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お前らこう見られているからな!『野球どアホウ未亡人』を野球好きが語る

 X(旧ツイッター)で遊んでいるときに変な情報を得た。
 なんでも野球を題材にした映画をやるらしいと。
 水島新司の登場以降、リアル化に徹底する方面に走っている野球の創作物。そういったものはどうしても野球を観慣れている人間にとっては作られた部分が鼻につく。そんなのもあってあまり観ないのだがタイトルに惹かれてしまった。

「野球どアホウ未亡人」

 アダルトビデオと見まごうようなひどいタイトルに惹かれた。
 ポスターには主演の森山みつきが水島漫画のどこかでみたユニフォームと梶原一騎原作のどこかでみた矯正ギプスを付けてボールを投げようとしている。

 そしてその斜め下には藤田健彦演じる重野がボールを持って立っている。
 背番号は16。野球ファンには川上哲治の背番号として記憶に深いがおそらくあの矯正ギプスから考えるに大リーグボールを投げたあの投手。

「あーね。なるほどね。そういう路線ね」

 もう私はそう思わずにはいられなかった。
 テーマは昭和スポ根×ポルノ。日活ポルノとV9巨人にかこつけて多く出た野球漫画の組み合わせか。それも今では誰も信じられなくなってツッコミどころでしか語られない両者を組み合わせた映画を池袋シネマ・ロサで行うという。

 私は野球も好きだが映画も好きだ。とりわけクソ映画と言われる出来の悪かったり、出来はいいけど予算不足で粗が目立つような作品を好む。
 映画には制作陣に野球の思い入れある人はゼロということ。だとしたら確実にまともな野球映画になるわけがない。となるとどこまで野球という舞台を使って茶化すか。ここが焦点となる。
 久しぶりに映画館のチケットを握った。


 上映時間は一時間。映画としてみるには短い。
 しかし面白いもので上質な創作は時間を忘れるものらしい。捧腹絶倒の一時間を過ごす羽目に。いや、厳密に言えば、あまり笑わなかった。他人と同じ場所を共有する映画館というスタンスゆえにこらえていたのだが、やはり我慢が出来なくなってきて爆発した。

 これが意外なことに制作陣が「あえて」笑いをとりに行こうとした場面では笑っていなかったりする。
 主人公、水島夏子(森山みつき)の夫である賢一(秋斗)が死んだことを表現したシーンなどで会場では笑いも起こっていたが、どちらかというと
「予告とかで使いたかったんだろうな」
みたいな目線で見ていた。予告のためにキャッチーなシーンは重要だ。しかし映画も多少観慣れたり創作論なんかを学んでいたりするとそこまで印象的なシーンとして映らない。

 それよりは「野球に対して特別思い入れのない人間が作る野球の映画」にふさわしく賢一が重野(藤田健彦)に野球の練習に付き合う時の持ち物がグラブ袋だけであったり、着こなしばっちりのユニフォームのわりにはオーバーソックスがなければプロ野球選手みたいにだぼだぼにもしていないところや、まったく生活感のないマンション、無造作に置かれたバットとかのほうが気が行ってしまう。ちょっと調べりゃわかるようなところもきちんと(?)やっていない。キャッチフレーズは本当のようだ。

 かといって野球描写が必ずしも作品の良しあしを決定しない。
 それこそフィールド・オブ・ドリームスでレイ・リオッタ演じるシューレス・ジョー・ジャクソンは右投げ左打ちであるが、リオッタがどうしても左打ができなかったために左投げ右打ちと互い違いにして回避している。

ジョー・ジャクソン (野球)(Wikipediaより)

 むしろ「フレーズに偽りなし」の方がこちらとしてはうれしい。
 近年は専門家のバズ狙いで細かいところまで気づくような小ネタを仕込む傾向にある。が、そんなのお構いなしと言わんばかりな展開に心は踊らされる。そうだ。そういう細かいところまで観る映画ではない。むしろ、そういうバズ小ネタ探しファンお断りの映画なのだ、と説明させられる。

 そして賢一を失った夏子は重野の説得から野球を始めるのだが、ここで大笑いしてしまう。重野演じる藤田健彦の鬼気迫る説得とそれを徹底拒否する夏子。最後の一言で夏子の中に一瞬ためらいが生まれてしまうのだが、それがあまりにもあっさりすぎて笑い転げてしまった。
 それは夏子の身の代わりの速さもであったが、そもそも割と野球漫画ではよくある展開でもあるのだ。あれだけ野球嫌いと言っていたやつがテコ入れ的に一話でさらっと野球の世界に入る。
 こういう馬鹿な展開をスピーディに行われるのがたまらない。

 そして夏子と重野の特訓が始まるのだが、その特訓もまあひどい。
 ボールの心を知らなければ野球がわかるわけがない、という重野の哲学のもと特訓が始まるのだが、それがまあ、またなんとも言い難い特訓なのだ。
 元々重野は自費出版で野球の書籍を作るほど野球狂。その野球狂のために賢一は死んでしまうのだが、昔の野球漫画、というよりは土山しげるの『食キング』のように一見料理とは違っても最終的には料理に関係するトレーニングを課す、という場面が多くある。
 参考にしたであろう『巨人の星』では大リーグボール開発やそれの対策のためにハチャメチャなトレーニングをやっているのだ。

 しかしここで私はにやりとした。
 それは、この手合いの漫画のハチャメチャなトレーニングを入れたことではない。この手合いの漫画によくある「一見それっぽいことを言って無理やり理合いを取ってくる」ことを完全に再現していることであった。
 これは梶原一騎がよくやる事で、例えば巨人の星では原作者の梶原一騎が野球を知らずに連載を開始したというのはよく知られるところで、巨人の星は原則として
「ピンチに立った星飛雄馬が様々なことからヒントを得て野球選手としてだけではなく人間として成長していく」
というスタンスをとっている。そのために例えば父・星一徹が青雲高校の監督代理を引き受けた際、あえて飛雄馬と遊園地に遊びに行ったりすることで「明日からは父親ではない」ことを演出したりする。
 冷静に考えたら別段こんなことをする必要はない。東海大での原貢と原辰徳のような親子鷹のような路線でも構わない。だが、そうすることによって読者に伝わりやすく「一徹は飛雄馬と親子の縁を切った」と表現するためにあえてそういうシーンを描くのだ。
 こういう「意味は分からないけど言いたいことはわかる」シーンが多い。近年の野球漫画では使うことすらなくなり、それをあえて出すことは必然的に笑いを求める。
 それをきちんとトレースしていることに笑いを覚えたのだ。

 このシーンで確信に変わった。
「おそらくこの映画は過去の野球漫画や創作物が捨ててきたものをきちんと再利用する作品だ」と。

 しかしこういうシーンは笑いとして扱うために今日でも多少なり創作物で使われる。謎の哲学の元にヘンテコな特訓をする。
 これはライムスター宇多丸がガッチャマン回などで語ったような「今だと信じられないから笑いになってしまう」を完全に体現している。それを狙ってのシーンは未だに多い。
 ただ、この映画がた作品と違うと感じたところは間違いなく演者達の怪演故であろう。
 彼らの真剣な演技が、少なくとも登場人物の世界観にはある事を疑っていないのだ。我々はあまりにも滑稽な理論、方法だから笑うのだが、その笑いに一番必要なのは
「誰が考えても馬鹿と思うのにそこにいる誰もが信じていること」なのだ。
 とてつもなく馬鹿な事を信じている。そこに「少し考えたらわかるでしょ」と思うから笑いがこみあげてくるのだ。笑いとは侮蔑の調味料を加えることで初めて力を得るのだが、調味料のうまさゆえに量を間違える作品は多い。たくさん入れればうまくなると信じている作品は数多いのだ。
 このバランスが非常にうまい。

 このバランスが一時間ずっと続くことになる。
 画の撮り方、間、演技。どれをとっても映画的手法で描かれており、シリアスな場面はきちんとシリアスに描かれている。
 しかしあまりにも雑すぎる野球表現。おそらく使いまわされているユニフォーム。二つしかないだろうグラブ。普通ならグラウンドコンディショニング不良で誰も近寄ろうともしない雨上がりの球場。キャッチャーなのか審判なのかわからないやつ。武道をやっている人物は絶対キャッチャーという思い込み。しかも武道が強い地域は大抵九州出身。そして野球の強いやつは大抵関西弁。
 それらが一堂に会されると、演者がアンダースローやサイドスローがあまり出来がよくない、なんて事実はもう些細な問題で、むしろ映画側から
「しょうがないじゃん。そういう映画なんだからさ」
と、言葉ではなく画で説明してくるものだからなんでもありになっていく。
(Xでのリプライによると、藤田健彦氏はアンダースローはおろか野球なんて、という状態だったらしく、川辺で石を投げるところからスタートしたそう)
 特に関西弁に関してはパンフレットによると主演の森山みつきが大阪出身だったこともあったから始まったことらしく、流暢な関西弁を披露している。一方九州出身の登場人物は九州弁とも広島弁ともつかないしゃべりをしていて、気合の入った関西弁での対比がこれ以上なく働いたいい加減さがまたたまらないのではあるが。君はどこの人間なんだ。(福岡育ちの広島在住経験者)

 このとてつもなく真面目なところとどうでもいいと思えるほどいい加減なところが介在しているからこそ、シュールレアリスム的な笑いが生まれている。
 あまりにも変なのに、この世界の人間だけはなぜかそれを疑いもしない。一応疑いを持つ人間はいるが、水島新司の代表作で主人公をした長距離打者みたいに胴着を着てホームに立つなど世界観に飲み込まれそうになっている。
 取れないボールがあるものか、という歌詞とボールにぶつかっている主人公の対比が素晴らしい、視聴者の多くから突っ込まれているOPの再現なんか君がしなくてもいいのだ。

 そして最後は野球の才能が受け入れられた夏子がアメリカに渡るのだが、それがまた野球漫画あるあるで素晴らしい。アメリカと言っておけばなんかすごい感じする、みたいな風景が見えてくる。過去アストロ球団が最後になんとなくすごそうだからとアフリカに行ったような光景に似る。
 雑な「アメリカ=野球の生まれ故郷=大リーグすごい」感は野球漫画ではダメな終わり方の鉄板と言っても差し支えない。野球漫画のダメなところを石橋をたたき、その上に鉄板をしき、そのついでにタワーまで立ててしまうような雑さがいいのだ。
 雑なのに登場人物は疑いもしないから、軌道を外れているのにフルスロットルで物語は進む。
 それは巨人の星やドカベンといった作品の「言いたいことはわかるけどそうはならんやろ」という路線や、アストロ球団の「そもそもそうはならんやろ」というような、昭和の本格的スポ根ものの漫画にすらあった変な軌道を見事に活かしきって作り上げられた作品なのだ。

 そしてなによりその昭和スポ根ものの漫画にある変な軌道を小ばかにしていないからこそあのシュールな映画が作り上げられたのだ。
 前述の宇多丸が「信じられないから笑いになる」に連なり「作成する側は徹底的に信じないと視聴者側に伝わらない」という言葉をガッチャマン回で残している。
 これが一番重要で、少なくとも劇中の人物たちは「それらがあることを徹底的に信じる」からこそ観ている我々には全く信じられないそれを信じている人たち、というギャップ差に笑うのだ。
 だから「過去はこんなバカなことやってたんでしょ。バカみたいっしょ」と鼻歌交じりにこの映画は作られたのではなく
「こんな世界あるわけねえええだろおおおお!お前らもそう思うよな?絶対そう思うよな!」
と信じているからこそ奇妙な笑いが生まれるのだ。

 だからこの映画にはそういった現在起きていることを小ばかにした演技や画の撮り方がない。全員が真剣に取り組んでいるからこそ「変だ」と確信をもって言える画作りを徹底しているからこそ、登場人物たちはふざけた行動を一切取らない。観ている我々が「ふざけている」と笑いながら言うために徹底されているのだ。
 これはフランク・ドレビン演じるレスリー・ニールセンがあくまでハードボイルドな役に徹しきる『フライング・コップ 知能指数0分署』(原題:police squad!)の手法に近い。どれだけふざけた状況が眼前に広がっても彼らはそれに突っ込まない。あたかも普通の光景であるかのようにふるまう。
 だからこそ我々視聴者は「おいおいそれはないだろう」「なんでお前たちは誰もつっこまないんだ」と二つの方向性でツッコミを入れる、良質なコメディ映画が完成しているのだ。

 特に昨今「政治・宗教・野球」の話は喧嘩の種になる、という言葉からも分かるように、野球を取り扱えば取り扱うほど作品の粗を指摘する時代に入った。元来一部のシネフィルやマニアがやっていたことをSNSという情報発信媒体から一気に埋め立てるような時代になった。
 だから野球を取り扱う作品は非常にセンシティブになる事が多い。それゆえに「微妙に本格的で、作者が野球好きってことだけはまあまあ伝わってくるけど、それ以上の面白みも雑味もない、コンビニのお弁当のような野球漫画」が多かったのは事実で、漫画や映画ですら常に野球的整合性を求められる時代に突入している。

 この「野球どアホウ未亡人」はまるでそれを逆手に取ったかのような作風で一時間を突き抜けていく。
「野球のこと知らなくても野球映画作れるんですよーん」
と笑い声が聞こえるかのように。

 それが昨今の過熱した野球に対する意見の応酬がなんだかバカっぽいと思えるほどの清涼感を感じさせるのだ。いつの間にか我々は野球を正座して観るようになっている。野球道は現場から消えているかもしれないが、一方で我々観客席側の住人には強固すぎるほどの野球道が形成されつつあることを実感する。
 それをあざ笑うかのような映画だ。
 球審がグローブ(もちろんキャッチャーミットなんて高価なものはない)をもって捕手もしたり、投げていたものが硬式球だったのに打ったボールは軟式球だったりしても、野球はきちんと映像化できる。野球の体裁は整えられるんだ。
 と言われているような気がしてならなった。
「好き」だけでは縮こまった作品しか生まれない。全く知らないからこそ驚きのあるものが生まれるのだ、と言わんばかりだ。それこそ野球を知らないのに原作をすることになった、おそらくこの映画の参考文献になったであろう「巨人の星」が如く。

 よく野球界にいる人は
「野球にかかわらない人の声を」
というが、まさにこの映画のような人の言葉が必要なのではないか。

 この映画は言ってしまえば
野球に興味ない人が野球好きに無理やり野球漫画を読まされた感想文」「映画が好きな人が野球好きに無理やり作らされた野球映画
を映像化したようなものであり、興味ないからこそ冷たい視線で「そうはならんやろ」と冷静につっこんでいる。だから悪意にも近いリスペクトがあちこちに転がっているのだ。
 むしろ「野球?知らんし」の塊がそこにある。

「野球に関わらない人の視点」を追体験できる映画なのだ。
 世の中野球に興味ある層より興味ない層のほうが圧倒的に多い。大谷翔平の活躍は知っていてもエンゼルスは誰が活躍して誰が決め手となって勝敗したかを知る人が少ないのと一緒だ。
 そちら側の住人の視点を知ることができる。

 だからこそ、野球好きほど見てほしい映画である。
(私含む)お前ら野球好きは一般人に大なり小なりこう見られている
ということを知れる数少ない映画の一つなのだ。なにかに狂信的なことはそれだけで滑稽。それを描いたからこそシュールな笑いが全編に広がっている映画なのだ。

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