イチローの10回連続オールスター出場

自分の持ちアカウントの兼ね合いで日本に出場経験のある選手のオールスター出場回数を調べていたら中々に面白かったのだが、改めてイチローという選手の出場回数を見た時、驚きを覚えずにはいられなくなってしまう。

アメリカにとってオールスターは一日開催のため、選出される事がすなわち名誉と言われているのはよく知られるだろう。近年でこそ回避も見られるが基本的には出場する傾向にある。
そこには金銭では表せない選手としての名誉があるからであろう。尤もそれに伴う契約があるのかもしれないが。

しかし連続出場は非常に難しい。どんな大物選手でも数年に一度は不調を起こして飛び飛びになってしまう事の方が多い。
これがファン選出となると尚更で監督推薦などで出場を伸ばす選手は多いがファン投票の場合基本的に一位を取らねばならない。例外的に外野手は三位までだが言い換えたら外野手全員と戦うのだから厳しさは変わらない。

そんな制約の中、イチローは2001年から2010年の10年間、オールスターに出場し、そのうち9回スタメンとして外野の一翼を担っている。
少なくともイチローという選手がメジャーに於いて外す事の出来ない存在の一人であったのは間違いないだろうし、未だレジェンドたる所以の一幕ともいえる。

しかし私はこうも思った。
何故長打のない彼がここまで選ばれたのか。

アメリカは定期的に長打病にかかる事が多い。
野球の人気を取るために本塁打に過剰すぎるウエイトをかけ、野球人気を復興させようとするのだ。
これはベーブ・ルースといい、マーク・マグワイヤ、サミー・ソーサのホームラン王争いといい、彼らのホームランが多くのアメリカ国民や世界の野球好きを熱狂させた、という事実に基づくものだろう。
フライボール革命の登場などによってさらにその勢いが増長された。

マグワイヤやソーサ、ボンズのステロイド使用が疑われ、アメリカにおいてホームランとはなんだったのか、という疑問が生まれた頃に東洋の国からやってきた選手がイチローであった。その彼はクリーンなバッターと言われたケン・グリフィー・jrと共に人気を博していく。

しかしクリーンなだけでイチローは9度もファン選出されたのだろうか。
今回調べていて私はそう思えなかった。

私の私的な結論になるのだが、彼は打って走って守れるを体現した選手だからそこまで愛されたのではなかろうかと思うようになったのだ。

メジャーという舞台でイチローに足りないものを一つだけ挙げれば間違いなく長打力であった。
それはイチローという男が19年というシーズンの中で117本しか本塁打を打っていない事からも明白だ。
イチロー本人も狙えば打てるが、と言っているが、結果として彼は長打を選ばなかったのは間違いない。二塁打、三塁打も少ないからまさしく長打がなかった、というよりは長打を捨てた結果が彼の成績に反映されていると言ったらいいだろう。

しかし見方を変えたら一番打者でヒット打っておしまい、という選手でもある。チームに得点力があれば強大な力とも言えようが得点力がなければ塁に出て仕事した気になってる男である。事実シアトル時代の最後辺りはそのような批判は少なからずともあった。
そんな選手がなぜメジャーのトップ3外野手の一人に入れたのか。

そこに答えがあると思うのだ。

確かに本塁打は一瞬白熱する。
確実に点が取れるところも踏まえると一番ヒーローになりやすい。そのためホームランが打てる選手というのは丁重に扱われる。
そして多くの選手がそれを狙い、一瞬爆発的に活躍した後、何もなかったかのように姿を消していく。そのような新陳代謝の中で生き残った選手だけが大打者と呼ばれていく。

しかしその図式を当てはめるとイチローは入らない。
ヒットメーカーではあるが試合の決定打にはならない。ホームラン打者信仰のあるアメリカならなおの事彼のヒットなどどれだけの値打ちと捉えるか。

そこに我々の考える野球観と現実のギャップがあるように思えるのだ。

「盗塁は統計学的に見てあまり価値を持たない」
と言われるようになって久しい。事実イチローのような俊足巧打は減りつつあるし、5ツールプレイヤーの定義もホームランを打てて盗塁も出来る、というものに変わりつつある。
本塁打ありきの野球に変わりつつある。

しかし本塁打は一方で退屈だ。
打った瞬間の白熱はすさまじいが、打者がホームインしたときにはその熱も大分冷めている。ただ打ったという結果だけが残るのだ。
それゆえにたんぱくなのだ。

しかし塁に出て本塁に戻る、という行為には多くのドラマや駆け引きが生まれる。
投手や守備は走者をどうとらえるか、打者と走者との駆け引きをどう線引きするか。どうやったら最適解を求められるか。こういった数字に表れない攻防を何度も見せてくれるのがヒットや盗塁の魅力なのだ。

確かに本塁打に比べるとヒットには華やかさがない。
盗塁も本塁打に比べると地味だ。
しかしその地味さこそ野球に深みを与え、より面白いものにしているのではないか。
野球を考えるスポーツたらしめるものにしているのではないか。

そういう意味では未だに「一番〇〇塁に出て」と言っている日本の野球というのは幸せなのである。全員が本塁打を狙うようになれば最初こそ面白がるが途中からそのたんぱくさに気付くだろう。
そして点取り合戦だけならテニスでも観ていた方がよっぽどエキサイティングである事に気付くし、同じ点の取り合いでもアシストなどゴールに向かうまでの物語が色濃く映るサッカーに浮気をしていく事になる。

野球は小さな間に対して幾重にも張り巡らせた考えが結果として現れるところに面白みがあるのであり、それを無視し長打に全てを巡らせる野球にはどうしても限界が出てしまうのだ。

イチローという選手は野球を面白くしていたのだ。
時には打撃で、時には走塁で、守備で沸かせてきたからこそ野球の面白みが詰まっていた。躍動する彼の姿にベースボールの原風景を見たからこそ彼はオールスターでファンに選ばれ続けたのだ。

「頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような…」
イチローが引退のインタビューで溢した言葉だ。
オールスターで彼が選ばれ続けた事とこの言葉はリンクしているような気がしている。統計学と長打力に支配されてしまったアメリカの野球は9人だからやれるスポーツならではの歪な、それでもって勝ててしまうような面白みをどこか失っているように思う。
イチローがなぜ10回もオールスターに、それも9回ファンから選出された事に対して、今野球に関わる我々は改めて「なぜ」を問わなければならないところに来ているような気がするのだ。

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