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三冠王タイ・カッブから当時の野球を観る

1,ある一人の三冠王

9本塁打。
この一要素から読者はなにを思いつくだろうか。
ホームランは打てるけど主砲というほどではない、下位打線を任せると面白い、主砲というほどじゃないけど上位を守ってそう。
こんなところか。

さらにここに107打点、という単語を加える。
すると一転してホームランは少ないがここぞでの打撃は上手い打者なのではないか、というイメージがわいてくる。打撃職人川上哲治のようにとてつもなく速いライナーがぐいんと飛んでいき、外野のフェンスにバチンと当たるような、そんな三番辺りを打っている強打者、というイメージだろう。

そのイメージは間違いでもなく、打率は驚異の.377。
ここでカンの言い方は近年の選手ではない事に気付かれるだろう。近年では.350を超えてシーズンを終えるのもまれだ。つまり古い選手である事がわかる。前述した川上哲治のような「素晴らしかった選手」ではなく「何かを語られる際、必ず名前が出てくる、という意味でのレジェンド」というたぐいの選手だ。

それが決定づけられるのがこの年の彼は三冠王だ、という事だ。
打率、打点はとかくにせよ本塁打が10を切った中で本塁打王になるのはアメリカでは1920年以前、日本では1シーズン時代とかなり少なくなる。
つまり本当にレジェンドと言っても差し支えない。

そして彼はこの年、76というとんでもない数で盗塁を決めて盗塁王を取っている。
ここでやっと誰かがわかるだろう。これだけの打撃タイトルを獲得した選手はタイ・カッブとチャック・クラインしかいない。チャック・クラインは一桁本塁打で本塁打王になった事はないから、自然とここでこの成績がタイ・カッブのものだと気付かされる。

.377、9本塁打、109打点、76盗塁

今の時代でも通用する事が想像できそうな化け物。
それがタイ・カッブなのである。

2,タイ・カッブといえば。日本でよく知られる一枚から

日本でタイ・カッブといえば一枚の写真が思い出される。

日本でタイ・カッブと言えば、という一枚。球聖をもじって野球の畜生、球畜と呼ばれる一端

この写真を2ちゃんねるなどで見た事ある方も多いだろう。
しかしどの試合でやられたものなのかを知る人はほとんどいない。

この写真は1912年5月4日、セントルイス・ブラウンズの捕手ポール・クリッチェルに対して行われたものである。ちなみに英語版wikipediaでポール・クリッチェルの項目を出すとこの写真が出てくる

ちなみにこのシーンでは

“The ball hit the grandstand on the fly. I was mad and stunned. Cobb was mad and shaken. In a way it was really my fault. I was standing in front of the plate, instead of on the side, where I could tag Ty as he slid in. But out of that mix-up I learned one thing: never stand directly in front of the plate when Cobb was roaring for home.”

英語版wikipediaより

「打たれた事に怒り狂っていてホームプレート上に突っ立ってて位置が悪かった。そのためホームに入ってくるカッブにこのまま突っ込ませる形になった。基本的に俺が悪い」
と完全に自分の責任と1957年コメントしている事が記載されている。
ちなみに試合はブラウンズが10-8で勝っているものの、クリッチェルは怪我などでこのシーズン以降メジャーに姿を現していない。(Paul Krichell/baseball referenceより)
ただ、その後はヤンキースのスカウトとして37年関わっている。

3,1909年のデトロイト・タイガース

さて、最初に書かれた数字はいつの頃のものであるかご存じであろうか。
これは1909年に記録したものである。100年以上前の成績がいまだ残されているというのもすさまじいものであるが、これは彼が22歳の頃に出した記録である事を付記しておきたい。

この時のデトロイト・タイガースは通算三塁打記録309を持つワホー・サムことサム・クロフォードとエース、ジョージ・マリンの二人が柱となり、そこに期待の新星としてタイ・カッブが暴れる構図となっていた。

この時のサム・クロフォードも.314、6本塁打、97打点、ジョージ・マリンも29勝8敗、防御率2.22と大暴れし、アメリカンリーグを優勝に導いている。
その中核に22の若きスター、タイ・カッブがいたのだ。

そしてまたショートのダニー・ブッシュがこの年から入ってきたのも大きい。
日本ではほとんど無名と言っても差し支えない選手だが1908年にメジャーデビュー後、21歳の1909年に二番ショートで起用。.278、53盗塁と暴れている。
それだけならまだ期待の若手程度であろうが、このシーズンいきなり四球が88とかなりの選球眼を見せている。この後シーズンを通して三割を打つことはないもののシーズン一位の100四球を連発、1804安打、406盗塁、四球選択数1158という記録を残している。

これでもフライング・ダッチマンと呼ばれた大型遊撃手、ホーナス・ワグナーが中心のピッツバーグ・パイレーツにワールドシリーズを敗北したのだからスター揃いが必ずしもチームの完全勝利に導かれないのが野球の面白いところだろう。
この時ワグナー35歳、若きカッブがチームを引っ張るには若すぎたのかもしれないし、老練のワグナーが引っ張ったチームだからこそワールドシリーズを制覇出来たのかもしれない。

4,1909年のアメリカン・リーグ

ではこの年デトロイトだけが輝いていたのか、と言われたらそうではなかったりする。

アメリカンリーグでのチーム本塁打数は何位かご存じであろうか。
三冠王タイ・カッブがいてサム・クロフォードがいるから当然一位かと思われがちだが実は三位である。

一位は現在オークランドに本拠地を構えるフィラデルフィア・アスレチックスであった。
個人のホームラン数はライトのダニー・マルフィが放った5本なのだが、サードのフランク・ホームラン・ベイカー、ファーストのハリー・デービスが4本、セカンドのジミー・コリンズが3本と暴れまわっている。ここにショートのジャック・バリーも1本打っていた。
この四人が揃うと野球史が好きな人はピンと来るであろう。
いわゆるフィラデルフィア・アスレチックスのコニー・マック率いる10万ドルの内野陣時代である。
エースに300勝投手エディ・プランク、200勝投手のチーフ・ベンダーもいて強さが垣間見える。
シカゴに行く前のまだ活躍していないシューレス・ジョー・ジャクソンも控えにそっといる。
まさにアスレチックス黄金時代であるのだ。

アスレチックスのチーム本塁打が21に対してタイガースの本塁打が19。そのうち15がカッブとクロフォードであることを考えると二人の存在が際立ってくる事がわかる。

ただ、一番驚くべきなのはリーグ平均本塁打が14に対して三塁打のリーグ平均が62である事だ。
実際タイガースも58と陥落、ただしアスレチックスは88と化け物じみた成績を残している。ベーブ・ルースが来るまでほとんど存在感のなかったヤンキースの前身ニューヨーク・ハイランダーズに負けている(61)こともなかなか驚きである。

一方で盗塁数が二位のボストン・レッドソックスの215を大きく引きはがし280ととんでもない成功数を誇っている。
この頃のレッドソックスはサード、ハリー・ロードを中心に期待の新星トリス・スピーカーが出てきた頃。のちにフェン・ウェイパークを彩る「100万ドルの外野陣」が本格的に表れる黄金期前夜。ハリー・フーパ―も控えにいる事からまだ伸びあがる直前という感じだ。

ちなみになぜこんなにホームランが少なく三塁打が多いかと言われたらこれは球場の問題もあるだろう。
例えばレッドソックスの本拠地は現在のフェン・ウェイではなくハンティントン・アヴェニュー・グラウンズであった。
センターが635フィート、つまり193.5mあり、レフトが350フィート(106.7m)、ライトが320フィート(97.5m)ととんでもない広さである事からも想像できよう。
タイガースもタイガースタジアムことネヴィン・フィールドに変更したのが1912年。以前のベネット・パークは球場のデータが残っていないものの10フィートのフェンスがあった事からそこそこ広い事が想像できる。

当時は野球専用のスタジアムというものが想定されておらず、広大な広場の中に野球をやるスペースがあった、という考え方の方が自然で、それゆえにホームランよりも三塁打の方が出やすいという部分があるだろう。1910年代にフェンウェイ・パーク、タイガースタジアムなどが建設されて行くのは木製で作られていた球場を火事対策として鉄筋にしていっただけではなく、野球専用、または野球をやる事を意識した「ボールパーク」の概念が本格的に台頭してきたという見方の方が正しい。
それが完成した時代こそ1920年代のベーブ・ルースと狂乱のアメリカであろう。

つまり三塁打の存在はこの当時でも想像以上に大きい。
「ホームランは走るのが嫌な選手が打つ怠惰なもの」という逸話のような言葉が残されているように、当時の野球は走って飛びつき、時には激しいプレーも辞さないというような今のアメリカン・フットボールのようなスポーツとして見られていた事も想像できる。
1909年と現在の野球は観方そのものが違うのだ。

チーム安打数はタイガースが1360安打と一位。
ここで1909年のデトロイト・タイガースの強さがタイ・カッブ、サム・クロフォードをポイントゲッターとした俊足巧打のチームであった事がわかる。
というよりは「打てて走れるチーム」が強かった。ある意味1900年代にナ・リーグで生まれたスモールボールとは反対の存在であったように思う。

5,暴れん坊のデトロイト・タイガース

最後にタイ・カッブの守備の話をして終わりにする。
この年のタイ・カッブの守備率は.946。捕殺24にエラー24と平凡なものだ。下手とは言わないがうまいとはお世辞にもいえない。かといって強肩を示唆できるものもない、という感じだ。
足こそ速いものの守備の名人ではなかった事が記録から浮かび上がってくる。センターやファーストを兼任し、平均して.960台に収まっているサム・クロフォードの方がよっぽど守備に貢献している。センターに関しては.961だ。

チーム内でのエラー一位は文句なしのダニー・ブッシュで71エラー。当時のグラブの質が悪いことを考えると否定するほどでもないが、それでも多い。平均が20前後で70エラーは期待の証か、もう見放されていたか。
選球眼は守備では活きなかったか。なお、16シーズンで通算704エラーを叩きだしている。アスレチックスのジャック・バリーが11シーズンで347と考えるとやはり多い。

そういう意味では守備は映えないチームであった事が容易に想像できる。
実際激しい打撃と走塁が見ものな、それこそ観客の喜ぶ野球を展開していたのだろうし、一方で守備は観ても観なくてもいい、というような野球をやっていたことがうかがえる。

晩年タイ・カッブはフィラデルフィア・アスレチックスにいっているが、彼はここでコニー・マックの野球を学べる事を喜んでいる。
それは乱雑ながら力強い野球をやってきたタイ・カッブが走攻守すべてを魅了してきたフィラデルフィアの野球に憧れがあったとも、学びがあったとも捉えられる。
改めて野球に対しては一途さが伺える選手だ。


誤解されがちな選手であるが、元来笑顔の似合う頑固者だったように筆者は思う

そんな激しい時代の三冠王がタイ・カッブであった。

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