劇場版伝説巨神イデオンを観た

 かれこれ十年ぶりくらいか。
 伝説巨神イデオンを観た。買っていたはいいもののかなりの間放置していたDVDを開けたのだ。最後に観たのは20代後半だったからかれこれ10年ぶりか。若かりし頃より感想が変わっているから改めて自分が20代のころより映像媒体や物語に触れてきたことを思い知る。

 その昔は相当出来のいい作品であると思っていた。が、今見てみると大分ニュアンスのみで端折っている印象が強い。改めてアニメ史に残る名作であったとはいえるのだが、映画としてこの映画を鑑みると「富野監督若いなあ。勢いで(コンテ)切っちゃってるよここ」みたいに思っちゃったりする。
 このスピードがあるために意外とこの作品の本音というのはわかりにくい。そのため映像の過激さも相まってキャラクターの死亡シーンばかりクローズアップされるし、確かにこの「伝説巨神イデオン」という作品は一度や二度ではピンとこない作品だなと感じた。これは富野由悠季が映画監督として、またアニメの時に使ったカットを切って張ってをしていたために起こったものだった。

 しかし改めて観ると日本のアニメでは完成されたSFであるな、と感じるのだ。
 細部の描写が細かく、そして絵面すら抒情的な演出。そういったものが大きなストーリーに彩られ、この戦いの答えはどこに置かれるのか、と考えさせられるのだ。

 特に面白かったのがドバ・アジバの存在であった。
 敵の親玉であるために悪い奴や、殲滅戦の望むときの言葉で自分の娘たちが思い通りにいかなかったことへの恨み節を吐くところなどで非常にナイーブなキャラクターにされているのだが、三十も過ぎてみてみるとこのドバ・アジバがとてつもなく優しい人間に見えるのだ。

 ドバ・アジバは娘ハルルとカララの関係に巻き込まれる形で物語が進む。この物語では終盤に至り、カララがソロ・シップ艦長ベスと子を授かり、それをハルルが殺す事で一つの大きな転換点を迎える。
 カララがベスと宿した子供、メシアが地球(ロゴ・ダウ)と地球(バッフ・クラン)を結びつけるものであったのだが、ハルルは女性として、カララは母として敵対する事で神であるイデが考える「より純粋な生命」の保全から外される。
 そのためカララはハルルの手によって殺められる。

 姉妹という血のつながった関係でありながら、軍人として、男として生きようとしながらそれに失敗したハルル。そして敵に寝返ったどころか女性としての幸せを全て手に入れたカララ、この対極がぶつかる事によってハルルは嫉妬してしまい、怒りや恨みが混じった中でカララを撃つ。
 ハルルにとってカララは自分の捨てたものを全て手に入れた、一番羨望に近い存在であった。

 また、発動編に於いてハルルの思い焦がれたダラムが第一線に置かれている、という描写があるのもそれを肉付けされている。
 カララは好きな男のもとにずっと寄り添い、子を宿せたというのに、ダラムはイデとの戦いによって死に、周りからドバの娘として生きる事を求められて、男のような振る舞いを求められてしまっていたのだ。

 カララを殺めた後ドバとハルルは相対する。
 ドバは部屋を見るなり「女らしい部屋だ」と言ってくれ、ハルルがカララを殺めた事を黙って聞いてくれる。ドバにとってはカララの命を取ることを「バッフ・クランの総帥」という点から選んでいる。それがドバ自身の本意であるかどうかは別として。
 全て「バッフ・クラン総帥」という意識で動いているのだ。
 恐らくドバ自身はカララを撃つことをよしとは思っていなかったし、そんなことを娘にさせたくなかったはずである。

 こうなってくるとドバの「女らしい部屋」も意味が変わってきており、恐らくその言葉はドバの本音で、軍人の娘として男のように育ててしまったハルルに対して女らしいところがあった事に安心を覚えている。
 そして自分の姉妹を討たせてしまったこと、本来ならば「バッフ・クラン総帥」としてその任を遂行しなければならなかったドバ自身がやる事をやらせてしまった事に心を痛めている。
 だからハルルを労ったのだ。

 だが、ハルルは違った。
 ハルルは自分が得られなかったものすべてを持っているカララがうらやましくて仕方なった。それを壊してしまってもよいと思ってしまった。カララを「バッフ・クランが戦争に入り、一族の命を守るため」という大義をいいことに私闘を行ったのだ。
 ハルルはカララが憎かったから殺したのだ。一番羨ましかった美貌を何度も銃で打ち抜いて。

 ドバの胸中はこうであった。
 娘に兄弟を殺めさせ、本来ならハルルにも得させるはずだった女性としての喜びを奪った罪の意識。それでもなおハルルに軍人として求めなければならないつらさ。
 それが濁流のように押し寄せてきたのだ。
 また、ダラムを重用しすぎた結果、女のしての喜びを奪ったのはほかでもないドバであった事も引っかかったのだろう。
 こんなに不器用な娘を軍人に染め上げてしまった。そんな後悔があった。

 だが、そんなことを泣いても戦争は終わらない。
 こんなところで女を出されても困る。もうロゴ・ダウとバッフ・クランはどちらかが尽きるまで戦う事を強いられているのだから。
 だから黙って去ろうとした。軍人としては叱責せねばならないし、ここでは父親としてふるまうわけにもいかない。第一そんな惨たらしい事をさせておいて親などと振る舞うのもおかしい。

 ハルルが嫉妬に狂って妹を殺すまでした原因は自分にもある。それを父親として受け止められてもバッフ・クラン総帥としては受け止められない。
 そんな不器用さが出たのだ。

 そこでドバの性格が見えてくる。
 ドバは自分の本音を隠そうとするとき、語気を強くする特徴がある。
 それは死んだ後のオーメ財団代表ギンドロの残留思念がドバに語る「貴公は本当にバッフ・クランの事を考えていたのだな」にも見て取れる。
 最後の戦いでドバは「ハルルが男でなかった悔しみ、カララが寝取られた悲しみ」を総攻撃をかける理由としているが、その後のギンドロのセリフでそれが自分を奮い立たせるための言葉である事に気付かされる。
 ドバは「ハルルがカララを殺す、という人の道から離れた行為が出来たのは自分のやりたいことを表に出す事である。自分の欲望で動くことが非人道的な行為を行う事が出来る」と考えたからこそあれほどの語気を強めたセリフになった。
 しかし、ギンドロの残留思念はそれが違う事を諭すように言って消えていく。よくも悪くも「バッフ・クラン総帥はかくあるべし」「バッフ・クランの事を考えて動くことが総帥のありようだ」を心の底から願っていたからこそハルルにも厳しく当たり、カララを討つことを選んだのだ。
 その奥底には「バッフ・クランを幸せにさせなければならない」というドバの優しさが隠れているのだ。

 だから本当ならばバッフ・クランの父としてバッフ・クランという種族全ての幸せを願ったであろうし、一父親としてハルル、カララの幸せを願ったようにも捉えられるのだ。
 そういう捉え方だとしたらカララに子が授かったという事も喜べたかもしれないし、ダラムとハルルの幸せを繋げる事を考えたかもしれない。
 だが、それは許されなかった。カララが原因で同胞の血が多く流れた。巨神のために多くの命がなくなった事を考えると、そんな個人の幸せのために弱く立ち回る事など許されない。

 ドバの奥底にある優しさを幾重にも閉じ込めて、初めてバッフ・クランの業を受け入れたのだ。バッフ・クランが「生存する」という幸せのためなら父親としての失敗をさらけ出し、それを業としてもいい。天罰を受けるのは父親の業を全面に打ち出して多くの同胞の血を流させた自分でいい。そう思ったからこそあの言葉があり、ギンドロの言葉につながるのだ。

 なのでドバ・アジバという男は「バック・フラン総帥」という冠がなければ異星人同士の結婚を認める事が出来るような優しい男であったようにも見えるのだ。
 だがドバは「バッフ・クランの父親」として戦う事を選んだ。それはサムライ道とか出世や名誉のためではなく、父として、多くの息子、娘の血を流させた以上、それに報いなければならないと巨神と戦う道を選んだ。
 ただ、そんな大義名分では鬼になれないから、娘たちの恨み言をいう事で鼓舞した。そんなやさしさが垣間見えるのだ。
 これは同時期サンライズでやっていた太陽の牙ダグラムにおけるドナン・カシムに通ずるところがある。ドナンもまた汚い策略を弄してでも資源のない地球に住む多くの地球人、いわばドナンの息子、娘を食わせるためにその命をささげた。
 その大いなる父親と和解しながら自分の道を進んだのがダグラムとするなら、その偉大さを戦う事でしか昇華できなかったのがイデオンでもある。
 こうなると主人公コスモが「直接ぶん殴りたい」も繋がってくる。敵の親玉としてドバを殺すのではなく「それほどの偉大さを持ちながら、バッフ・クランを守る事しか考えられないケツの穴の小ささを見せつけたのか」という憤りがあったからこそ「直接ぶん殴りたい」のだ。

 という事はイデの力によって相互理解がもうすでに果たされており、それでありながら止められなかったことに対してコスモ達は怒りを覚えているのだ。

 ラストシーンでは主要人物のほとんどが相互理解の状況にありながら止める事が出来なかった。社会や慣習に縛られ、手を取り合える可能性のあった両者が滅亡するまで殴りあう事しか出来なかった。
 だから最後のベスの「俺達は遅すぎたのかもしれん」に行きつくのだ。
 コスモも、ベスも、ドバもお互いの良さを知ってしまった。だが、もうお互いを血で染めあった結果、もう引き返せないところまで来てしまった。イデが死を選んだのだ。

 ここでこの作品がSFである事を思い知らされる。
 おおよそほとんどの媒体で「神のような無限エネルギー」と言われるイデだが、イデは本人が説明するように「知性の集合体」である。つまり人が多ければ多いほどその力が発揮され、少なくなればなるほど力が不安定になる。
 とするならば、人が戦争で数を減らしあう事はそのまま知性の集合体を組織する知性が減っていくことに起因するから、戦争をすればするほどイデの力は不安定になっていく業を持つ。
 物語が終盤になればなるほどイデが弱まるのはそのためであり、両者の滅亡を以てイデがほぼ死に絶える事になるのだ。

 イデがなぜ両者の死を求めたのか、というとお互いの風習、社会など取り巻く環境によって争う以外他ならなかった二つの文明を終わらせて、どこか妥協点を見つける事であり、そしてその妥協点から新たな道を模索する事だった。
 しかし幾度となくイデの目論見は失敗。カララとの輸血でコスモに語り掛けたりしたが、それも失敗。結果、カララとベスの間に出来たメシアに新しい生命を託すことで解決を図る、という結末に至る。

 もしここでドバが「父親」になれていたら。
 ハルルがダラムを得ていたら。
 ギジェとシェリルが最後まで心を通わせキレていれば。

 その選択をお互い捨て去った結末がイデオンであり、最終手段としてメシアにイデ自身が賭けた、という話なのだ。

 上質なSFである。

 とりとめもない話になってしまったが、改めていい作品である。
 やはり富野由悠季という男は心根が優しい。しかし、それを素直に表せない不器用さがある。それが映像作品として出来たのが伝説巨神イデオンなのだ。

 つまり、面白かったのだ。

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