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高校野球の指導者になりたい若者に伝えたい事

 現在高校に於いて部活の指導をしたくない、もしくは負担、という教員が増えている。これは二年前の記事であるが、コロナにより活動が限定されている今でもこの意見は変わらないだろう。部活をしたところでオフの時間が削られ、それが給与にもならない。それどころか様々な責任を背負わされてしまうため、「高校生は部活をするべきだと思うがそれを維持することが難しい」現状がある。

 なにも珍しいことではない。終身雇用の崩壊により社会・企業に奉仕することが社員の在り方であることが否定され、個人と社会・企業にどう折り合いをつけていくかを考える時代に変わったといっても差し支えない。社会的意義のために自分の時間を無為やたらに使い込むつもりはない、という時代に入っただけなのだ。

 言ってしまえば仕事場の飲み会に参加をしたくない、という意味に近い。得られるメリットがあるのは重々理解できてもオフにそれをやる必要はない。むしろ明日の職務へのパフォーマンスを維持するために規則正しい生活を送りたい、と思うのは業務量の増えた現代ならではの考え方であり、それを今更やめろとかとやかく言う気はない。なんなら私だってオフはしっかり心身のケアをして次回の業務をいいパフォーマンスで迎えたいと考える。

 そんな中、あるツイートが気になった。

 曰く

今の若い人が公立高校で野球部の監督を志望するとき、甲子園を目指す、というのはいかんせん無理を言っているのではないか。甲子園という目標のために選手をもののように扱うのではないか。だとするならば再考すべきではないか

 というものであった。

1,もちろん今でも無茶を言う傾向はある



 もっとも、とは思った。目標のために手段を選ばずにおおよそ理不尽なスパルタを課す教師がいるのも否定できない。

 特に昭和はそういうスパルタが求められた時代でもあった。それははるか昔の帝大一高野球部、いわゆる天狗俱楽部の頃から激しい練習をこなし、それに感銘を受けた飛田穂洲が「野球道」という形でまとめたように、野球は武道的側面を持たせていたのは否定できない。厳しい練習の中で自らを磨き、鍛錬の中で礼儀や人の道を学ぶ事を是とした時代があった。

 しかしながらそれはいわゆる帝大のような超エリートであるからその方程式が成り立った、それどころか早慶戦のひな型が生まれる前には青井鉞男の「俺たち(一高は)教授する立場なのだから素直に審判を受けろ」と一方的な一高よりのジャッジを行ったりと現代の視点で見るとそれが出来ているともかなわない。

 そこには年長者を敬う、先輩に敬意をもって接する儒教的性質が色濃く反映されており、スポーツとしての平等性などを踏みしめる事がおおよそできていなかったのである。

 一方で早慶戦以降になると野球を輸入することに躍起になり、自大学が勝てば相手を貶めるに等しい勝利パレードを行ったりして禍根を残し、一時は早慶戦が中断され、復活にかなりの時間を必要としている。

 そんな経緯を踏襲しての野球道であるから、今も残っているのは否定できず、特に事実上の都道府県対抗スポーツとなっている高校野球では選手や監督だけでなく、その背後にいる多くの人間が勝利とそれによって得られる名声の名のもとに日々めちゃくちゃな事が行われているのは私も否定しない。

 特に高校野球には「アマチュア」という文字に鮮血で打消し線が引かれており、金でのクラブチーム有望選手引き抜き、高校宣伝のための野球部勝利絶対至上主義といった要素が高校野球にあるため、その危惧を覚えてしまう事にはまことに共感が出来る。

2、とはいえ、それがすべてか、と言われたらそれも違う。

 少子化や過疎化が進み、北北海道の高校では野球部どころか高校生全員をそろえても大会に参加できないようなチームもある。そういった高校は同じような高校と連絡をして合同チームを作り、その合同チームが一回戦をまともに戦うことも出来ずにコールド敗北で消えていく事もまれではない。

 そんな大会一勝どころか来年には廃校になりかねない高校達を率いて戦っている教師もいる。それはほかでもない、高校生に部活動で何かを残すことに尽力したいために、である。

 そんな事情の高校だともう生徒ですら甲子園を諦めている。土台無茶なことなんて重々承知なのだ。合同チームなんて聞こえはいいが、関東のように交通網が発達しているわけではない。移動に一時間以上かかってしまうこともざらで週に一回合同練習が出来たら御の字、なんてチームに、漫画のようなよほどの才能を持っている選手がいるわけでもないチームにそんなものを求めないのだ。

 では彼らは不真面目か、というとそうではない。諦めこそすれど、一勝でもしたい、と一縷の望みに賭けて練習をするのだ。たとえそれがコールド敗北としても、そこまで積み重ねてきた経過は、他者と比較しても素晴らしくなくても立派にやり遂げる。そんなことに必死になっているのである。

 そんな姿を見た大人はどう思うだろうか。

「無駄だからさっさと負けてこい」と思う者もいるかもしれない。だが大半は「負けてもいいから悔いのないようにしっかり頑張ってこい」と思うのではなかろうか。

 それはその高校を率いる監督なども同じではなかろうか。

 彼らを見て、自分を見て、勝てない事など重々理解しているだろう。なんなら一勝出来たら儲けもの、と思うくらいの客観さは大人になればだれでも持ち合わせるものだ。だがそれでも彼らは監督を引き受けるのだ。彼らの思いを無駄にしないために。

 レベルの低さ故に厳しい指導とは程遠いかもしれない。やったって無駄かも、と脳裏を横切る事もあるだろう。それでも引き受けるのだ。

 そんな、せめて一勝だけでもさせてあげたい、と思いながら一回戦で消えていく高校は半分いる。勝てないと客観視しても、それでも勝たせたいと思いながら戦う多くの監督が日本の高校のあちこちにいる。

 そんな数多くの現状を見ていると、今私はどんな理由でも「高校野球の、それも公立高校の野球部の監督をしたい」といえる若者がどれだけ稀有な価値を有するか、考えてしまうのだ。

 甲子園という舞台には「甲子園に行きたかった」という多くの生徒と監督の屍の上に成り立っている。時にそれを無駄とも思えるかもしれない。そんな無駄なことをするよりオフで休んだ方がいい、という考えは至極もっともという時代になったのだ。

 それでも「やりたい」というならやらせてみたらいいではないか、と思うのだ。若者が目指す道の難しさ、そしてそこで発生する色々な人間関係から得られることもあるだろうし、間違っていることも気付くかもしれない。

 それでいいと思うのだ。

3,人は変化成長していくもの。それは大人だって同じ

 最後になるが、ここ五年の野球で素晴らしかった高校野球の一試合をお話しする。

  2017年7月9日、横浜スタジアム三試合目の大師高校vs藤沢西高校。

 この年ベスト16に進んだ大師高校だったが、一回戦はエースの井上君(大師)、竹村君(藤沢西)ともに制球定まらず、かといってそんな見え見えのボール球をバッターは振るような、ひっちゃかめっちゃかな試合であった。

 もう両投手泣きながらボールを投げ、それを必死に振って、振らなきゃフォアボールになるのに三振。野球を見慣れている人にはひどい試合と映るだろう。

 しかし、その姿を大人は誰も罵倒しなかった。もはやほとんど身内だけが来ているような試合である。

 そこにたたずむ家族たちは自分の息子が、だれかの息子が必死になりながらプレーしている姿を追って応援していた。私は藤沢西高校側にいたが大師高校側にトラブルがあってそれでも懸命に試合に出ようとしている選手がいたら藤沢西高校側からも「がんばれ」という声が聞こえる。

 ちょうど夕日が横浜スタジアムを包んで、日焼けした浅黒の肌をした選手たちは泣きながら試合をしている。激戦だった。どちらも勝ちたくて仕方ないから、必死になって試合をしていた。

 それをそこにいた大人たちは知っていた。プロ野球どころか次のレベルでやるかどうかも分からない選手たち。ほぼ全員がここで野球を引退する事になるであろう彼ら。

 そんな彼らにもう勝敗はなかった。どちらが勝ったにせよ、とにかく無事に試合が終わってほしい。勝った方をほめたたえ、負けた方を慰める。そんな空気が球場を包んでいた。

 ひどい試合だった。

 だが、そこにいるすべての人にはそれが死闘に映った。

 試合はボールデッドによるアウトで試合終了というなんとも言えない幕切れだった。どういうことかちゃんと説明しろ、と怒鳴る声があった。だが、説明が終わり、藤沢西が敗北したと決まり、お互いが整列し挨拶を交わすとどこからともなく拍手が舞い上がった。多くの拍手が球場を包み、それを夕焼けが飲み込んでいった。私は「どうみてもひどい試合だったな」と思いながら涙をこぼしていた。

 残念ながら、人は誰もが大人になっていく。最初の目標が段々と崩れ、思わぬ方向へ進んでいる事だって多々ある。それは九州を出る事などおおよそないと思っていた私だってそうであり、ほかの人間だってそうだ。

 その中でいろいろな経験の中で人は変化していき、時には当初の想いを捻じ曲げたり、捨てたりして新たな関係を構築していくものであると思う。

 それは、悪いことなのだろうか?

 私はそんな出会いと経験から得る変化と良心を信じたい。学校に就き、様々な生徒や親、同僚や先輩の出会いから「何が何でも甲子園」が変化し、人として成長していくことを信じたいし、その姿を目の当たりにした瞬間もある。

 それを分け与える事が野球部の監督や先生である前に、彼ら生徒より先に生きた大人の使命であると思うのだ。

4,だから私は若者の良心と成長を信じる

 だから、私は杞憂だと思うのだ。

 やりたいと思うならやって、色々な成功や失敗から成長し、それを伝えられる大人になればいいだけの話で、最初から公立高校がどうのとか、甲子園がどうのとか、関係ないと思うのだ。

 とにかくやって、色々得て、成長して、伝えればいいのだ。今日日野球道も廃れた「スポーツとして」の野球を見ていかねばならぬ時、どんな理由でも「部活動の顧問をやりたい」という芽をわざわざ摘む必要性を感じないのだ。

 人と交わり、経験することはかけがえのない財産であり、それを実感しているからこそ「高校生に部活動はさせたい」と思う教員は後を絶たないのだから。

 だからこそ、どんな理由、きっかけにせよ「高校の顧問」をやりたいならやってほしい、と思う。今の若者は勤勉だと思っているから、やってからそこで学べばいいことだと思うから。

 私はそんな、若者の良心と成長を信じる。


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