デッキリストに著作権が無いならば、配慮するべきは何か【デュエプレ】

こんにちは。ぬるぬる侍です。

他人が考案したデッキリストを自分の媒体で公開する際、何に気を付ければよいかについて考える記事です。

自分自身のために考えた内容ですが、そこそこ公共性がある内容でもあるので、公開しました。

よければお付き合いください。

記事概要

具体的には、
A.何の連絡も断り書きもなしに自由にやればよい。
B.連絡まではしなくても良いけど、デッキの製作者は明記すべき。
C.デッキ製作者に許可を取った上で公開すべき。
D.そんなことよりラーメン食べたい

のどれが適切なのか、みたいな事を考える記事となる。

最初にこの記事を書く理由を書いた。割と個人的な理由だったりする。

次に、可能な限り著作権法にのっとってデッキリストの扱いを考えてみた。ぶっちゃけよく分からなかったが、素人にしてはよく論点を整理できたと思う。

その次に、著作権法以前の規範を検討してみた。これは、著作権法だけでこの問題を考えるのは不適当だと考えたため。ここでは主に内田樹氏の著作を頼った。

そのまた次に、ここまでを踏まえ、筆者ぬるぬる侍が今後どのような方針で他人のデッキリストを扱うかの個人的結論を出した。

最後に蛇足気味ではあるが、紙デュエマを含む有料記事文化の是非を論じた。

この記事を書く理由

かなり前のことになるが、トニックさんや闇の帝王さんといったyoutuberが(筆者が知らないだけで他にもいるかもしれない)、そのデッキ開発者本人の許諾もなく、動画内で本人の名前を出すこともなく公開し、デッキ開発者本人がぼやいたことで、デュエプレtwitter界隈は大いに荒れた。

筆者は初心者向け記事を公開・更新しており、(かなり小規模ではあるが)一応情報発信者の立場ではある。しかし当時筆者はそのような立場になく、この手の問題に関心が薄かった。恐らくこの記事を読んでいる方の大半もそうだろう。

しかし記事を書く立場になった今、この問題はかなりの切迫感を以て自分に襲い掛かってきた。なので、今一度この問題を考え直す必要が生まれたという訳だ。

現状、twitterはこの問題に関して荒れていない。その上、デュエプレユーザーの大半は発信の責任とは無縁で、深刻に捉えるのは立場的に難しい話題である。

なので、界隈に議論の渦を巻き起こしたいわけではないし、ましてトニックさんや帝王さんを批判する目的で書いた訳ではない。(だからこそ名前を出している。なんなら少し同情してる。)
あくまで自分自身がこの問題に対してどのような態度を取るべきか考えるためにこの記事をつくった。

なお、私的な目的で書き始めたこの文章を公開する利点は、自分が批判を受ける可能性があった方が、書く内容に責任を持てるという点にある。問題の性質上、無責任な結論は望ましくない。

故に、私的な目的とはいえ、内容的には公共性を持った議論が展開されるだろう。そうでなくてはこの文章に筆者が責任を持てない。

著作権は適用されるのか

デッキリストは著作物に当たるのだろうか。
もし著作物なら、著作権法に則った行動はヨシそれ以外は「刑務所にぶちこまれるを楽しみにしておいて下さいイイデスネ!!!」で決着しそうなものだ。なのでまずはこれに関して検討しないといけない。

筆者は「デッキリストは著作物ではない」という意見しか聞いたことがない。個人的にもそういう感覚でいた。

有料noteの作者達、すなわち「デッキリストは製作者が独占的に公開可能だ」的な主張をしたいはずの人でさえ、「デッキリストも法的に著作物だ(だから俺の権利を守れ)」とは言わない。少なくとも筆者は聞かない。

しかし、「著作物ではない」という主張は、案外根拠が希薄だったりする。あなたはデッキリストが著作物ではないことを示せるだろうか。結構難しいだろう。

結論を急がず、一度フラットに検討してみよう。いや、マジで著作物かもしれないじゃないか。

さしあたり、著作物とは何か、著作権法を読んでみた。

一 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

出典:昭和四十五年法律第四十八号著作権法
閲覧日2021.12.31
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=345AC0000000048

ふむ、「思想または感情」を「創作的に」表現しないといけないし、「文芸、芸術、美術又は音楽」じゃないといけないのだそうだ。結構厳しい。

…この記述を素直に受け取るなら、デュエプレのデッキリストがこれを満たすとは思えない。デッキリストは著作物だと言う人は、「俺のデッキリストは俺の思想を色濃く反映しているし、パクリじゃない創作的なリストになったし最早芸術さ間違いないね」と主張していることになろうか。アニメかよ。

文化庁のHPも読んでみた。これによると、著作権法で保護の対象となる著作物であるためには…

著作物について
 著作権法で保護の対象となる著作物であるためには,以下の事項をすべて満たすものである必要があります。

(1)「思想又は感情」を表現したものであること
→ 単なるデータが除かれます。
(2)思想又は感情を「表現したもの」であること
→ アイデア等が除かれます。
(3)思想又は感情を「創作的」に表現したものであること
→ 他人の作品の単なる模倣が除かれます。
(4)「文芸,学術,美術又は音楽の範囲」に属するものであること
→ 工業製品等が除かれます。

 具体的には,小説,音楽,美術,映画,コンピュータプログラム等が,著作権法上,著作物の例示として挙げられています。
 その他,編集物で素材の選択又は配列によって創作性を有するものは,編集著作物として保護されます。新聞,雑誌,百科事典等がこれに該当します。

出典:文化庁HP「著作物について」
閲覧日2021.12.31
https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu.htm


とのことだ。
ん???
「単なるデータ」ではなく「アイデア」でもなく「他人の作品の単なる模倣」でもなく「工業製品」でもない、を満たすだけなら、なんとかデュエプレのデッキリストでも満たしてるかもしれないぞ。
ええいややこしくなってきた。

思想又は感情」「文芸、芸術、美術又は音楽」に関しては、コンピュータプログラムすらも著作物とあるのだから、デュエプレのデッキリストが満たしていてもおかしくない。かも。少し苦しいか?

表現」に関して、別のサイトによると、著作権で保護されるのは表現そのものであって、アイディアそのものは保護の対象外との事だ。

著作権で保護されるのは「表現」そのものであって、アイディアそのものは著作権法では保護の対象外です。
例えば、食品製造会社から、秘蔵の製造法が記載された冊子を従業員が盗み、誰かがその製法を使ってその食品を作っても、それ自体は著作権の侵害とはなりませんし、同じ製造方法を全く別の表現で記載した本を出版しても、著作権侵害にはなりません。

弁護士法人クラフトマン『1 「著作物」の概要』
閲覧日2021.12.31
https://www.ishioroshi.com/biz/kaisetu/chosakuken/index/chosakubutu/

という事は、デッキリスト画像は表現そのものに当たるので著作権法では保護の対象で、デッキリスト(40枚の情報)というアイデアは保護の対象外、という解釈が成り立つだろう。

…これを素直にデュエプレに適用すると、デイガダブルゲートのアイデアを、自分なりの構築で表現する分には著作権侵害にはならない。脱法じみてはいるが。

もっと踏み込むと、表現とはスクリーンショットの画像だけを指すのであって、アイデアは40枚すべて丸パクリでも、デッキ紹介者が自分のアカウントで組み直すか、デュエプレ公式サイトの方で組んでそれをスクショすれば、著作権を侵害してるとは言えないのかもしれない。

創造性」に関しても同HPで解説されていた。

著作権法の保護の対象となる著作物への該非の判断にあたって重要な考え方は「創作性」です。すなわち、ある表現が著作物となるためには、「創作性」があるか否かが重要となります。
(中略)誰が表現しても同じような表現となるような表現(新聞の死亡広告、時候の挨拶等)は創作性がなく著作物とはなりません。

弁護士法人クラフトマン『1 「著作物」の概要』
閲覧日2021.12.31
https://www.ishioroshi.com/biz/kaisetu/chosakuken/index/chosakubutu/

ということは、青単ツヴァイの構築なんかは皆似たり寄ったりになるから創造性が疑わしいが、5Cメカオーのリストには著作物にあたる資格がありそうだ。

この時点で皆様はどのようにお考えだろうか。
実際、悩ましいだろうと思う。

個人的には、デッキリストの画像は著作物に当たる可能性も無くはない気がしてきた。
だが仮にデッキリスト画像は著作物に当たるとしても、デッキリスト情報はアイデア扱いで、著作物とは言えないのかもしれない。
とか何とか言ってるが、著作物の具体例には、商業的に著作権が必要なものばかり並んでおり、「は?全然著作物じゃないんだが?ナニイッテンノ」って言われそうな気もする。

申し訳ないが、筆者には判断が付かなかった。本心から、分からん。だから明言もできない。

クソ、ここまでの時間は一体何だったんだ。 

大体、筆者のような法律知識0の一般ピーポーが独自に法の適否を判断しようなどと言うのが無謀なのだ。ぶっちゃけ読者の皆様としても、素人大学生が「著作物にあたる!!(あたらない!!)」と言ったところで、その主張に説得力を感じにくいだろう。

もう、読者のどなたかが岡野タケシ弁護士に質問を送り付けるのを期待することにして、筆者は考えるのを止めた。

…ではこうしよう。著作物にあたると仮定した場合と、著作物にあたらないと仮定した場合に分けて論じようではないか。

著作物に当たると仮定すると

デッキリスト(画像のみならず情報も)を著作権の保護範囲だとするなら、至極当然、最大の争点は、デッキリスト紹介者の利用の仕方が引用に当たるかどうかということになろう。

引用はいわばリーサルウエポンだ。

引用の範囲内なら、著作者の著作権を一部制限し、自分の著作物に他人の著作物を利用できる。許諾なしで。

むしろ、正当な引用なら、著作者が転載だめですと言ってても法的には問題ない。著作権を制限するとはそういうことだ。

まずは、文化庁が定める、「著作物が自由に使える場合」を見た。

著作物が自由に使える場合
 著作権法では,一定の「例外的」な場合に著作権等を制限して,著作権者等に許諾を得ることなく利用できることを定めています(第30条〜第47条の8)。
 これは,著作物等を利用するときは,いかなる場合であっても,著作物等を利用しようとするたびごとに,著作権者等の許諾を受け,必要であれば使用料を支払わなければならないとすると,文化的所産である著作物等の公正で円滑な利用が妨げられ,かえって文化の発展に寄与することを目的とする著作権制度の趣旨に反することにもなりかねないためです。(以下略)

出典:文化庁HP「著作物が自由に使える場合」強調はぬるぬる侍。閲覧日2022.1.1https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html

なるほど。デュエプレ語で読み替えると、「第一線のプレイヤー達によるランクマ環境の研究結果たるデッキリストの公正で円滑な利用が妨げられ、かえって文化の発展に寄与することを目的とする著作権制度の趣旨に反することにもなりかねない」と、概ねこんな感じか。中々筋が通った話ではないか。

で、その著作物が自由に使える「例外的」な場合にも色々ある訳だが(例えば学校教育の現場ではセーフとか)、今はそのうちの「引用」にあたるので、そちらも見てみた。

引用
(第32条)  [1]公正な慣行に合致すること,引用の目的上,正当な範囲内で行われることを条件とし,自分の著作物に他人の著作物を引用して利用することができる。同様の目的であれば,翻訳もできる。(注5)

出典:文化庁HP「著作物が自由に使える場合」強調はぬるぬる侍閲覧日2022.1.1https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html

公正な慣行」とはなんだろう。複数のサイトを見た所、要は社会通念上認められている範囲でならokよ、具体的な基準はないけどね、的な言葉通りの意味だった。なんやねん。ちなみに画像の引用は、「公正な慣行」に関して意見が分かれる所らしい。

適当な引用に当たるかどうかの要件に関しては、「公正な慣行」と「引用の目的上正当な範囲内」を合わせて、過去の判例で、広く受け入れられている実務的な基準が示されたらしいので、そちらを参照するのが普通みたいだ。(だから曖昧な解説が多かったのだろう。)それが(注5)だ。

本来、厳密にやるなら、デュエプレ界隈は何に公正さを見出し、何を慣行としてきたのかまで論じなきゃいけないのだろうが、デュエプレ界隈そこそこ狭いし、歴史も2年と割と浅く、慣行と言えるのかすら怪しい。かと言ってデュエマ、ひいてはカードゲーム一般まで含めた範囲を取るのも適当とは思えない。てか他TCGの事まで知らない。だいたい、この界隈が世間からずれた慣行を是としていた場合、この記事は世間様を立てるべきか、デュエプレ界隈を立てるべきかまで判断する立場にあるだろうか。いや、流石にキツそうだ。
ここは兜を脱いで、「公正な慣行」から逃げ、その実務的な基準に話題を移す事を許して欲しい。(こんなのレポートで書いたら絶対0点だから皆は気をつけようね!ははは)

話を戻して、その実務的な基準を見る。

(注5)引用における注意事項
他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。
(1)他人の著作物を引用する必然性があること。(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。(4)出所の明示がなされていること。(第48条)
(参照:最判昭和55年3月28日 「パロディー事件」)

出典:文化庁HP「著作物が自由に使える場合」閲覧日2022.1.1https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html

いよいよ具体的になってきた。

(1)まず引用する必然性がなきゃいけない。確かに、レポート末尾に参考資料として他人の著作物を載せるのは駄目だ。

デュエプレ語で言うと、「プレイ解説動画の最後に、必要ないのに他人の著作物たるデッキリストを添えてはいけない」となろうか。デッキリストを載せるのは必然か否かが争点になるだろう。流石に必然だろって言いたいけどね俺は。

(2)次に、自分の著作物と引用部分が区別されていることが必要だが、これは活字と違ってスクリーンショットで示されるから、大した問題にはならないだろう。

(3)更に、自分の著作物が主で、引用部分が従でないといけない。これは、多くのデッキ紹介youtuberにとって致命的と言う他ない。

デッキ紹介自体が目的なのだから言い逃れは不可能だ。一応プレイ解説が主、リストが従と強弁できなくもないが、本当にプレイ解説が主のコンテンツを作っている人は現状そう多くない気がする。

一方akiraさんのような環境考察記事なら、考察が主、リストが従で間違いない。筆者の記事も後者にあたる。

(4)最後に、出所の明示がなされてなきゃいけないこと。引用なら当然だ。ここがトニックさんらが一番突っつかれている所であり、筆者もヒヤヒヤしている所だ。

著作物に当たらないと仮定すると

最早デッキリストを守る法はない。著作権が無理なら、どの知的財産権にも該当しないだろう。文字通りの無法だ。

ただし、無法だからといって、我々は何をやっても良い、という主張には留保が付くと筆者は考える。それは後の項で検討する。

小まとめ 著作権を巡る争点

さて、ここまでの話で、かなり争点を整理できたと思う。

無断でデッキリストを紹介されたくない側(著作者)としては、

①まず自分のデッキリストは著作物である事を主張しなくてはならない。

つまり、デッキリストは自分の思想又は感情を創作的に表現したものであり、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものだと示さないといけない、という事だ。しかも、デッキリストはアイデアではなく、表現にあたると主張しないといけない。…もう既に結構キツイ。

②その上で、デッキ紹介者の引用の方法が不適切である事を主張しなくてはならない。

例えば、「公正な慣行」に則ってないと主張する方法。「このデュエプレ界隈では、普通、デッキ製作者が許可しなきゃ紹介しちゃ駄目なんですよ、皆それが公正だって信じてますから。ね?」みたいな。ちょっとうざいが。他には、デッキリストを添える必然性がないのを責める方法や、デッキリストが従でなく、主になっている(=リストの紹介自体が目的化している)のを責める方法、出所が明示されてないのを責める方法などがある。これらの主張は当然、ケースバイケースで理があるかどうか決まる。もしデッキ紹介者に落ち度が無ければ文句のつけようがなく、引用を認める他ない。

デッキリストを紹介する側(引用者)としては、

①デッキリストはそもそも著作物にあたらない、という主張が有効だ。デッキリストは思想または感情を創作的に表現したもの、とか、デッキリストは文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属する、とか、率直に言えばツッコミ所しかない。個人同士のレスバトルだったら概ね負けないだろう。法文まで持ち出して大人気ないが。あるいは、デッキリストの画像は表現にあたるから著作物かもしれないけど、その情報はアイデアにあたるから著作権の保護の範囲外だね〜と言ってもいい。言ったら多分嫌われる。

これらの事から、デッキリストは著作物にあたらないっしょ!と開き直り、twitterで公開されているリストも有料記事のリストも全て晒しに晒してガンガン駆け抜けるのは、法的には多分問題無いのだろう。この辺は一度家庭裁判所あたりで裁判を起こして、判例を作って欲しい。割とマジで。

②とはいえ著作物にあたる可能性も考慮して、念のため引用のルールを守った行動をとれば、少なくとも法的には無敵だろう。ちゃんと自作の著作物と引用したデッキリストを主-従の関係にするとか、出所を明記するとかしていれば、よっぽどのことがなければ咎められまい。

③更に、そこそこちゃんとしたyoutuberの方は、デッキ製作者に許可を取った上で動画化している。これは一種の業界のルールになっている節があるようだ。多くの動画は、「主-従」の関係とは言えず引用が成り立ちそうにないが、だとしても許可を貰えれば無問題だ。それに、仮に著作権法上問題なかったとしても、デッキ開発者やリスナーからゴネられる可能性は高い。

結論:
デッキリスト(の情報=アイデア)は、著作権法上は著作権の保護の範囲内ではない気がする。(でも素人判断だからあまり信用ならない。)

だとすれば、他人の考案したデッキリストを無断で自分のメディアで利用するのは、法的には問題ない。たとえ有料記事のリストだとしても。

仮に著作物にあたるとしても、引用のルールを守れば、たとえ「転載禁止」とあっても、引用は可能である。しかし、多くのyoutuberは、許可を得て公開している。


著作権以前の規範があるならば…

先の結論が肌感覚に合わない読者は大勢いるだろう。

それは至極当然だ。なぜなら普段我々は著作権法を意識しないからだ。それはそう。筆者もしない。にもかかわらず議論が巻き起こり、そこそこの盛り上がりを見せたのは、各々、著作権以前の規範を持っているからだ。ぶっちゃけ著作権なんてどうでもいいと思いながら読んだ人もいるだろう。

その証拠に、炎上中、「人として」という枕詞を使った上でトニックさんを批難する人が続出した。

「人として」とは、「法律等のルール以前に、文化的な人間なら、何か守らなきゃいけないものがある気がする」というのを直感してこその発言だ。(若干横柄な気もするが…)

ならば、より本質的なのは、著作権がどうこうよりも、著作権以前に尊重するべきなのは何か、という議論だ。やはり、そこを見て見ぬふりはできない。

それに、法律やルールの存在が、かえって、本来守るべきはずの規範を蔑ろにしてしまうという事は往々にしてある。筆者の経験上、「このルールさえ守ってれば良いんでしょ?」って言う奴は大体悪い奴だ。「〇〇円までは経費で落ちるから、もっと高いものを注文しよう」とか、「ここまではセクハラじゃないよね」とか。そういう人も、ルールが無ければそんな無茶は最初からしなかったかもしれない。

ルールの存在は、思考を停止させ、結果的に悪い行動へ人を導くという事もある。あなたも身に覚えがあるはずだ。俺はあるぞ。

(余談だが、ルールが思考を停止させる事で、本来は悪ではない行為も、「ルールに違反しているから駄目」、と安易に結論づけられる場合もある。例えば中学校の校則の、柄靴下禁止とか染髪禁止とかタイツ禁止とか2ブロ禁止とか。一体誰に迷惑かけてるというのか。しかし今回はあまり関係ない。)

何が言いたいかというと、著作権法上問題ないから何をしても良い、とはならないかもしれないという事だ。そういう意味でもやはり必要なのは、著作権以前に尊重するべきなのは何か、という議論だ。

先に結論めいた事を言うと、大事なのは、デッキリストの製作者に感謝と敬意とを払う事、デッキビルダーの意欲を削がない事だ。(なんと月並みな)

これに同意して貰えるなら話は早い。が、記事にする以上は、リスペクトなんてクソ喰らえだ、自己利益が全てだと考えている方を想定して説得を試みるところまでいかないと価値はないと筆者は考えている。

なので、少し長くなるが、以下で検討する。あなたにとってはくどいかもしれないが、せっかく書いたのでお付き合い頂けると嬉しい。

さて、筆者は幸いにも、この問題に詳しい哲学者・思想家を知っている。名前は内田樹。彼は、自分がネットに上げた作文は全て著作権フリーと宣言している程、著作権に関しての哲学的関心が高い。決して低いのではない。哲学者を持ち出すのは流石にオーバーキルの可能性もあるが、根本的な部分で理解が深まるので、彼の議論を紹介しながら説得を試みようと思う。

主に彼の著作『街場のメディア論』を参考にした。

なぜ、他人の作品を自作だと偽ったり、海賊版を流布させたりしてはいけないのだろうか。その理由は、現代社会では「著作権上禁止されているから」の一言で片付くが、たとえ社会に著作権法が存在しなくても、やってはいけない行為だ。

これを理解するために、まずは書物を例にとり、書物は本態的には商品ではないという事を説明していこう。

内田氏によると、書物は本態的には商品ではなく、まだ見ぬ読者への「贈り物」である。

書物の価値は、書物そのものに価値が内在しているという訳ではない。考えてみれば、読者が1人もいない、あるいは読んだ人の誰もがその書物に感謝しなかった場合、書物に価値があるとは言えないのは明らかだ。

とすれば、書物の価値が発生する瞬間は、読者が「これは良きものを読んだ。筆者さんありがとう」と感じた瞬間ということになる。
だから書物の価値について正確に表現すると、読者が感謝した瞬間に元々その書物に価値が内在していたという物語が立ち上がるのであり、我々はそれを指して「書物に価値がある」と言っている、ということになる。

で、読者は「このような素晴らしいものを受け取ったなら、何かお返しをしない訳にはいかない」と返礼義務を感じ、返礼が行われる。

あなたも、誰に強制されたわけでもないのに推しに課金して快楽を得たり、twitterで素晴らしい作品を無料で見てしまった時、「おい、課金をさせろ、ふざけるな」と感じた経験があるのではなかろうか。それそれ。その純粋な気持ち。(返礼義務を感じる能力は、人間にとって非常に重要な能力であり、その能力を持つ人を増やす・育てるのが滅茶苦茶大事〜みたいな話が本書では相当な比重を置いて説明されるが、本記事の目的と若干逸れるので、一旦置いておく。)

だったら書物の代金は後払いが本来の順序じゃないかとお思いの方もいるだろうが、まさにその通りで、そこを敢えて書店に本を並べて代金は先払いで書物を購入、という形式を取っているのは…すなわち書物を商品として扱っているのは、その形式が、書き手にとっても読み手にとっても利益が増大するからに過ぎない。書物が商品のようにふるまうと、肝心の「感謝」を効率的に、広く、受け渡しすることが可能になる。今日の社会ではその感謝の形としてはお金が一番適当だから、たまたまお金で書物を買えるようになっているに過ぎないという事だ。

確かに、書物の著作者に収益が入れば(ありがとうが届けば)、それだけ素晴らしい続編に期待できる。専業でやっていける程の収益が入れば尚更だ。ということは、自然と読者の利益にもなる。書物という「贈り物」が商品のように振る舞うことで、長期的には書き手と読み手の双方の得になっているのが分かってもらえるはずだ。

だから、書物が商品として扱われる事で、かえって「贈り物」が届きにくくなり、双方の利益が損なわれるなら、商品という仮象を取り払う可能性は全然あり得る。その時は、書物は商品ではなく、ただの贈り物に戻る。ちなみに、現代社会においては、商品であるために利益がかえって損なわれてしまった例も、商品である事を辞めた例も、枚挙に暇がない。twitterとか学級新聞とか…。実際このnoteにしても商品じゃないし。

これで、何故、あえて書物等の文化的創造物を著作権法で保護し、商品として成立させているのか、皆様はもう十分お分かりになっただろう。

一般に、贈与と返礼(感謝)の往還の中で価値は生成される訳なんだけども、その生まれる価値を社会で最大にするために、贈与と返礼の往還を円滑にさせたくて、その手段として暫定一番使えるのが、書物を商品のように扱う事だから、書物を著作権法で守っている、という事だ。(ひいては返礼義務をまともに感じる人間へと、社会の皆が成長するため、でもある。それは記事の目的と逸れるため、一旦置いておく。)

さて、先の「なぜ、他人の作品を自作だと偽ったり、CDや映画等の海賊版を流布させたりしてはいけないのだろうか」という問いに対して、この理屈に基づいて考えれば、答えは自ずと明らかになる。

ありがとうをサボっているからだ。
作者に対するリスペクトが無いからだ。
作者が手間暇をかけ、心血を注いで創った文化的価値(の可能性)を盗み、金銭的な返礼や名誉を掠め取る行いだからだ。

このような行為は短期的には一部の読者に利益を生むが、贈与と返礼の往還が滞り、社会全体が文化的価値を軽んじるようになり、長期的には作者も多くのファンも不利益を被るのは明らかだ。

ここまで言えば、これは著作権以前の問題だとご理解頂けるだろう。「人として」、贈与に対する返礼を軽んじる作法は、認められていないのだ。

彼の議論は、最早俺のために書かれたのかと錯覚するほど、本記事と相性が良い。この「書物」の部分は、そのまま自然に「デッキリスト」と読み替えることが可能だ。両者は本質的には同格だ。公開されたデッキリストが「贈り物」でなくて何だろう。(むしろ、デッキリストは世間的にはまだ商品という感じがしないので、この議論を受け入れやすかろう。内田氏は、この資本主義経済の世界で「書物は本態的には商品ではない」という一見受け入れがたい理路を読者に解説することに一生懸命という感じだったが。)

やっと本題だ。そして即結論。

デッキ製作者に許可を貰わず、名前も載せずにデッキリストを自分のメディア(Youtube等)で利用する事の、何が問題なのだろうか。

製作者へのありがとうをサボっている事

これに尽きる。デッキ製作者の苦労を無視し、成果だけ利用する事で、短期的には得をする人もいるが、本来優秀なデッキビルダーが得られるはずの名誉を横取りし、やる気を削ぎ、長期的・界隈全体としては、文化的価値が大きく失われる事になる。

一言で言えばこうだ。
仮に著作権が無くても、リスペクトを欠いた行為は、書き手と読み手の利益を減損させる行為である。だからだめ。

で、結局どうするの?ぬるぬる侍

これが結構難しい。

製作者へのリスペクトがスーパーベリーベリー大事なのはよ〜く分かった。読者の皆様も耳にタコだろうが、筆者もそうだ。

問題は、どのような行動が製作者へのリスペクトを払った行動にあたるか、あたらないのか、という点だ。

あんなにドヤ顔で長文をしたためても、ここを間違えたら普通にGAMEOVERだ。

ここから先は筆者は言葉を選びに選ぶ。勿論批判も受け付ける。

ウォッホン!!ヴッヴ…ヴン!!!

まず、デッキリストを著作物かのように扱おうと思う。

筆者には「デッキリストは作者の思想や感情を表していて、創作的な表現物みたいなもので、ほぼ芸術だよね、」とは言い切れない。それでも、著作権の保護を受けるかのように捉えて、デッキリストを利用する際は引用のルールを守るように心がけておくことで、敬意無き行動を抑制しようという作戦だ。

誤解してほしくないのは、「引用のルールを守っておけば、まあ法的には万が一にもセーフだろ」という作戦ではなく(…まあそれもちょっとはあるけど)、あくまで「引用のルールは著作権制度の趣旨的に、文化の発展(=界隈の長期的利益=作者と読者の双方に利益=敬意・感謝)にとって、丁度良いガイドラインとして扱えるだろう」と期待した作戦だという事だ。

もう一度、文化庁のHPから引用する。今度は著作権制度の趣旨に注目して欲しい。

著作物が自由に使える場合 著作権法では,一定の「例外的」な場合に著作権等を制限して,著作権者等に許諾を得ることなく利用できることを定めています(第30条〜第47条の8)。これは,著作物等を利用するときは,いかなる場合であっても,著作物等を利用しようとするたびごとに,著作権者等の許諾を受け,必要であれば使用料を支払わなければならないとすると,文化的所産である著作物等の公正で円滑な利用が妨げられ,かえって文化の発展に寄与することを目的とする著作権制度の趣旨に反することにもなりかねないためです。(以下略)

出典:文化庁HP「著作物が自由に使える場合」強調はぬるぬる侍閲覧日2022.1.2https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html

確かに、「文化の発展に寄与すること」が著作権制度の趣旨だ。

「文化の発展に寄与するため」という理由で著作物が自由に使える場合が認められているのだから、これをモデルに、デッキリストに関しても引用の範囲での利用はアリ、ということにした。

実際、デッキリストを載せるときはどんな時でも開発者に許可を取らないといけないとすると、かえって文化の(=界隈の研究の)発展を妨げてしまう。良き落とし所なのではなかろうか。


これを基本方針として、具体的な方針を宣言する。

まず、他人のデッキリスト情報を主とした記事は書かないものとする。まあ筆者はもっぱら例の初心者向け記事を更新するだけなので、余り問題ない。

その上で、

ケース1、コンセプトから自分で組んだ場合(例、炎地武神ロングレンジ)

⇨ただ記事に掲載する。

ケース2、コンセプトは既に人口に膾炙しており、それを元にリストは自分で組んだ場合(例、ツヴァイ)

⇨ただ記事に掲載する。

ケース3、twitterやnote等で強いリストを見つけ、そのまま掲載したい時(40枚一致)(例、森忍さんの赤白武者)

⇨名前を出して掲載する。名前だけでも十分かもしれないが、「出所」を明らかにするのが一番良い。

ケース4、デッキコンセプトは既に人口に膾炙していて、そのデッキを記事に載せる上でtwitterやnoteを見漁って色々と参考にし、影響を受けつつも、結果的に筆者が組んだ40枚を掲載する場合
(例、赤緑速攻)

⇨大きく影響を受けた時はその方の名前を出す。

ただし実際には、影響されてるのか、されてないんだか、曖昧なケースも多い。複数の方のリストを見て、自分でもデッキを練って、実践を経て調整して…となると、「本来のアイデンティティ」とは何かを確定させる事はかなり困難だ。まあデッキ作りって普通はそうなのだが。「えいや」と誰か一人の名前を出すか、自作とみなすかに落ち着くと思う。

ぶっちゃけケース2との線引きは困難なので、影響を受けた方の名前を出すのは面倒だから、敢えて数枚差し替えたものを自作デッキとして掲載する…という、まさに敬意を欠いた行為もやろうと思えばできるが、それはしない。

とんでもなく無難な結論に至ったものだ。
でもこういうのは、理由が大事だと思うのよ俺は。なのでそこそこ満足です。はい。

早速、この方針に沿って記事を修正した。宣伝も兼ねてリンクを貼っておく。

…たとえ筆者がプレミしても、製作者へのリスペクトというスタート地点に戻って、行動を正して行けばよいと思う。

炎上した時は、ごめんなさいして、今度は反省の記事を作ろう。


有料記事は悪い文化?良い文化?

記事の目的はすでに達成したが、良い機会なので、(紙デュエマを含む)デッキリスト入り有料記事文化に関しても触れておきたいと思う。

(以下、「有料記事」とは、デッキリストを見るには課金が必要な記事の事を指す。)

先に断っておくと、この問題に結論は出ない。というか筆者は決着をつけられる立場にない。

公式がガイドラインか何か出すぐらいしか解決策は無いだろうと思う。それも難しそうだけど。

この項で目指すのは、有料記事という文化の是非をどう判断すればよいかの考え方を整理することである。

さて、有料記事は、代価としてお金を払って、有用(多分)な知見を得る、というモデルである。その点は一般の書物と変わらない。

しかし、「有料記事はどうかと思う」という声は大変根強い。では、何故批判されているのか。

もし、デッキの記事でお金を稼ごうという魂胆に立腹していて有料記事文化を叩いているなら、その方がよっぽど害悪だ。出版文化を全否定しているのと変わらない。

それは、有料記事内でデッキリストが発表されると、購入した人もしてない人も、そのデッキを別のメディアで利用する事を遠慮してしまうからだ。

次の質問について、心で答えてみてほしい。

デデン!

「有料記事内で発表されたデッキリストを無断でyoutubeに投稿するのは、問題無い。○か✕か。ただし、動画の内容が主、デッキリストは従の関係であり、かつソースは明示されている。」



もう答えただろうか?

どうだろう、○でも✕でも角が立つのが実感されたのではなかろうか。

youtubeで公開しても良い(=○)とすると、その記事を購入しなくても他の媒体でリストを確認すれば良いので、リストに比重を置いた記事はその価値を大きく失うだろう。売れ行きが悪くなるのも容易に想像がつく。

もしこの界隈に、誰か一人でも記事の中身をTwitterに晒すマンが現れたら、その瞬間モラルハザードが起き、晒す勢いは止まらなくなるだろう。

「誰にも止められなくなるぞ…!!!暴走するこの時代を…!!!」

となるのが分かっているので、皆やらない。誰かに止められた訳ではないけど、マナー違反の様な気がビンビンするし、責められたくないからtwitterではやらない。でも仲間内のディスコードやLINEではこっそり共有しちゃう。

かと言って、晒すのは駄目(=✕)と答えるのもまずそうだ。

今筆者は、記事内のデッキリストを晒すのが悪のように語っているが、忘れてはいけないのは、そもそもデッキリストを有料記事に入れて公開する人がいなければ、気兼ねなく自由に各メディアで使えた筈だという事だ。

喩えるなら、土地を私有財産とみなす人々が、土地を私有財産とはみなさず共有財産とみなして暮らしていた先住民族から、自分たちの論理で土地を占領するようなものだ。

有料記事の存在が、間接的に著しく界隈の研究を妨げ、多くの人を巻き込んでこのゲームを楽しむ可能性を減少させている。

これはかなり罪深いことだ。

それを感じているからこそ、投げ銭方式でデッキリストとその解説を公開する人が少なくないのだと思う。

さて、ここまで有料記事の悪い所ばかり挙げてきたが、良い所もある。

有料記事がちゃんと「優良な」記事だった場合は、当然読者は有益な情報を手に入れ、CSやランクマッチといった場で活かす事ができる。

それだけなら無料記事でも可能だが、当然だが、有料記事には収入が生まれる。単純たが、これは見過ごせない大きなメリットだ。

前の項で、書物を商品のように扱うことで、クリエイターのやる気が亢進するという話を紹介したが、まさにそれだ。

「お金になるなら頑張る!」というインセンティブが生まれ、結果的に高いクオリティの記事を読者が受け取れるなら、それは両者にとって、とても良い事だ。

また、やたら強いデッキリストを開発した人が、有料記事という文化が無ければ本来公開しなかったはずの記事を、有料で公開する、というケースもありうる話だ。

もう薄々感じてると思うが、この議論はさっきやった所の、「書物に商品という仮象をまとわせることで、贈与と返礼の往還を発生させやすいならそうすべきだし、逆効果なら別の方法が良い」という議論そのままだ。

ただ、先程はクリエイターの権利を軽んじるのを咎める方向性だったが、今度は、クリエイターの権利を過剰に持ち上げ、拝金的に厳しく取り締まる事は、かえって贈与と返礼の往還を阻害してはいないか?と問うているのだ。

(余談にはなりますが、一応内田氏の議論を誤解されても困るので少し補足しておくと、彼の議論は著作権をもっと重んじろとか軽んじろという話ではなく、むしろその全然逆で、返礼義務を感じるまともな読者を増やす事に注力するべきなんじゃないのか?という話です。例えば、この出版危機でもっと厳しい集金体制を敷けとかいう話は、返礼義務を出来るだけ怠りたいという人間像=近代的消費者を想定している分逆効果だろ?みたいな話が無限に載ってます。正直読んだほうが早いから皆買ってくれ。『街場のメディア論』ね。)

そういう訳で、有料記事にデッキリストを載せるという文化は、即、悪であるとはならないと思う。

有料記事という、「商品という仮象」を呈することに界隈全体が同意し、結果的に、価値あるデッキリストやプレイングが広まり、書き手のやる気も亢進して、両者に「よいこと」が増え、文化的な発展に寄与する可能性が高いのであれば、この文化にも一理ある。逆にその可能性が低く、記事の存在の悪影響がメリットを上回るというなら、有料記事という文化は死ななければならない。

善しとするにも、悪とするにも、この観点で実際どう働いているのかを観て判断するのが良いだろう。

こういう信念の元、もし、本当に有料記事は悪だと俺の中で確信が持てて、もう無理だ、我慢の限界だ、許せない!となったら、俺が記事を購入して中身をTwitterに晒して全世界に公開するかもしれない。炎上じゃすまないだろうけど。

個人的には、有料記事を購入し、緻密なデッキ解説に唸るという良い体験したことがあるので、この文化はあまり死んでほしくはない。


ちなみにさっきとったアンケートの結果↓

皆ラーメン食べたいんだね…


終わりに

本記事は以上となる。

繰り返しになるが、本記事は帝王さんやトニックさんらを批判する意図で書いてはいない。大体、事件について細かい事情を知らないので批判できない。したくもない。なのでこの記事を彼らにぶん投げるとか、議論の引き合いに出すのはできればやめてほしい。

とはいえ、読者の皆様が本記事を参考にして、デッキリストの扱いに関して再考する機会になれば望外の喜びである。

勿論私の結論を押し付けるつもりはないが、哲学者の力も借りつつ「人として」根本的な議論を展開できたので、中々の説得力があったのではないだろうか。その点はまあまあ満足している。

それと、本記事で返礼義務に触れたので、これを機会に言うのだが、筆者はnoteの投げ銭文化を非常に優れたものだと評価している。

感動する程良い記事に出会った時、「いいねやRTでは足りねえ!金を投げさせろ!」となる事が筆者にもたまにある。そういう時は投げ銭機能の存在に深く感謝する。

なので本記事ぐらいには投げ銭機能を付けてみようかとも思ったのだが、記事の見出しに値段がつくのが個人的に少し好きではないので見送ることにした。

もし本記事に「返礼義務」を感じて頂けたなら、記事にいいねを押してもらえると大変嬉しい。筆者はその通知を見て一生ニヤニヤする予定だ。いいねじゃ足りないぜという方は、是非RTして貰えると助かる。これ書くのめちゃ大変だったので、沢山の人に読まれたいのよ。

それではまたお会いしましょう。さようなら。

2022.1.4ぬるぬる侍


追記
折角なので、拙作の他メディア内での利用に関してもこの場でお気持ちを表明しておく。

好きにやってくれ!!!

許可とか要りません。というか引用は基本的に許可を取らない行為だし。あと、引用の基準に適うかどうかを筆者からつつく事もありません。適当にしてもろて。筆者の考えを拡散してくれるのに協力して頂けるのだから、むしろこちらが御礼を申し上げたい程です。

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