名のなき男達の聖地、都市対抗野球大会
1,都市対抗野球大会予選始まる
各地で社会人野球の祭典、都市対抗野球大会が始まっている。関東ではほとんど一次予選を終えて二次予選が始まろうかとしている。
高校、大学などでプレーをしてきた社会人が東京ドームを目指してボールを追いかけている頃だ。
二次予選になるといわゆるクラブチームから企業が抱えている企業チームとの戦いになっていく。ドラフト候補などを観に行きたい諸氏はこの辺りから動き始める人がほとんどであろう。大企業が多くの高校野球、大学野球リーグでの有望選手を集める企業チームはやはり魅力的だ。
しかしクラブチームというのも魅力的である。
企業チームの選手はいわば「企業から金を貰って野球をしている選手」である。勿論企業チームによって違いはあるものの、しっかり営業をこなしてやるチームもあれば一週間のうちに仕事のうち半分以上が野球の練習というチームもある。こういう体制もあって近年企業の個人に対する福祉の考え方が変わりつつある企業では休廃部が非常に増えているのも問題だ。
一方でクラブチームは協賛企業などもあるものの基本的には「個人が金を払って野球をしている選手」がほとんどである。意志を持ったうえで、自分の業務や休みなどをやりくりしながら自分を鍛えている選手が集まる事がほとんどだ。
選手としての能力は確かに企業チームに勝るとは言えないが、この野球に賭ける情熱もまた社会人野球の魅力を彩っている。特に独立リーグの誕生で独立リーグ引退後の選手がアマチュアでのキャリアとしてしっかりやっていきたいと思った際の受け皿になっているチームもあるほどだ。
そんな様々な選手の思いが交錯する一年の始まりが五月の都市対抗野球大会予選である。
2,なめるなかれクラブチーム
今更企業チームのあれこれを語る必要はないだろう。ドラフト好きや大学野球などから選手を追っかけている人にはもう様々な情報が回っているだろう。選手だけでなく多くのファンもあちらこちらに移動をしている。
面白いところではあるのだが、社会人野球は企業チームのファンが多いというイメージもあるが、決してクラブチームのファンがいないというわけではない。
それは選手を追っかけているファンがいたり、協賛企業などの身内というのも大半ではあるが、一方で「TOKYO METS」のようにプロ野球チームの応援団が興したチームもある。特に前述するチームでは数年前に元ロッテの選手であった愛甲猛氏をコーチに招聘したこともあって一躍話題になった。
また、漫画ドラフトキングでは同じく東京のクラブチームである「ゴールドジム・ベースボール・クラブ」に取材したであろうクラブも出た。SNS普及も手伝ってか、クラブチーム野球部の存在が見直されるような時代になりつつある。
ドラフト候補などが出る事が稀なこともあってまだまだスポットライトが強く当たるわけではないが、じわりじわりと光が当たり始めているのがクラブチームの野球部であるのだ。
3,クラブチームで戦う選手、監督
私もSNSを通じて多くのクラブチームの選手に触れる事が出来ている。
例えば選手で言えば57歳にして「DBグラッズ」の現役選手。この記事を書いている際に知ったのだがwikipediaで自分の記事を持つ沢田誠選手などは色々教わる事が多い。京大のホーナーという名前をいただいているとは知らなんだ。(ちなみにDBグラッズのホームページは流石というかなんというか、選手の成績など載っていて面白いのでぜひ一度ご照覧あれ。60歳でも選手登録してる人もいるんだ……)
監督としては自分の人生訓だけでなく自分の疑問などを投げかけ、遂に今年都市対抗野球神奈川予選では惜しくも準決勝で敗退したものの神奈川の強豪にして都市対抗野球大会に出場した歴史も持つ神奈川クラブチームの壁でもある強豪横浜金港クラブを破った横浜ベイブルースの監督、杉山雄基氏や、井出らっきょが筑豊嘉麻市に興したチーム、嘉麻市バーニングヒーローズの工藤亮祐氏などか。
(いや、特に懇意じゃありませんよ。って思っても紹介も兼ねているので水に流してください)
様々な人が野球に対して考え、どうやって野球人生を全うしようか考えている。
表現の仕方はそれぞれだが、自分の中で自分の野球を昇華しようと日々を過ごしている。それを観ている度、私は観客ではなく、一人の人間として諸氏の背中から放たれている道筋をじっと見つめている。
4,男たちの声なき声
彼らの声を聞くたびに私は改めて色々な事に気付かされる。
どうしても我々のような観客席から選手を見る立場になってしまうと選手たちをモノか数字かで見てしまうきらいがあるのだ。
「今打席に立っている彼は〇〇高校を出て、打率〇〇で、こういうコースが得意で~……」
この時ふと私は自分の中で選手にレッテルを貼る事で分析しようとしている自分がいる事に気付くのだ。
勿論それは悪い事ではない。プロ野球に行くような選手の大半はその貼られたレッテルの枚数によって決まるところもある。いいレッテルの枚数が多ければ多いほど強い意味を持つ。
しかしクラブチームの試合を観たり、そういう方々とコミュニケーションを交えるようになって考える事が増えた。
「果たしてその多くのレッテルを貼る行為が彼らの重要な、かつとても見えやすい本質を見落としているのではないか」
という疑問が芽生えるのだ。
確かに我々は評価するのは簡単だ。
「あいつは高めが苦手」「あいつは左投手に弱い」「あいつは……」
それは誉れでもあり、我々観客が試合を観るために少しでも楽になる情報でもある。数字が伴えば尚更の事だ。今は回転数がいくらあればいいとか、この角度から打ち出せばフライになるとか、色々出回っている。
しかしその中で零れ落ちるちょっとした表情や、ちょっとした変化に気付けていないのではないか、という疑問があるのだ。
「この選手は高めが苦手。ではなぜ彼は高めが苦手なのか」
「あの選手は左投手に弱い。とはいうが違う見方をすれば違う見え方をするのではないか」
こんな、数値化された野球の中で見失ってしまった事を改めて教えてくれるのだ。
人間は様々な経験や得てきた知恵の中から自分らしいものを演出する事に邁進する。
それはこの場で文章を書いている私もだ。
そんな長短を改めて感じさせられるのが彼らクラブチームで野球をする、いわば声なき声の集まりなのだ。
「才能」とか「数字」で簡単に押しつぶしてしまうのは簡単だ。だが、それは我々が今の社会で最もやられている事であり、それをどう吐き出すかという場面に至って自分の知らない他者に押し付ける時、それは全く同じことをしてしまっている。
そうやって押しつぶされている際、我々は一度でも思ったはずだ。
「数字以外のところを見てほしい」「自分はこれだけ頑張っているんだ」
これを知らないうちに誰かにしているのだ。
そうではないことを私は教わっている。
その度に試合に行くと新たなことを教わる。選手の表情。自分への鼓舞の仕方。それに対して他の選手たちはどうアプローチするか。そんな人間の集団がプレーしている世界であることを改めて思い返せるのだ。
声なき声は私にとって野球が「人間のやるもの」である事を再確認させてくれる。
そんな自分と近いからこそ何かを得る事が出来るのがクラブチーム野球の魅力であると筆者は考えている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?