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物書きが文字を紡がなくなったら何者になるんだろう、なんて。

高瀬というHNを名乗っていたりリアルでは使用しないその他のHNを名乗っているときに一番最初に自己紹介をするとするなら、
「私は”物書き”と”写真”の人です。」と自己紹介をする。
(元々は別サイトで創作をメインにしてました)

だというのに。

最近まともに文字を紡ぐこともせず、SNSもあまり動かさずという状況で私って一体何者なんだ…?というところまできてしまった。
(それこそ、写真は外に出なくなった影響で撮る機会がほんっっっっとうに減った。
そこに対しては仕方なさもあるのだけど、最近は色んな意味で写真を撮ることに関してゆるっと撮っては載せてるので今回は割愛します。)

少し自分の事を見つめ直してみようかな、と、久しぶりにゆるりと紡いでみる。
(タイトルと合ってるのかは如何せん謎ですが、
ゆるりとお付き合いください。)

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それこそ学生の頃は、いい意味でも悪い意味でも感情がよく動く方だった。

色んな人と関わる機会が多い方で関わる人が増えれば増えるほど感情がよく動いたし、
ひとりでいることは旅行やカフェ巡りだったり”目的を持って何かをする”ということにおいては好きだったけれど、
なにもせずに一日を終わらせることはかなり苦手で人と関わらない日も感情が沈みがちな人だった。

そして、ポジティブというよりネガティブよりな性格も相まってネガティブ期は感情の赴くまま文字に落とし込んだ。
創作活動はそのネガティブの発散の一角だった。

体験していないことは書けない、と何処かで聞いたことがあるけれど、それこそ私はそのタイプだったのだと思う。
勿論全てがリアルな訳ではないし、あくまでベースが体験なことが多いというだけだけれど。
(そもそも創作じゃ無くなってしまうしね。)

創作活動に関しては体験ベースというのもあって比較的ノリに乗ってさえいれば手が動く方で、別のサイトで創作していた時は更新ペースはまばらではあったけれどきちんと完結に持っていった。

恋愛系が多かったこともあって感情に流されるまま言葉を紡ぐことも多く、時にはキャラの心情に寄り添いすぎて泣きながら紡ぐことも少なくなかった。

要はリアルでも創作活動でも、他者の感情に振り回されやすいタイプだった。

そして社会人になって3年目。
というか社会人になって創作活動もまともにせず、自分の事を紡ぐ日記ベースな書き物もあまりしないようになって、
HNとセットになっている自己紹介だけが過去にいるようで違和感が生まれてしまった。

書けばいい、といってしまえばその一言で済んでしまうのだけどね。

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中学生高校生の頃から言葉を紡ぐことは私の中で感情を整理する行動の一つだったわけで、
どうしたって違和感が其処にあることが不快なのだと思う。

”誰かに読んで欲しいから書く”という気持ちよりも感情の整理のために日記をはじめて、
色んな感情を其処らじゅうに詰め込んでいたはずなのに
いつの間にか詰め込む感情がどこかにいってしまってそれを私は寂しいと思っているのだろうなあ。

伝えるという意味で言葉を紡ぐことは今でも苦手だし、文章も下手くそで頭の中で思考の整理をすることも苦手だし、正直何か言葉で紡ぐことに長けているわけでは全くなくて。
(寧ろそういう力が欲しいと思っているわけだけど。)

それでも紡いでいたのは、色々な創作活動を通じて出会った方々が好きで尊敬していて一緒の立場でありたかったから
なんて綺麗事を言ってみたりして。

結局本当のところは私が日々捨てているその感情が、いつか私の中で何か意味のあるものになってくれたり。
私じゃない誰かと共有することに意味を見出したり。
そういうことができたらいいなあと今も願っているのだと思う。

私にとって文字を綴るということは、誰かとつながる方法で。
素直じゃない私が捻くれながらも素直に言葉を紡げる場所が大好きだったから、今も私は時折文字を紡ぐんだろう。

肩書き、なんて大層なものを持つほどの人間ではないけれど、そういった意味ではもう違ってきてしまうのかもしれないなあ。
でも、その肩書きのお陰で繋がれた方々もいれば、失ったものもあったりして。

現状をうーーーーーん…と大きく唸りつつ悩ましく思ってしまうけれど、
その違和感を文字にしたり言葉にしたり、それでも好き!と大きな声で言える限りは、
私は”物書き”の人と名乗っていきたい。

こういう気持ちをギュッて抱きしめてもきっと明日には忘れてしまうから、
やっぱり定期的に文字を綴っていきたいなあと思う限り。

やっぱり下手くそでも、頭の中を練りにねって書く文字たちは愛おしい。
本当はそれだけでいいのかもしれない、ね?

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