もう一人のベーブ
大谷翔平の活躍によって多くがベーブ・ルースの名前を聞くようになった。
確かに野球の王様と呼ばれたベーブ・ルースを知らない人は野球を知る人でも少ないだろう。よほど今の野球以外興味がない、と言わない限りは一度くらいは名前を聞いたことがあるはずだ。そうでなくとも大谷翔平をきっかけにルースの名前が出る機会は多い。
ベーブ・ルースはいまだにキングオブベースボールの玉座に座っている。
ただ彼以外にもbabeと呼ばれた男がいる事をご存じだろうか。
しかも今大谷翔平の在籍するドジャースにも大きくかかわっている。
ベーブ・ハーマン。
ブルックリンにもまたベーブと呼ばれた男がいた。
1925年のブルックリン・ロビンスには一つ大きな問題を抱えていた。
ロビンスを長らく支えていたザック・ウィートの後継者問題である。まだブルックリンがロビンスより前のドジャース、それより前のスーパーバスの頃から外野の一つを支えていたザックウィートも三十台を後半に差し掛かった。
元々打線の強いチームではなかったロビンスにとってウィートのような打てる存在は大きい。その時こそ主砲のジャック・フォーリナーがいたものの、彼らに変わる存在が欲しい。
そんな折、シアトルのマイナーで試合を送っていた選手、フロイド・ハーマンを見つける。この選手、とてもではないが守備や走塁は壊滅的であった。それは生涯成績のエラー数96のうち41が当時守っていたファーストのものであったことを考えたら想像に難くないであろう。彼がファーストを守ったのは6年。それもメインで守ったのはメジャーデビューした26年と翌年27年の二年だ。
そのお粗末な守備は見るに見かねたものではあったが打撃に対してはとてつもないものを持っていた。当時のブルックリンのスカウトはブルックリンの監督ウィルバート・ロビンソンへの書評でこう記している。
彼の守備はお粗末なものだったが6安打を決めた時に加入を決めた、と。
打撃に陰りの見えてきたブルックリンと打撃に売りの選手の思惑が一致した瞬間であった。
ここにベーブと呼ばれるもう一人の男がメジャーに入る事になる。
1,ベーブ・ハーマン登場
フロイド・ハーマンはニューヨーク州のバッファロー生まれである。
今では飛行機があるためにマンハッタンに至るまで三時間もあれば十分なものの、まだまだ飛行機もない当時だと同じニューヨークでも随分遠いところにある。バッファローは五大湖の一つ、エリー湖に即した場所でどちらかといえばクリーブランドやデトロイトのほうが近い。なんならマンハッタンよりはトロントのほうが距離的には近いほどの場所だ。田舎というには大きいがそれでも都会と言い切れる場所ではない場所を出身とする。
そんな彼が野球のキャリアを始めたのは1921年、遠くカナダのエドモントン・エスキモーズからであった。そこで野球殿堂入りを果たしているヘイニー・マナシュらと共にプレーしながら色々なマイナーを渡っている。
ここで彼はベーブ、の名前を得ている。逸話はベーブ・ルースから取ったとか女性ファンの「ベイブ」という応援からとったとか、色々あるがいかにせよベーブ・ハーマンはここで生まれている。二人目のベーブはこの時に生まれているのだ。
有名な逸話として1922年のスプリング・トレーニングでタイ・カッブの代打で出た事だろう。これだけ見ると打撃巧者の系譜を感じさせるがそれは偶然みたいなものでこれから3年ほどマイナーを移動していく。
その流れで最後1925年シアトル・インディアンズに来る。
そこで1920年代のシンシナティ・レッズ屈指のエースであるレッド・ルーカスらを同僚として試合をしていたところをスカウトされたわけである。
1926年、ブルックリンで初めてメジャーのフィールドに招待されることになった。
とはいえ実績のない若者である。
打撃には得手があってもそれ以外に難あり、とされ、さらにファーストにはジャック・フォーリナーがいる。当然代打からのスタートであった。
最初の試合は1926年4月24日のニューヨーク・ジャイアンツ戦。ラビット・モランビルの四打席目代打で出場。結果は四球でさっさと代走に変わっている。
ここからゆっくりと起用されていく。
最初こそジャック・フォーリナーとの併用であったが打撃が不調なフォーリナーに対し打撃だけが売りのハーマンは打ちに打ち、7月にはスタメンを奪っていた。
そのシーズンの結果は.319、11本、81打点。ブルックリンの新たな主砲が誕生した瞬間でもあった。
彼がすごかったのは打率だけではない。新人ながらにして長打率5割という数字が示す通りとにかく長打が多かった。ホームランこそ併用の影響もあって11本だが二塁打は脅威の35。三塁打も11と、とにかく長打を打ち、走りに走っている。
しかし盗塁はあまり得意ではないようで18回盗塁を行い8盗塁成功させながら10盗塁失敗している。足そのものは速いが駆け引きなどが得意ではなかったのだろう。彼の通算盗塁は94盗塁93盗塁死となるが、ぎりぎりで盗塁数が盗塁死数を勝るような選手であった。盗塁もこの後上手くなっていくのだが同じくらいに盗塁死も増えていくことになる。
一方で守備はエラー21と当時にしても壊滅的でこれが後々彼が外野に回るきっかけとなっていく。
走塁、守備はとてもじゃないがメジャーリーガーのプレーとはいえない。しかしながらそれをもってしても余りある打撃のセンスが彼を支え、そのシーズンで年齢的にも上がり、調子も上がってこなかったジャック・フォーリナー、ザック・ウィートはその年のうちにリリース。そしてなぜか彼がデビュー時に代打出されたモランビルもクビになっている。ある意味野球殿堂入り選手二人をクビにした選手でもある。
そして彼を中心にチームは編成されていく。
2,ブルックリン・ロビンスの主砲
1927年にハーマンは四番に座っている。
とはいうもののハーマン一人でフォーリナーやウィートの穴を埋める事はできなかった。結果チームは6位。彼も打率を.272とがっつり落としている。
この時どのチームが強かったかと言われたら意外と思われるかもしれないのだがピッツバーグパイレーツであった。
この時代を少しでもかじっていればポイズンブラザーズと聞いてピンとくる人もいるだろう。ポール・ウェイナー、ロイド・ウェイナーがとてつもない勢いで打っていた時代である。日本では知られていないながらも野球殿堂入りを果たしたパイ・トレイナー、この年不調だったものの翌年入団したシカゴ・カブスで強力な打撃陣の一翼を担ったカイカイ・カイラーなど錚々たる布陣を構えていた。
一方ハーマンくらいしかいないロビンスが勝つこともなく、打撃上手で知られたミューゼル兄弟の兄、アイリッシュ・ミューゼルを呼ぶも活躍せず、グローブ関係で名前を残すビル・ダークがいて、あとはエースのデジー・ヴァンスがひいひい言いながら投げるような有様であった。
そのためしばらくロビンスは6位が定位置になっていく。
その雰囲気が変わり始めたのは1929年であった。
メンフィスで打っていたジョニー・フレデリク加入により外野が三割打てるチームに変わり始める。元々ハーマンと共に打撃の中軸を担っていたのはハービー・ヘンドリックでそれ以外はどんぐりの背比べという感じだったのだが彼の加入で層が増し、ルーブ・ブレスラーなどと強力な打撃陣を展開できるようになっていく。
一方投手陣は完全に崩壊しており、順位は相変わらずの六位。しかし将来が少しだけ見えるシーズンとなっていった。
その時の彼の打率は.381。首位打者を狙える位置にいた。
しかしこの年の首位打者はフィラデルフィア・フィリーズのレフティ・オドール。.398で誰も寄せ付けない打率で首位打者をとっている。この年のフィラデルフィアはオドールのみならず本塁打王を取ったチャック・クラインもおり、首位打者と本塁打王が同じチームにいる強豪であった。
だからこそ1930年の記録を誰もが惜しむことになる。
3,全盛期とロビンス主砲の終焉
彼の絶頂期はいつか、と言われたら1930年という人は多いだろう。
彼が唯一.400に近づいたシーズンでもある。
読者の多くは戦前の野球は多く打率.400が出やすいというイメージがあるだろう。それは正直に言えば想像だけだ。確かに三割後半は出やすい。特にライブボール全盛期からはそれが顕著になっていく。
しかし.400まで叩ける選手はほとんどいない。デッドボール時代のタイ・カッブの成績などをみてマヒしているだけである。大概は三割打てたら主軸がチーム内構想の中に組み込まれるくらいのシビアな世界だ。
その年の彼の打率はなんと.393。めっためたに打っている。
ホームランも35本。打点は130点と主軸の名に恥ずかしくない成績を残している。もし仮に今この成績を残せる選手がチームにいたら一生手放したくない選手になっているであろう。
そう、一流打者であったのだ。
だが、首位打者にはとどかなかった。
この年、よりによってニューヨーク・ジャイアンツのビル・テリーが.401を達成。ロジャース・ホーンズビー(セントルイス・カージナルス)の1925年以来、久しぶりの四割打者が生まれてしまった。
この後四割が出るのが41年のテッド・ウィリアムズ。そう、最後の四割打者と呼ばれた彼だ。
よりによってその今後難産になっていく四割打者の年にぶつかってしまったのだ。
ホームランや打点もシカゴ・カブスの長距離砲、ハック・ウィルソンが56本、191打点と近づくことすら許さない。そうして彼のキャリアハイは終わりを迎えてしまう。ある意味いつも二番手、三番手の男になってしまった。
ただチームに貢献できてないかといえばうそになる。
ブルックリン・ロビンスは遂に6位の位置から4位に上がっている。そこには彼の活躍なしにはありえないだろう。1931年も成績を落としながらも主軸としてチームを支えている。チームには過去首位打者を争ったレフティ・オドールも加入。遂にブルックリン・ロビンスが強くなっていく、という時であった。
1932年、ロビンスの名前の由来であったチームの監督ウィルバート・ロビンソンが退任。そして1932年1月23日、トレードでかの二冠王、ハック・ウィルソンが加入。
監督マックス・ケリーによって同じポジションの選手はいらないとばかりにあっさりとシンシナティ・レッズにトレードされてしまう。
この時セットで出された選手はロビンスで控えに甘んじていた捕手、アーニー・ロンバルディなのだが、これがロビンスから名前を戻したドジャースにとってあまりにも大きな痛手になるのはのちの話である。
かつて煮え湯を飲まされたレフティ・オドール、ハック・ウィルソンが自分のいたポジションを守られる姿を見ながらチームを去る事になってしまった。
4,全盛期の終わり
シンシナティにはかつて同じチームでプレーしたレッド・ルーカス、同じくロビンスを去ったハービー・ヘンドリックがいた。
そこでハーマンは主砲として活躍していくものの、トレードに出された選手が活躍するのは難しく、見事に最下位の8位に落ち着く。
しかしもはや彼の輝きは落ち着きつつあった。打率こそ.326と打ったがホームランは16本と寂しい。足の速さもあって19三塁打と三塁打王になるがそれくらいでここから老け込んでいくことになる。
この後11月30日にかつてハック・ウィルソンのいたシカゴ・カブスへトレード。
33年にはまたもやハービー・ヘンドリックが入団。しかしかつてのような活躍はできなくなっており、相棒はもっぱらギャビー・ハートネットと主軸を担っていた。ヘンドリックは翌年フィラデルフィアに出され、そこで引退。彼との関係も33年を最後に終わってしまう。
34年もライトを守っていたがフィリーズの首位打者であったチャック・クラインが入団。もう一人のハーマンであったセカンドのビリー・ハーマンも成長し始めカイカイ・カイナーも復調。そこに居場所がなかったわけではないが投手力に問題のあったカブスは彼をピッツバーグへトレード。
ピッツバーグはいまだポイズンブラザーズが猛威を振るっており、ライトはロイド以上に打撃の上手いポールのポジションだった。そこに割って入れるわけもなくレフトもウッディ・ジャンセンが.324と絶好調。そうそうにシンシナティにまた戻されている。
ピッツバーグにはレッド・ルーカスがおり、トレード先のシンシナティにはまた不調に陥ったカイカイ・カイナーがいた。
もう彼もベテランとして使えたらラッキー、使えなければトレードの弾、というような扱いになっていた。それはもう遠くないうちに彼の引退が迫っていることを示唆していた。
そしてシンシナティの主砲はかつてともにドジャースからトレードに出されたアーニー・ロンバルディであった。常時三割を打つロンバルディなしにシンシナティ・レッズというチームは機能せず、ベーブ・ハーマンが最終的にデトロイトで引退する1937年の翌年38年に首位打者を取るのは何かの縁か。
37年デトロイトには悲劇のホームラン王ハンク・グリーンバーグ、野球機械と言われたチャーリー・ゲリンジャ―達を追い抜く力は失っていた。
1937年6月6日。投手ロクシー・ローソンの代打に出るものの失敗。15日にリリース。ここで彼のメジャー人生は一度終わり、マイナーのハリウッド・スターズでずっと試合をし続ける。
5,ブルックリンに帰ってきたベーブ
その彼が最後にメジャーに戻る。
1945年。
この年を見ただけでハッとする人は多いだろう。そう。日本も大いに関わったアメリカの一大事。それによる選手不足の中で彼は呼び出されたのである。
それもかつて自分を捨てたドジャースが。
1945年はピート・グレイのような隻腕の打者が現れるような選手不足。
そこにかつて活躍し、コーチなどを行っていた人間ですら駆り出さないといけないほど選手が少なくなっていた。
ドジャースも監督のレオ・ドローチャーを起用しなければならないほど選手事情が困窮している。当たり前だ。ルーズベルトは「メジャーリーグを止めるな」とはいうものの、国民の関心はそれどころではないのだから。ヤンキースの勝利よりも日本に勝つことの方がよっぽど関心を集めているのだから。
そんな状況でハーマンは呼び出された。
かつてシンシナティで内野を守っていたドローチャーが監督になっている。もしかしたらシンシナティでできた人間関係がハーマンを呼び寄せるきっかけになったかもしれない。それは想像の域でしかないがそうだとしたら面白い。
主に代打として出場し、その年に引退している。
最後にヒットを打ったのが9月9日。奇しくも自分がトレード出されたシンシナティ・レッズであった。
これ以降のヒットはなく、最後の打席は9月16日、これまた自身と関係あるシカゴ・カブスでの代打であった。
こうして二人目のベーブの野球人生は終わった。
この三年後の1948年に一人目のベーブことベーブ・ルースが死去。一つの時代が過ぎ去る音が響いた。
6,今だからこそ振り返りたいドジャースの歴史
大谷翔平がドジャースで活躍する前から日本とドジャースの縁は深い。
それは1960年代、アル・キャンパニスの書籍を読売ジャイアンツがバイブルとしてから、と考えると歴史もひとしおだ。ドン・ニューカムが中日の野手として表れ、時代を得ていくと野茂英雄がNPBの選手でもメジャーで活躍できる証明をしてみせた。
そして現在は大谷翔平の活躍に於いて輝きを見せている。
しかし、どれだけドジャースのことを知っているだろうか。
ほとんどの人が知らないだろう。元々ニューヨークの一角にあったことすら知らないかもしれない。かつて監督の名前からロビンスと呼ばれていた事など知らなくて当然だろう。
ギリギリジャッキー・ロビンソンのいた球団、という知識はあるかもしれない。しかし彼が何番を打ち、どこを守っていたかを知る人は少ない。その時の主砲は誰なのか。ドジャースタジアムが生まれてどういう野球に切り替わったか。
恐らくベーブ・ルースの名前はよく出る一方でドジャースにもベーブという名を持った選手がいた、という事を知らなかった人のほうが多かったかもしれない。
知らなくてもいいし、知ったところで大谷翔平がさらに活躍するわけでもないだろう。
だが、触っておいて損はない。
その理解度はドジャースという球団へのリスペクトになっていくからだ。
歴史を知り、文化を知る事はすなわち彼らの歩んできた道を肯定することだ。そのようなリスペクトの上で大谷翔平を見た時、きっと違った世界が眼前に広がるだろう。
そういう事を、二人目のベーブは教えてくれるのだ。
参考
Society for American Baseball Resarch(sabr)
baseball almanac.com
baseball reference
wikipedia the free encyclopedia