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旅してボランティアをして映画をみたその先に

〜看護師であるわたし+α〜

 中学生の頃から子供ながらに「子供のサポートをしたい」という夢をもっていました。中でも「親の愛情を受けられずにいる子供のサポート」を考えていました。

一時は福祉系の職業に転職も考えましたが、現在看護師を続けながら児童養護施設出身の子供のサポートという形で夢を叶えました

ここに至るまでの決断や行動力の原点はインドとカンボジアでの出会いにあります。この経験をお話ししたいと思います。

インド旅行での出会い

高校卒業後、一般の大学で心理学を専攻しカウンセラーを目指していました。しかし、大学4年生の時に医療でのクリティカルな場面こそ精神的ケアが必要なのではと考え、大学卒業後に看護の専門学校に進学を決めました。

看護学校への入学前、大学の卒業旅行では前回の旅行でインドにハマったという友達の誘いでインドに行きました。そこで医療目的で渡航している二組の家族と出会います。

〜フランス人親子〜

学生の低予算旅行なので、時には10時間も遅延してしまうような夜行列車で長距離を移動しました。フランス人の父と娘の親子と向かい合わせに座ったのをきっかけに、拙い英語ではありますが会話を楽しみました。その中でインドへは医療目的であるということをお父さんが教えてくれました。

〜中東系の家族〜

日本に帰国する直前、空港で出発待ちをしていた時のことです。同じくベンチで待機していた中東系の家族に出会います。(パスポートまで見せてくれたのですが国籍はわかりませんでした)優しそうなご両親と人懐っこい子供が二人いました。

言葉は通じませんがジェスチャーを交えて子供と遊んでいるうちに、10分ほど子供のおもりを任命されます。(なぜかご両親の信頼を)勝ち得たようです)ご両親が戻ってきて、お礼に見たことのない大きなサイズのコーラをいただきました。男の子は片足がなく、その子を指差し医療を目的にでインドに来ているとお母さんが教えてくれました。

インド=貧しい国、発展途上というイメージでした。しかし、実際は居住地とは異なる国や地域を訪ねて医療サービスを受けるという「医療観光」の市場が拡大しています。先進国と同じレベルの医療を約半分の費用で受けることができ、近隣国・アジア・アフリカを中心に年間何十万人も訪れています。

インドに対しそのような知見はなく、自分の偏見と無知を知り、自分の見ている世界が狭いことに気づかされました。自分の居場所はどこなのかグローバルな視点で考えるために看護師として経験を積んだら海外の医療に目を向けようと、この時決めました。

カンボジアでボランティア活動を通じての出会い

緩和ケア病棟と循環器内科病棟で経験を積み、後輩指導をするようになった看護師5年目。看護学校で「国際医療」の講義をしてくださった講師に連絡し、そろそろ海外の医療に目を向けたいと相談しました。

そこでジャパンハートという団体を紹介してもらい、カンボジアへ一週間のボランティアツアーに参加します。ジャパンハートの現地スタッフが、カンボジアの医療事情や世界からみる日本を説明してくれました。そして衝撃を受けました。

1970年代、ポルポト政権により医師を含めた知識人の大虐殺があり、400人いた医師は40人にまで減ったと言われています。政府は医学生を1年で卒業させるという政策をとり、カンボジアの医療体制は崩壊していきます。未だにカンボジアの国民は病院や医療者への不信感は強いままです。

しかしカンボジア人の日本人への信頼はとてもあつく、日本人のいる病院には患者がたくさん集まります。なぜでしょうか。

理由の一つは、「日本製の家電が壊れないから」だそうです。これには驚きました。他にも第二次世界大戦後か経済成長をまでの立ち上がり方は、世界的にみてすごいことであり、世界が知りたがっていることだと教えてくれました。

わたしが出会ったカンボジアの方はとても優しくて友好的な方ばかりでしたが、この関係性も先人たちのおかげかもしれないと歴史に思いを馳せました。

また現地で活躍する日本人スタッフやボランティアメンバーのそれぞれの思いに触れました。
医療のないところに医療を届けるため、カンボジアに移住を決め無償で働く医師。
高校生の時から国際医療を目指し、カナダの大学に通う女子医大生。
働きながら夜間学校で国際医療を学び、何かできることはないかと考えるために参加した薬剤師。
せっかくの夏休みをアルバイトで終わらせたくない、何か成し遂げたいと1ヶ月カンボジアで過ごすことを決めた看護学生。

私の周りには国際医療について語り合える仲間がいませんでした。しかし少し勇気を出して行動したことで同じ思いの人と出会い、語り合い、繋がることができました。このカンボジアでのボランティアの経験を通し、思い描いたことを実現する自分に自信がつきました。

そして今、ブリッジフォースマイルという団体を通じ、児童養護施設(生まれた過程で生活するのが困難だと判断された児童が入所する施設)出身の子供と携わっています

一般的な家庭でのほほんと育った私ですが、映画や本を通じ出生や生い立ちが様々であることを知りました。決定的に私の背中を押したのは是枝裕和監督の映画「万引き家族」です。是枝監督は「誰も知らない」という2004年の作品でも育児放棄をテーマに社会に問題提起しています。そして2018年「万引き家族」で再び家族の在り方や社会問題を訴えています。この映画で「是枝監督は社会問題にまた取り組んでいるのに、わたしはいつまでグズグズしているんだ!」と勝手ながら喝を入れていただきました。

子供を取り巻く環境がどうなのか、何が問題なのか、どんなサポートが必要で私には何ができるのか、まずは知りたいという思いで説明会に参加しました。

ブリッジフォースマイルでは子供たちに関わる前にいくつもの研修を受けます。そこで児童養護施設は日本に約590施設あることや、施設職員の定着が難しく信頼していた大人であっても何年かしたら変わってしまう現状であったり、虐待を受けた子供の心理的影響がどういった言動につながるのかなどを学びました。

子供と関わること、関係性を築くことは想像以上に難しく、私自身ブリッジフォースマイルのスタッフから手厚いフォローを受けています。自分の言動を振り返り反省をすることも多々ありますが、楽しいことや喜びの方が100倍大きく、何より昔の自分との約束を果たせたようで自分を誇りに思います。まずは自分が継続することですが、この素晴らしい活動を広められたらなと思います。

まとめ

私の人生において大切なことは二つです。

何に心が動かされるのか常に自分に問いかけること、そして心の赴く方へ飛び込む勇気です。飛び込んでみた世界はどれも素晴らしく、導いてくれた方、出会った方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

今年は病棟看護師から訪問看護師に転職します。緩和ケア科では家族看護や看取りの看護を大切にしてきました。循環器内科では心臓移植をする方の意思決定支援や自宅でその人らしく過ごせるように、心不全指導に尽力してきました。

今までの経験を活かしながら新たに小児科の領域に挑戦し看護をもっと追求したいと思います。次なるターニングポイントでどんな世界に行けるのか、楽しみです。

~この記事を書いたのは~

田宮 渚
旅して映画をみてボランティアするナース
1987年9月3日生まれ、長野県出身、高校卒業後に上京。一般の大学で心理学を専攻。医療の中で活躍したいと思い、大学卒業後に看護学校に進学。大学病院勤務8年、緩和ケア病棟、循環器内科に勤務し心臓移植に携わる。2021年、訪問看護の道へ挑戦。看護師ライターを目指し勉強中。
note: https://note.com/nagiyan93
Instagram: https://www.instagram.com/nagiyan___/

ナースライフバランスでは、 SNSを活用したオンラインサロン、各種イベント、情報など通して 看護師としてのいろんな働き方やプライベートを充実させるための情報や活動を通して1人でも多くの看護師が「自分らしさを」大切に、 自由で面白いナースライフを過ごせる世の中を目指します。