百合で挟んだ檀一雄

 百合は素晴らしい、だが好きだとはっきりと言えない。百合を好く自分の心理が何処から来るものなのか、いつも考えてしまう。卑屈な自意識がまとわりつく。
 持っていたのは、『私の百合はお仕事です!』の13巻と『はなにあらし』の13巻。手元の二つの13を奇異に思いながら、同時にこのままレジに持って行くのか迷う。何かひとつ、欲しい気がした。

 大きい丸善であった。幅の広いジャンルのマンガも小説も実用書もあるのだ。何か面白そうなものがあるはずだ。そこで一つ軌道修正をしたい。
 虚しいことである。そして手元の作品に対しても、これから手に取る作品に対しても失礼な話である。私は小説の書棚をゆらゆら廻るのである。

 目にとまったのは二色の、すっきりとした装丁の『小説 太宰治』であった。檀一雄、その名前から感じた何となしの気品は虚栄心を満足させるものであった。値段は650円+税、これも良かった。

 今、手元には三冊ある。二つの百合漫画と檀一雄である。私の都合で百合に挟まれた檀一雄、レジを通った。なんてことはない、と鞄にしまう。本当になんてことはなかった。

 そして読んだ、『小説 太宰治』。よかった。人間二人の関係と情の話という点である意味で百合に近いともいえなくない、かもしれない。
 やはり二人の関係性と言うには無理があるかも知れない。檀一雄は常に太宰への尊敬がありながらも、いや、あったからこそ太宰治という人間に踏み込まず、諦めていたようにも見えた。彼そのものを、完遂させることをよしとしていた。

 私の考える百合とは対照的である。百合は関係性を変化させるために、踏み込み、距離を変質させる過程がある。私はその覚悟にある種の敬意と感動を抱く。

 何が言いたいか。ただ私は自尊心のために檀一雄の小説を読んだというだけである。その小説から漠然とした諦めと空しさを得て、

「泣ける、ねえ」

小説 太宰治
檀一雄 著

とか言いたくなるのである。

 純粋な好意を受け入れず、信じ切れず、自己嫌悪を見つめ直すための鏡をいつも百合に挟むのである。

 後日、丸善を訪れる。毅然とした足取りで、一冊の本を持ちレジに向かう。『花筐』である。
 間違いなく不純なものほど、すんなり受け入れてしまいたくなるのは何なのだろうと逡巡することもなく、すがりついていた。

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