世界に入れますが、言語側もそれを防ぐためにやけに難しくなり、新参者を簡単には侵入させません。その攻防がカードゲームの世界でも見られるのは中々興味深く感じます。

この手の排他性はカードゲームに限らず色々なところで見られるものです。なので、カードゲーム界隈がキモいというより、人間社会がキモいというのが適切なんでしょうね。

さて、ここまで見通しが良くなれば、先ほどのSNS上の主張も見方が変わってきます。

現にシャカパチ文化が新参者には排他的に機能してしまっている以上、「ルールの範囲でいやがらせするため」とか「シャカパチが無理ならカードやめろ」といった過激な意見は、自分がしている行為の意味の自覚が、つまり排他性の自覚が深いからこそ放たれた台詞なのだと思います。「集中するため」だの「ハンデス対策」だのといった欺瞞に流れることなく開き直っているのは、ある意味潔いものです。やってることは新参者いじめだけど。

また、「手癖で」「もう仕方ない」と言っている人の気持ちも分かります。自分の意思でシャカパチを身につけただろ、という筆者の説明は、実は半分間違っています。周囲の価値観と同調し、仲間になるために、半ば強制的にシャカパチを身につけさせられたからです。身につけずにはいられなかった、と言った方が適切かもしれません。そんな中であくまで自分の意思とみなすのは、確かにやや酷だと思うのです。とはいえ「シャカパチは自然に身につくもので~」というのは流石に欺瞞的過ぎますが(だって練習しただろ)。

ところで、シャカパチ文化の再生産プロセスを「皆がやってたから俺も練習した」と説明してしまったことで、シャカパチの起源に関しての疑問が残ってしまいました。この理屈だと、まだシャカパチを誰もしていない世界では、シャカパチをする1人目も永遠に現れないことになってしまいますからね。ではここでやや余談にはなりますが、シャカパチの起源を想像してみましょう。

世界で初めてシャカパチをした人間はその時どう思われたのでしょうか。世間の常識でバッドマナーだと思われたに違いありません。将棋の対局中に駒をパチパチし続けるようなものですから。その点、シャカパチには「俺は華麗にハンドシャッフルをしてるだけ」、というエクスキューズがあります。それを盾に、音を鳴らして自己主張する行為がシャカパチだったのでしょう。だった、というか今もですが。これが次第に流行り、全国的に定着した結果、カードを始めるにあたって受け入れざるを得なくなったのが今のシャカパチ文化なんだろうなあと筆者は予想します。聞くところによると昔はただのバッドマナーだったらしいですね。真偽は不明ですが。詳しい人が居たら教えて欲しいものです。

第三章 これからのシャカパチ文化を構想する〜常識の交差点の中で〜

第二章では、シャカパチは戦術上の意味が本質ではなく、あくまでファッションであるということ、新参者にシャカパチ文化の受容を強要し、文化に染まれない者を排除する事自体が目的だということ、また、この排他性は個人の問題ではなく構造の問題であるということを指摘しました。

世間の常識と食い違う文化を受容できるか新参者に試すのが目的で成り立ってるのに、「それ世間の常識と違えぞ!」と言われた所で痛くも痒くもありません。「こいつら分かってないわ」となるだけです。

第三章では、この構造を踏まえ、これからのシャカパチ文化のあるべき姿を構想します。

デュエルマスターズの場合

シャカパチは悪ではありません。実際、慣れれば不快ではありませんし、むしろ心地よいものです。シャカパチを好む人同士が鳴らし合う分には何の問題もありません。

しかし、「シャカパチは確かに世間の常識とは食い違ってるけど、許せる人だけ続けてね。嫌なら辞めろよ。」というスタンスは、コンテンツの発展を考えた時はどう考えてももったいないことです。新規の取入れに四苦八苦する中、訳も分からずゲーム外の謎文化で新規が即刻ふるいに掛けられるのは愚の骨頂に思えます。

ですが、いくら排他性が大問題だとは言え、デュエルマスターズのようなシャカパチをガンガンやる文化に、今さらシャカパチ禁止ルールを追加するのは流石に現実的ではありません。得る新規よりも失う既存ユーザーの方が多そうです。

という訳で、デュエルマスターズに関しては消極的現状維持がベストだと思います。

せめて、新規の前ではいきなりシャカパチせず、一旦ゲームの楽しさに触れさせ、味を覚えてもらった後でシャカパチが溢れる空間に連れていくほうが、「やかましいけどゲームは楽しいしこのくらいは我慢するか…」と判断してもらえる可能性が高いと思います。後々シャカパチに慣れて貰えればこちらのものです。

また、繰り返しになりますが、対面の方に「シャカパチやめて貰ってもいいですか?気になるので」と言われたら、素直にやめましょう。対面の方がうるさく思っているのに自分が続けなきゃいけない必然性はありません。ルールで禁止されていないだけです。世間の常識からずれているのは自分たちだという自覚をもたないと、性格が悪いというより、銭湯の外で裸になってるヤバい奴と同類です。みんなが気持ちよくプレイするために、どうかお願いします。

新しいカードゲームの場合

恐ろしいのはここからですよ皆さん。

「新しいカードゲームの場合」という見出しですが、その中身は主にワンピースカードゲームを想定しています。

ワンピースは今、常識の交差点のただ中です。

ワンピのプレイヤーには、ワンピで初めてカードを触るまっさらな新規も、カードゲーム経験者もいます。ワンピはビッグコンテンツですからね。という事は、それだけ「カードゲームの常識」と「世間の常識」とがぶつかる機会が多いという事です。これまで見てきた通り、常識が食い違えば争いが生まれるのは必然です。

案の定Twitterは見るも耐えない汚物まみれ。
「ワンピシャカパチしてる人多過ぎうるさい落ち着きない。」
「シャカパチなんて誰でもやってる。ワンピでカードを始めた奴の方がマナーが悪い。郷に入っては郷に従え。」
「いや、むしろお前らがワンピにカードゲームのバッドマナーを持ち込んでるんだ。」
「いやいや…」
と、お互いに罵り合う惨状が広がっています。気になる人は🔎ワンピース シャカパチでTwitterを検索だ!でも見ない方がいいぞ!不快だから!

この状況下では、つまり支配的な「常識」が確定していない場合では、どちらの主張に理があるのでしょうか。

難しい問題ですが、筆者は、ワンピースカードゲームにシャカパチ文化を持ち込む正当性は無いと考えます。

これまで説明してきた通り、シャカパチ文化は排他的に機能するファッションです。新規のみならず、カードを流行らせたい開発者側としてもできれば持ち込ませたくない文化でしょう。もうその時点で、本当はやめるべき文化なのだと思います。

実際、ワンピースはその辺りの「過剰な行為」を禁止しています。シャカパチを全否定はしていないようにも読めますが。

なんだその顔は

なので、素直にシャカパチを控えるべきだと筆者は考えます。

「いや、シャカパチは俺らカードゲーマーの常識だから、文化だから。もう染み付いてるから。」と反論されそうです。しかし、その特殊な常識をワンピに持ち込む必然性は、いよいよ存在しません。

第二章で説明した通り、確かにデュエルマスターズ等におけるシャカパチ文化には仕方ないと思える部分がありました。それは、デュエマを始める人はシャカパチもセットで否応無く受け入れざるを得ない構造が既に出来上がっていたからです。シャカパチを身につけずにはいられない状況に飛び込んだ人にシャカパチやめろと責めるのは酷です。だからもう仕方がないと言えます。

しかし、ワンピにはまだそれがありません。その構造が無いまっさらな場にシャカパチを持ち込むのは、仕方がないとは言えません。今回こそは100%シャカパチをする人のせいで対面の聴覚をいたずらに巻き込むことになります。もう、そこは銭湯的空間じゃないんです。少なくとも、開発側は銭湯にはしたがってない。

それで対面にうるさいと言われて「自分(達)のファッションを馬鹿にされた、お前ら分かってない!」と怒るのは筋が通らないと思います。今回はシャカパチをしたその人だけが加害者だからです。

納得いかない人は、外から見たらボールペンカチカチと変わらないことをしている、という自覚に立ち返る必要があると思います。

ワンピースカードゲームからカードを始めた人に対して、別のタイトルから来た人が苦言を呈するtweetを見かけます。他の論点に関してはともかく、シャカパチに限って言うと、自己中心的なのはシャカパチ文化を持ち込もうと試みる側だと思います。

デュエマとワンピで結論が矛盾するようですが、自分は本質的にシャカパチが悪かどうかを重視する原理主義者ではないので、現実の状況に即して、できるだけ多くのユーザーが遊びやすい規範はどちらか、で判断しました。その意味では、2つの結論は同じことなのです。

終わりに

(5月頃大幅に追記修正しました)

大変長くなってしまいすみません。記事はこれで終わります。お付き合い頂きありがとうございました。

この手の議論で大切なのは主張そのものよりその論拠であると考えています。意見が真っ向から対立していても、人格否定を避けて論拠同士をぶつけ合えばそれなりに話が通じるものだ、というのが自分の経験上真だからです。その点、理由を大事にしながら自分の意見を書き上げられたことについてはそれなりに満足しています。

そういう訳で、論拠の弱さに関しての具体的な指摘は受け止める用意があります。一方、人格否定的な感想に耳を貸す気はありません。むしろそれをする程「まともな反論が思いつかない程効いているのね」という印象を持ちますので、お互いにとって控えた方が良いと思います。要はクソリプ我慢してねってこと。

1年前に書いた著作権うんぬんの記事では大変な反響を頂けて非常に嬉しかったのですが、ちょっこり否定的な意見も寄せられました。今回はもっと炎上しそうなテーマなのでビクビクしてます。嫌だなあ…でも自分から首突っ込んでるので、ある程度は仕方ないとも思ってます。

第二章以降から筆者の主張が強くなって来ますが、とりあえず、第一章だけでも受け取って頂ければ本記事の目的は果たされたことになります。「二章からは訳わからんけど、まあ一章が言いたいことは分かるぜ」という受け止め方も大歓迎です。

それではまたお会いしましょう。さようなら。

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