日記:表現する熱量

文学フリマに行ってきました。前回行ったときよりも人が多いように感じられて、今日の暑さも相まって熱量にずっとあてられているようだった。本を作るのは本当に大変で、それを普段の生活を送りながらも成し遂げてやろうという人々が大勢集まっているのだからさもありなん。少しだけページをめくってみても、そこに著者の抜き身の熱量がこれでもかと伝わってきて、不思議と元気になる。

自分は最近あまり本を読めていなかった。アニメや映画という映像作品と違って、「読むぞ」という覚悟が必要な媒体であって(少なくとも自分にとって)、それであまり時間もなかったものだから他の選択肢に押し流されて後回しになっていた。あと、いつかの日記にも書いたけれど、書籍という形にはある程度の耐久性があるというか、例えば毎週更新されるような週刊連載のライブ感とか、あるいはフェスのような現地でしか味わうことのできない体験だとか、それらと比べると時間に限りというものがない。静的な性質を備えている。

それでもやはり、いまこの瞬間に近い時の流れで書かれた文章とそうでないものの違いはあって、それが時事的な内容を含むのであれば読むのは時流に沿っているべきだ。だから本当に時間と無縁の性質を持っているわけではなくて、ならば読むのは早いほうがいいのだろうと思う。

読むぞ!



せっかく外に出たものだからと、映画を観て帰ることにした。『犬王』を観た。Twitterを眺めていたら「脚本:野木亜紀子」という文字列が目に飛び込んできて、もう観に行くしかないとそれ以外の情報は全く知らずに映画のチケットを取った。

だからアニメだということも知らなかった。自分が知っている野木亜紀子脚本作品は『逃げるは恥だが役に立つ』『アンナチュラル』『MIU404』などすべてドラマだったものだから、この作品も実写なのだろうと勝手に思い込んでいた(あとは、観ていないけれど『陸王』みたいなドラマがあったよなあという連想ゲームから)。監督が『四畳半神話大系』などの湯浅政明監督だということも観終わってから知った。

内容も、平家物語を語る琵琶法師が登場することで、TVアニメの『平家物語』とも関連性がなきにしもあらず、ということも知らなかった。アニメの『平家物語』はまだ観ていなかったので、もしかしたら観てから来たほうがよかったのかなとも思った。



多分そんなことはなかったと思う。ストーリーとしてはきっと独立している。室町の時代にあって人々を熱狂させたエンターテイナーの物語。自らを証明するために命を懸けた表現者の物語。友と歌い、友のために歌った、人間の物語。それらが時代を越えた表現手法で、しかし時代を越える普遍的な命題を突きつけてくる。何のために生きるのか? それは、現代よりも死や呪いが近くにあった時代であるからこそ、より切実に問いかけられる。

犬王と友魚の魅せる舞台は、観衆を巻き込む演出や、度肝を抜く舞台装置によって、そのポップさをこれでもかというほどに表現している。あまりにも凄まじい舞台がすなわち彼らの表現者としての想いの凄まじさを表していて、猿楽の知識がなくとも身体に直接響いてくる。その歌声に、演出に、音楽に、ただただ魅入られてしまうからこそ、彼らの魂からの叫びもまた、時代を越えて伝わってくるようなきがするのである。

あの凄まじい歌声を聴きたいからもう一度見に行きたくなっている自分がいる……。


映画館を出た後の夕暮れの日本橋。

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