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アーロン・ジャッジ62号からロジャー・マリスを思い出す

1,ジャッジ、マリスの記録を破る

ニューヨーク・ヤンキースの主砲アーロン・ジャッジが現地時間10月4日、アメリカンリーグのシーズン記録を塗り替える62号を放った。
1961年のロジャー・マリスから数えて61年という長い時期を踏んでの記録達成であった。

メジャーをしる多くの人がジャッジの功績を喜んだ。
遂に薬物を使わないナチュラルな選手が60号を打った、というのだから。伝説の立ち合いが叶ったと言っても差し支えない。

ここで私のような野球史を触れていた人間からするとふとロジャー・マリスの事を思い出す。
メジャー史でこれほど蔑まれたシーズン本塁打王もいまい。
ベーブ・ルースの記録を抜くことはすなわち神への冒涜とまで言われた彼の生涯を考えずにはいられなくなるのだ。

2,マリスのいた61年ヤンキース

意外な事だがロジャー・マリスが本塁打王を獲得したのは1度きりである。
そう、61本を打った1961年だ。

彼はヤンキースに入る前はクリーブランド・インディアンス、オークランド・アスレチックスに在籍しているのだが三年間で58本しか打っていない。
平均して19.3本。一発に期待できるが本塁打王は、というような存在であった。
打率もニューヨークに移籍する1959年に.273を記録した程度で.250前後がメイン。1959年にオールスターに出場したことだけが売りの、どの時代にも一人はいる名選手ほどではないが当時を知る人には懐かしく感じられる程度の選手であった。

しかし彼がヤンキースにトレードされた後から活躍をしていく。
トレードに出された1960年には39本塁打と本塁打を量産。打率も.283と一気に主力にのし上がっていく。一位の同僚、ミッキー・マントルと一本差であった事を考えると彼がスターダムに上った事を感じる事が出来るだろう。
この年MVP、GGを受賞するなど大活躍であった。

そのようなタイミングで迎えた1961年。突如61本塁打という大きな記録を作る事になる。

意外な事にこの年のマリスの打率は.269と高いとは言えない。打数590に対しての61本だから、パーセンテージ換算すると10.3%
ヒット数159であるから平均化すると38.3%という異常な確率でホームランを放っている。
つまり10打席に一回、そのうちヒット4本のうち1本はホームランと考えてもいい。異常な本塁打率を叩きだしている。
バットに当たればかなりの確率で芯に食わせている、という事になる。61という数字も圧巻だが、61年の彼がどれだけ長距離砲として輝いていたかがよくわかるというものだ。

ただチームで見るとセンターのミッキー・マントルが54本、レフトのヨギ・ベラが22本、ファーストのビル・スコーロンが22本、キャッチャーのエルストン・ハワード、ジョニー・ブランチャードが21本と全体的に打ちまくっている年でもある。チーム本塁打数240本。勿論マリスの存在も大きいが、それだけではないという事は付記しておきたい。
ただ、このシーズンチーム本塁打数200を超えているのはヤンキースだけなのでいかにこの記録が化け物じみているのかは言うまでもない。

投手はホワイティ・フォードが一人奮闘しているくらいで他は目立っていないからいかにこのチームが打撃で勝利していたかがよくわかる。
そこの中核にマリスがいたと言ってもいい。

3,「真のヤンキースの一員ではない」

しかし、この61本塁打は多くの人によって迎えられたものではない。
外様かつクロアチア系移民の息子であった彼がシーズン本塁打記録を塗り替える事を快く思わない人は多くいたのだ。

ベーブ・ルースという存在がヤンキースにとって大きな存在であるのは言うまでもなかろう。ベーブ・ルース以前のニューヨーク・ハイランダーズからヤンキース黎明期にかけての選手を言え、と言われて出せる人は少なくないのと一緒だ。実際フィラデルフィア・アスレチックスから放出された晩年のホームラン・ベイカーや1890年代に活躍していたウィリー・キーラーくらいなものであろうか。
それほどマイナーなチームであった。
それを塗り替えたのがベーブ・ルースなのだ。
もし仮にベーブ・ルースがレッドソックスから移籍していなければもっとMLBは違ったものであっただろう。打者として使われるのはほとんど後年になろうし、なんならヤンキースはセントルイス・ブラウンズのように崩壊していた可能性だって十分にある。

アメリカの栄華を誇った1920年代、ニューヨークに現れた左打のベーブがヤンキースを、ひいては近代野球を作ったといっても過言ではない。
つまりベーブ・ルースはニューヨーク・ヤンキースの誇りなのである。彼なくしてヤンキースはなく、彼なくしてベースボールなし、なのだ。

そしてその記録はいつか塗り替えられるわけだが、それはヤンキースの四番であると考えられていた。
それは間違jいなくヤンキースの生え抜きで明るいキャラクターでメディア受けもよかったミッキー・マントルだった。
マントルがルースの流れを受け継ぎ、そしてヤンキース栄光の時代を牽引するものと誰もが思っていたのだ。

だから他球団から渡ってきた選手は主力となれどヤンキースの顔ではなかった。
特に今と違いFAなどもなかった時代。チームの顔、という存在は今以上に大きい。

その中で彼は61本を打ってしまった。
選手として幸せの絶頂でありながら、彼を不幸の底に叩き落す61本を。

「ミッキーではなくマリスがルースの記録を破った」
「.270程度の選手がルースの聖域に入っていいはずはない」

多くの批判が起きた。そしてマリス本人もマントルのように明るくメディアに接するタイプではなかったから尚更メディアは強く叩き、ファンもそれに続いた。
それどころかMLBコミッショナーのフォード・フリックはルースの生前彼のゴーストライターをしていた事もあってか「ルースの60本は154試合で達成されたが彼の61本は162試合で達成されたものだ。あくまで参考記録である」と彼の61の文字の隣に※をつけたのだ。

そうして彼は「新記録を達成した者」ではなく「ルースの聖域を穢した者」として扱われ続ける事になった。
その後怪我などもあり次第に成績は降下。
通算本塁打数275、とシーズン記録を抜いた選手にしては寂しい記録でメジャーを去っている。

4,62本を打たれて一番幸せになった男

後々に彼の権威は復活し、ヤンキースでも背番号9を永久欠番としたが、マリスはニューヨークの事を最後まで嫌っていた。
パンチョこと伊東一雄に「ニューヨークは嫌いだ」と呟いていた事からもそれは察せられるだろう。

だが、怒涛の90年、00年代を経験し、彼の放った61本塁打というのは輝き続けていた。
マーク・マグワイアやサミー・ソーサ、バリー・ボンズといった選手が薬物によって本塁打記録を塗り替える中、クリーンな体で打った61本塁打という存在は輝き続けていた。
現在のシーズン本塁打記録は未だに※をつけるかどうか議論がなされている。マリスは正当に打った61は※をつけられ、スポーツマンシップを失って打った彼らの数字にはいまだに※はつけられていない。

「ロジャー・マリスという選手はすごかったのではないか」

薬物使用による本塁打量産を通過したアメリカにはその空気がどこか漂っていた。そして彼を超えるスターが現れるのを待ったのだ。

そして2022年という半世紀以上を得て、ヤンキースの、それも生え抜きが彼の記録を抜いていった。それも大歓声の中。

その時筆者は思った。
「遂にマリスの背負った十字架が下ろされた」
と。

マリスという選手のすばらしさが再確認されながらもずっと「ルースの聖域を穢した者」の十字架を降ろせずにいた現在、ジャッジという存在が彼を抜くことでようやくマリスと61本という重荷を下ろす事が叶ったと思うのだ。

それは誰よりもマリスが求めた事であろう。
ジャッジの活躍によって、マリスは遂に「ルースの聖域を穢した者」ではなく「時代が作った本塁打王」に戻る事が出来たのだ。

そして61年間、クリーンな体で61本塁打という記録を守り続けたロジャー・マリスの傑出度を改めて再確認する事が出来たのだ。

マリスはすごかった。
そしてマリスを超えるものが遂に現在に出た。

恐らく今、マリスの魂は安らかに眠る事が出来るようになっただろう。
やっとルースの聖域に入ってくれる選手が現れたから。

だからこそ、ジャッジの62本は偉大であり、彼が来るまで61という記録を守り続けたマリスの凄さがわかり、彼を讃える事がMLBの大いなる血の流れに一つのピリオドを打つことが出来るのである。


そしてそのピリオドからMLBは新たな時代への第一歩を歩んでいく。

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