正義の佐々木朗希、悪の白井一行という群集心理 ~正義の制裁とこの騒動の犯人~
4月24日における千葉ロッテマリーンズ佐々木朗希投手と球審白井一行審判の話題が世間を騒がせている。20歳の佐々木投手が出したカウントへの不服判定に対して白井審判が試合を止めて佐々木投手を咎めに行く、という事がここ数日の話題となっている。
基本は白井審判の大人げなさを指摘している風潮である。
しかし、私はこうも考えている。
この世界で何年もやっていて、それも一軍で球審をやるほど責任の強い立場にいる男が意味もなく怒るものか、と。
なので一度試合文脈から考察をしなければならないと考えた。
そのため仮説ではあるが、なぜここまで話題になってしまったのかを検証してみたい。
人間は意味なく怒らない。かといってそこに至るまでの関係性というのはかなりいびつだ。それを少しでも解きほぐす一助になれば幸いである。
1,佐々木朗希を取り巻く環境
4月10日の完全試合達成及び17日のノーヒットイニング継続にかけて世間が非常に取りざたされる事態となっていたのは事実であろう。
彼自身も4月11日の記者会見で夜から今にかけてやっと実感がわいてきた、と感じているように自分への自信よりも出来たことへの驚きの方が強いようだった。(「少しずつ実感がわいてきた」佐々木朗希 完全試合から一夜明けコメント/youtubeより)
一方で気になったのは「切り替えないといけないと」という言葉である。
佐々木投手本人にしても切り替えが必要でありながら切り替える事が出来ない状況であった事は言えそうだ。
一方でメディアの佐々木朗希登場への熱は加熱傾向にあり、17日はテレビ東京が、24日のカンテレが緊急放送を行っていた。言い返せば、それは視聴者が彼の活躍を期待しており、それが視聴率につながると判断しての事だろう。
このような過剰すぎる期待感があった事は間違いなさそうだ。
実際17日はそれに応え、8回までとはいえパーフェクトピッチングに抑えている。結果としてはチームの敗北であったが、そういった実際の試合結果とはよそに佐々木朗希への期待が高まっていたことは間違いない。
ここからは想像だが、恐らくこの異常すぎる事態を佐々木投手は知っていたのではないか、というよりは逃げられなかったのではないか、と感じられる。
今やテレビや新聞をつけなかったら情報が遮断できる時代ではない。スマートフォン一つあれば否応なしに自分の記事や話題が見えてしまう。自分にかかっている過剰すぎるバイアスに本人も何かを感じ取っていたのではないか、と筆者は考えている。
少なくとも世間にかかる期待に佐々木投手は真っ向受け止めなければならない状況で、それに対してメディアすら動かしている事態だとのしかかるものもすでに大きくなっている。
恐らく日本中にいる20歳の青年には重すぎるほどの期待を背負わされる状態にあった。
その中で好調なピッチングが続いていた事を考えると、恐らく逃げ場がなかったのではないか、と推察される。
2,佐々木朗希にとってのオリックス・バファローズ
一方で24日の対戦相手がオリックス・バファローズであった事も関係があったのではないだろうか、と考えられる。
例えば杉内俊哉投手が2004年6月1日、ロッテ戦で両手骨折。これは一説には投手にアドバイスを求めて気楽に構えていたらいい、という意見を受けて2回7失点で降板した事に耐えられなくて、と言われている。
該当の事は裏付けがないのであくまで参考程度で読み飛ばしてもいいと思うが、杉内投手の初勝利がロッテであった事(日刊スポーツ)を加味すると、どこかで安心できる相手として見ていた可能性はありそうだ。
2003年の成績を見てみても、4勝2敗。他の登板は勝敗が消えている事もあり、得意とまではいかなくとも苦手意識というのは弱い方だ。絶対的な自信というほどではない、くらいの見方がよさそうだ。
このような得意苦手という意識が生まれるのは人間でもよくある話で、完全試合を達成した佐々木投手には「得意とまではいかずとも前回の完全試合があった事を考えれば落ち着いて投げられる相手ではなかろうか」という気持ちがあった可能性がある事は示唆してもよい。
ただでさえ完全試合の感覚が残り続けているタイミングで、ノーヒットピッチを繰り返してしまった事によってそれを継続してしまっている。
過剰すぎるとまでは言わないが「次も大丈夫」という過信があったのではないか。
世間から降りかかるプレッシャーを打ち消すために取ってしまった思考とも取れなくもない。プロ3年目とはいえ、まだシーズン通して投げた事のない投手だ。ただでさえ20歳という年齢で、確固たる柱がまだ作り切れていないことを考えるとそういう思考判断に行きつくのも納得できる。
そのような渦中で登板している事は考えてもよいであろう。
そう考えれば17日のパーフェクトピッチ継続は佐々木投手において重い鎖になっていた可能性は十分に考えられる。気が抜けない状況にあった。
3,当日
しかして完全試合をされたオリックスは逆襲に燃えていたと言わざるを得ない。
「彼の一番いい球を見られた」と完全試合後コメントを残した福田周平がストレートを迷わず打ち返しヒット。ノーヒットピッチは17イニングにして止まった。
この後も紅林弘太郎、吉田正尚が立て続けにヒット。その回は得点こそなかったものの佐々木の考えていたものは一気に崩れた。
「なんとか安心して投げられそうなオリックスに」「それも立て続けにヒットを許して」
これが思わず態度に出ていたのではないか。
それは世間があまりにも過剰すぎるほど乗せられたプレッシャーに20歳の若者が潰されてしまいながらもあがき、それが不満そうな態度に、本人が意図する以外のところで出てしまったのではなかろうか。
そういう意味では白井一行審判は悲劇である。
そのもがき苦しむ姿が「自分のジャッジに対する不満」と捉えられてしまった。多少短気な気質はあるが彼もプロの審判である。ジャッジ一つ一つに強い責任を追及され、時にファンから強い罵声を浴びせられる。だからこそ気丈であるべしと現在までの気持ちを支えているのだろう。
そんな中、杉本裕太郎が盗塁を決め、佐々木投手はそれを許してしまった。ラオウというあだ名と共に打撃の印象が強い杉本選手であるが、元々俊足強肩を売りにして糸井嘉男(現阪神)二世を目指せると言われた選手。現在のイメージからは意外だったかもしれない。プロ入り以降盗塁をほとんどしていない事から尚更だ。
そうなると大きな柱のない20歳の頭の中はぐちゃぐちゃになる事は想像に難くなく、苛々して不満そうな表情を出してしまったのだろう。
その流れで、今回の事が起こった、と考えれられる。
プレッシャーに押しつぶされてどうにもならない状況に苛立っていた佐々木投手と、球審という過酷な立場で気丈にしておかねばならない白井審判がすれ違いぶつかっただけの話なのだ。
4,なぜこうなったか、その原因
今案件はここばかりがクローズアップされてしまっている印象がある。
結果だけ見てしまえば6-3でロッテが勝利しており、この試合の中ではあの光景は些末なものであった、という事である。
ここで問題とすべきは二人の小競り合いというよりは現在の取り巻く言論である。
何故ここまで大きな話題となってしまったか。それは間違いなく佐々木朗希という存在にメディアや取り巻く周囲が過剰すぎる期待をかけているからに他ならない。フォロワーの言葉を借りれば「佐々木朗希のヒーロー化」が顕著に表れているのだ。
完全試合をなし、パーフェクトピッチを続け、将来は大物選手として開花していく、というストーリーラインを誰もが望むあまり、それを止めようとする姿に過剰に批判的な態度になっている。
何故こう思うのかというと、例えばこれが同じくロッテの投手、二木優太であればこれほどの騒ぎになっていたのか、という疑問があるからである。
恐らく野球ファン同士の間で「また白井と選手が一触即発になった」と思うくらいでこれほど激しいバッシング合戦になっていたのか、と言われたら疑問が出る。
元々白井審判は短気な性格かつ不遜な態度をとりがちなのはプロ野球を知るファンほど知っており、たびたびそれを扱われる。
そういう意味では白井審判はいつも通りであっただけなのだ。
今日急に批判されているのも珍しいほどだ。昔から批判されていないと言えばそれも違うのだが。
それをあらゆる角度から騒ぎ立てただけ、という方が事実として近いのではないだろうか。
いわばこの騒動の犯人は、この二人でもチームでもなく、過剰すぎる期待をかけ、その期待を破りそうな要員たるなにかに、それこそ佐々木投手に乗せていた過剰すぎる期待をおっかぶせる形で審判に投げた、激しい攻撃性を有した群集心理そのものだ。
「ヒーロー:佐々木朗希」をいじめる「ヴィラン:白井一行」というイメージを共有する事で、一体感を覚えてヴィランを徹底的に攻撃し、ヒーローをかばう。
この行為によって非常に強い快感を得て、それを助長していくのだ。
これは中野信子氏のいう「正義の制裁」の体現と言って差し支えない。(他人を許せない正義中毒という現代人を蝕む病 攻撃対象を見つけ罰することに快感を覚える/東洋経済オンライン)
つまり「ヒーロー:佐々木朗希」を奉る事でそれを応援する、悪い言い方をすれば虎の威を借りて、気に入らないと感じたものを攻撃する、正義の制裁体質がこの事件を大炎上の事件にしてしまったのだ。
ヒーローの活躍を阻む相手は、それも態度が不遜であればあるほどヴィランとして扱いやすい。そして「相手がヴィランだ」という共通認識を得る事によって過剰すぎる攻撃的な体質に切り替えるのだ。
そしてメディアはそれを煽りに煽る。なぜか。彼はヒーローにあだなすヴィランであるから。そしてその正義の制裁を楽しむ世論に従えば自分たちの利益になるからである。
それゆえに誰もが切り取られたワンシーンだけを見て、義憤を興し、共有する仲間と共に「正義」という錦旗を振りながら徹底的な制裁をする。
あのシーンは正義のヒーロー佐々木朗希と悪のヴィラン白井一行と煽るには簡単すぎた。それに煽られた人々がその前後関係を無視してヴィランを攻撃する事に邁進したのだ。
それは「自分の思っている事は正しい。だから制裁も許される」という気持ちと制裁をした時に出てくる快楽物質をより多く求めるために。
つまり、本当ならばどうでもいいのだ。正義と悪だけが整っていれば。
そうでなければ、私が書いてきたつまらない妄想のようなものを生み出せるのだ。
普通ならば、
「どっちが悪いか」
なんてことを状況証拠すべてが整っていないのに考えない。
「何が起こって結局こうなったのか」
を分析するのだ。
その後に「誰が原因で誰が悪かったか」と結論をつけるのだ。
普通ならば。
5,正義と悪と快楽、という群集心理
そういう意味では今案件は野球を離れ、群集心理とその影響を知る事が出来る最も分かりやすいケースであったと言えよう。
佐々木投手がどういう状況であったか、白井審判がどうであったか、という疑問は必要ないのだ。
佐々木という正義と白井という悪があれば十分だったのだ。
だからここまで過剰すぎる、もはや批判ともいえない白井一行への罵倒が広がり、過剰に正義としてもてはやされる佐々木朗希という姿が浮かび上がってくる。
本人たちにしてみれば、この騒動における前後、お互いがどうであったかなど知る由もないのに。
正義と悪、必要なパーツが整ったため、あとは快楽のままに悪を滅ぼす。
誰かの発言を利用し、時には茶化し、罵倒という目的さえ達成できればそれで充分なのだ。
それがこの騒動の正体である。
6,実はこの一件で改めてプロ野球が好きになった
個人的にだが、この二週間様々な感情を抱いた佐々木朗希という投手に対してやっと私は好意を寄せられるようになった。
あまりにも彼の才能がクローズアップされすぎて、それが肌になじまなかったのだ。
それが今回の件を得て、どれだけ才能があってもやはり彼は20歳の青年で、色々なものが形成できていない。
それが20歳であることや、もし仮に自分が20歳の時、彼の立場に置かれていたらどういう気持ちになったであろうか、という事を考えるようになった。
そう考えると、まだまだ世間や世界が分からないからもがきながら苦しんでいる20歳の青年の姿がそこに見える。
改めて、佐々木朗希はヒーローでも怪物でもなく、人間で、それも20歳の多感な若者であることに気付かされる。
一方で白井一行審判にも好意がある。
彼は試合後、騒動に対してコメントをよこさなかった。
それは言い返せば自分の仕事に矜持があり、その異常すぎる高さを求められるほどの責任ある仕事をしている事が見えてくる。それに対して自分の行動を評価するのは行動だけであり、それを何ら言い訳しない。それこそが彼のプロ野球審判としての流儀なのだ。
それは時には横暴に映るかもしれない。事実短気であるのは私も感じた。だが、言葉一つ上げ足を取られる世界であり、なにより佐々木朗希という投手を特別扱いせず、一人の若手投手として扱っているからこそ、いつもの姿で接したとも捉えられるのである。
世間がどう彼を扱おうが、プロ野球選手の一人でしかない。
その姿がよく映って、彼もまたやはりプロ野球の審判であると感じさせられるのだ。
その古い頃にいた審判のような、無骨さと不器用さが、いじらしいほど愛しく感じられる。
やはりプロ野球は人が行うから愛しいと覚えたのだ。
だからこそ私は
「どちらかが悪い」
ではなく
「どちらも正しく、どちらも悪いのではないか」
という視点からこの物語を記載した。
これが何かの一助になればと考える次第である。
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