かわいい乳首と自己肯定感のこと


「どんなふうにされるのが好き?」

そう言ってわたしはきみの顔を挑発的に見つめる。ああ、こいつが大嫌いで、大好きで、どうにかなってしまいそう。わたしのことを忘れられないように縛り上げて調教して、虜にしてしまいたい。

ソファに座ったきみのうえにまたがって、きみの縦縞シャツの上から乳首をなぞる。

「ね、これはストライプシャツだよね」

しまの一本一本を上から下、下から上になぞっていくと、突起できみのからだが跳ねる。きみが漏らす吐息には、なにか意味はあるのかな。

いつもは誰と、こういうことしてるんだろう。若くて肌はすべすべで髪はつやつやで結婚に夢みちゃうような女の子かな?

そんなことを考えていると、わたしは意地悪だから、答え合わせをしたくなってしまって、でもしないほうがみんなのためにも良いのを知っているから、ああこいつは愚かな男だなあ、そしてそんな男に抱かれるなんて、わたしはもっと愚かだ。なんて無駄なことに思考を巡らせてしまって、一気につまらなくなる。アルコールが足りないのかしらなんて思うけど、事は始まってしまっていて、終わらせなければならない。

きみがどんなに頑張ってくれようとしても、不感症になった心にはなにも響かない。体は心と繋がっているんだな、すごいや、なんて思ったりして。

足りないのはアルコールなんかじゃなくて、きみに対する興味と好奇心なんだろう。わたしは弱虫だから、ちょこっと知り合っただけのきみなんかに、わたしの大きな感情の渦をぶつけられずに心の壊れかけた箱にしまってそのままにしてしまう。

そうやってやりすごして生きてきて、そのうち誰かが見つけてくれることを期待してしまっていた。

でも、きっと誰も見つけてくれない。だって自分ですら気づかないような箱なんだから、ちゃんと自分で見つけて整頓して、人に見せるならばわかりやすく中身を整理しなくちゃ。

見せないならば、自分の好きにしておけばいい、ボロボロでもいいし汚くてもいいし、好きにしたらいい。でも、それが存在していて中身を把握している、それを認めるってことが「自分を認め、受け入れる」ということなんじゃないだろうか。

自己肯定感が高い、低いってのは最近の流行りだけれど、自己肯定感が高いのが良い、悪いを決めてそこに当てはめてしまう行為がそもそも自分を受け入れているとは言い難い。

どんな自分でも良い。どんなに汚い壊れかけた箱を心に持っていてもそれを自覚して、愛を持って接してあげることが生きていくコツなんだろう。

だからわたしも、こんなちぐはぐな文を書く自分を愛してあげるよ。かわいいストライプシャツを着ていたかわいい乳首のきみのことは愛せないけどね。



おわり




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