日記:映画をいろいろ観た

もう1ヶ月ほど前のことになるが、4月の後半から5月のはじめにかけて3週間ほど、ほぼ毎週映画を観に出かけていた。今年に入ってからしばらく映画館に足を運べておらず、気づいたら観たい映画が積み上がっていた。観るかどうかを悩んだまま日々を生きていくくらいなら一気に観てしまおうと思い、4/22と23の土日に映画4つ(とたまたまチケットが取れたミュージカル1つ)を観た。それでも観たい映画が残っていたし、新しい映画も公開してしまったので、その次の週と次の次の週も1つずつ映画を観た。家でサブスクに入ってから観るのでもよいのだけれど、劇場のスクリーンや音響を体験できるのは期間限定であることと、感想を知人と話したりしやすいタイミングだということもあって、映画を観にいくという行為は自分の中でいまだに大きな意味を持っているみたいだ。あとは、まあ、普通にミーハーなんだと思う。誰かが感想を話していると観たくなる。

感想は少しずつ書き進めていたのだけれど、割と時間が空いてしまった。思い出すのに時間がかかったというよりは、期間が空いたことでその間に考えていたことが割と膨らんでしまったのが原因かもしれない。

以下ネタバレ注意。めっちゃ気にせず書いてます。2つ目以降の作品の間はそれなりに改行を入れるようにしておきます。

シン・仮面ライダー

『新世紀エヴァンゲリオン』などで知られる庵野秀明監督による、仮面ライダー生誕50周年記念企画作品。自分はそこまで特撮に明るいわけではなく、子供の頃に少しだけ見た記憶がうっすらと残っているだけだ(多分「龍騎」あたり)。それでも現代日本の裏側で人知れず戦い続ける者の物語に心惹かれていた。どちらかというとウルトラマンや戦隊モノよりも仮面ライダーが好きだったと思う。平成ライダーのややダークな雰囲気とか。

しかし初代のライダーについてはほとんど知らない。最も有名な仮面ライダーであるとはいえ、1号と2号がどういう関係なのかもわからない。バッタの改造人間で、ショッカーと戦っているらしいことくらい。でも『シン・ゴジラ』も『シン・ウルトラマン』も面白かったので観に行った。

自分は仮面ライダーの物語に何を求めているのだろうか。それは戦いの宿命を背負わされたある種の悲劇性と、それでもなお立ち向かっていく英雄性のような気がする。この映画の話も結構重い。登場人物が割と退場していく。そしてヒーローが持つ暴力性が、ゴジラやウルトラマンではなく人間と同等のサイズである仮面ライダーであるからこそ、強調されて感じられた。仮面ライダーのキックには、t(トン)単位で強さが設定されているらしい(『空想科学読本』で得た知識)のだが、そんな力で敵組織の戦闘員を蹴ったら体が爆散しないだろうか? その疑問に答えるかのように、今作での仮面ライダーはショッカーの戦闘員の頭を蹴り砕いていく。血飛沫がライダーの体を染める。この映画は映倫による年齢のゾーニングが指定されていたと思うのだが、ヒーローの暴力性、そしてその力を持たされてしまった主人公の葛藤を描くためには、この描写の過激さは必要だったのかもしれない。

1号の想いを受け継いで2号がショッカーとの戦いを続けていくというラストの余韻もとても好きだった。人には死が訪れる。しかし想いを受け継いでいくことで、誰かの心の中でずっと生き続けていく。そういう「受け継ぐ」物語こそが、有限な生を背負う人間という存在への讃歌だと感じるからだ。斃れていった者の想いを胸に、仮面ライダーは今日も走る。

ハチオーグが好きです……











ラ・マンチャの男

ミュージカルをほとんど観たことがない。小学生の頃に学校の行事か家族に連れられて行ったのが最後だろうか。内容もほとんど覚えていない(これは小学生の頃に観た作品のほとんどがそうだけれど)。しかし成長していくにつれてさまざまなエンターテイメントを目の当たりにして、舞台に立ってリアルタイムで演じることによって生じる熱がどんなものであるのか、それをいつか体験してみたいなと思っていた。しかしなかなか踏み出す勇気がなく二の足を踏んでいたところ、Twitterでたまたま『ラ・マンチャの男』の感想を呟いている人がいて、気になったのだった。「ドン・キホーテ」という存在が気になっていたのもあって(プレイしているFGOのシナリオに登場していたため)、チケットの情報を調べてみると、前日に電話で当日券の予約を受け付けるとのことだったので、めちゃめちゃ電話した。そうしたら運良くチケットが取れた。指定された席はS席でとんでもない良席だった(値段もそれ相応だったけれど)。

このミュージカルがどのような内容なのかをまったく知らないで観たので、最初は物語の入れ子構造が複雑に感じられた。あとから調べた情報も含めて整理すると、劇作家のセルバンテスが宗教裁判で投獄された折に、牢獄で囚人たちに『ドン・キホーテ』の物語を共に演じながら披露していく、という物語らしい。自らを騎士ドン・キホーテと信じて疑わない、夢みがちな老人として描かれるアロンソ・キハーノの物語をセルバンテスが語る。それを演じる松本白鵬を観客は見つめている。この幾重にもわたるメタフィクションの構造が、観る者それぞれにとっての「夢」や「現実」といった表象に重ねられていく。

なんだかドン・キホーテのことをもっと知りたくなってきた。原典にあたるのが一番早いのだろうか。調べてみると、志摩スペイン村のテーマパークのキャラクターがドン・キホーテをモチーフにしているらしい。ちょっと気になってきたな……










BLUE GIANT

ジャズをまったくといっていいほど知らないのだが、めちゃめちゃ面白かった。音楽を取り扱う作品は、その演奏に登場人物たちが込める想いをどれだけ表現できるかで印象も変わると思う。自分はアイマスのライブをそこそこ観にいったのだけれど、ライブの予習で何度も聴いたはずの音源が、ダンスや演出こそあれ、深く感じ入ってしまうのは、アイマスに登場するアイドルやそれを演じるキャストの方々の想いを頭に浮かべてしまうからだ。だからこそ感情移入してしまう。

アニメでもそこに至るまでの物語が描かれるので、感情移入がしやすい。しかし実際の演奏シーンとなると結構表現が難しい印象がある。セリフなどで感情を補足しても没入感をわずかに阻害してしまうし(効果的な場合もあるのだけれど)。ジャズだとボーカルの歌詞もないから余計に。

しかしこの映画は演奏シーンの感情をほぼセリフなし(だったはず)で音楽と映像だけで見事に表現し切っていたように思う。ジャズなんて全然知らない自分でも、ステージに立っている主人公たちやそれを見つめる観客と一体になったかのように息を呑んでいた。ステージにかける莫大な熱量が、音を通してひしと伝わってくる。言語を超えた情報伝達がそこにあるような気がして、打ちのめされていた。割とまだ上映しているみたいなので、気になっている人がいたらぜひ観てほしい映画。










グリッドマンユニバース

TVアニメとして展開された『SSSS.GRIDMAN』と『SSSS.DYNAZENON』を観たことがあったものの、特撮ヒーローとしてのグリッドマンは知らない。その意味では、『シン・仮面ライダー』を観たときと、状態としては少し似ているのかもしれない。

アニメ2作品のその後と地続きになっている展開で、両作品とも好きだった自分はその物語の続きというだけで嬉しかった。アニメでは、特撮ロボットと怪獣の戦闘という要素もありながら、主人公である学生たちの感情の揺れ動きにもフィーチャーしている印象があって、その要素が好きだったのだと思う。ある意味セカイ系(特に『SSSS.GRIDMAN』)。今日日「セカイ系」なんて言葉もなかなか耳にしないけれど、心の中の葛藤を拡大して物語の装置に組み込む構造が、なんだか自分の心も救われていくような気がするのだった。あとは、眩しい青春っぽさが普通に好き。

映画を観終わってからしばらく、主題歌の「uni-verse」を繰り返し聴いていた。祝福に満ちているような明るい響きが、2つの物語の集大成を感じさせるこの映画にぴったりに思える。怪獣との戦いも、続いていく日常も、そのどちらも包括して肯定してくれるような多幸感。それは、自分が映画を見終わって劇場を出た後の、回帰していく現実すらも後押ししてくれるような力強さを感じるのだった。そういう日常と非日常のような構造が好きなのかもしれない。





エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

話題を耳にして気になっていた作品。評判通り不思議な作品ではあったものの、しかしあらゆる可能性の世界を肯定し、その上で他者とどのように関わっていくのかを表現していたように感じた。

最近流行り(のような気がする)のマルチバースを知りたいなという気持ちで観に行った。タイムトラベルものが流行った時期があったと思う(というか昔から連綿と続いている)が、マルチバースはそれを発展させたものだと個人的には考えている。つまり、過去を変えることによって分岐する可能性世界を、タイムトラベルというギミックを飛ばして、現在の時間軸で並列して扱っている。昔から並行世界のような概念では存在していたのだろうけれど、それを「実在」として当たり前に受け入れているのが「マルチバース」の作品だと思う。「違う可能性があったかもしれない」という、あくまで別の世界をファンタジーとして想定しているのではなくて、「そういう世界もあるよね」と平然と受け入れた上で進んでいく物語。観客側の受容のあり方が変化したんじゃないかなという感覚がある。なんとなく。

要は、「自分ではない可能性への想像力」というのはそのまま「別の誰かに対する想像力」であって、そうした想像力を多くの人がそのままに受け入れるという変化は、膨大な情報が行き交う現代社会がもたらしたものだったのかもしれない。別の可能性を受け入れ、そしてその存在を肯定することは、価値観の多様化(というか細分化?)による分断とどう向き合っていくか、という問いに対する答えを内包したものだったりして。「マルチバースをやるぞ!」という取り組みこそ、あらゆる可能性に手を伸ばそうというある種強欲な目論見であるように思っていて、僕はその強欲さがとても好きだ。世界を救うくらいじゃ飽き足らねえ。並行世界のすべてを肯定してやろうという気概が、いつか人生の中でこぼれ落ちてしまったものを救ってくれるのではないか、とそんなふうに思う。

この映画は、マルチバースの荒唐無稽さを生かしつつも、決して散らばりすぎないように導入部がうまく構成されていたように思う。そして観客がルールを理解したところでさらに物語が展開していく。さまざまな可能性世界を渡ってたどり着いた結末のカタルシスは、あらゆる人生を肯定する優しさに満ちているようにも思えた。









ダンジョン&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り

「ダンジョンズ&ドラゴンズ」は、世界最古のRPGとも呼ばれ、紙やペン、サイコロなどを使って遊ぶ、いわゆるTRPGの祖となった存在である。しかし自分はTRPGで遊んだことがない。この映画を観に行こうと思ったのは、感想がTwitterで流れてきたからというミーハーな理由からだった。自分が映画を観にいく理由は、大体がそんな感じである。

剣と魔法のファンタジー世界に憧れたことがある人は多いと思う。自分はおそらくドラゴンクエストが入り口だったけれど、それ以外にも同様の世界観を持つ作品はゲームのみならず存在しているし、近年の異世界転生ファンタジーの登場を待たなくたって、特殊な力で世界を切り開いていく冒険を夢見る行為は人口に膾炙していたのだろう。

ところで、子どもの頃に思い描いていたファンタジーの世界は、魔法が使えて冒険ができて楽しい!くらいの曖昧なものだったのだが、強大な力を持つ異能を個人が振るえる世界を考えてみると、かなり物騒な世界にならざるをえない。凶暴なモンスターも跋扈するのなら、外に出るだけでも命懸けだろう。大人になると、そういう血生臭い部分に目が向くようになる。そんな世界で家族を守っていくことは、想像以上に大変なことなのだと思う。

そんなファンタジーの重みが十全に伝わってきて、しかしところどころに挟まる軽妙な会話も心地よく、癖のある登場人物がそれぞれの個性を生かしながら活躍していく様は心が躍った。「ダンジョンズ&ドラゴンズ」を知らなくても楽しいファンタジー冒険活劇だった。











ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー

言わずとしれた国民的ゲーム「スーパーマリオブラザーズ」が映画化されたもの。なんだかすごいらしいぞという評判が聞こえてきていて、折よく友人と観にいくことに。洋画は割と字幕版で観ることが多いのだけれど、この映画は日本語吹替版にかなり力を入れているらしい、とのことだったので吹替で観た。日本語版の台本にヨーロッパ企画の上田誠さんが関わっているらしい。

マリオの存在は日本国民のほとんどが知っている。何らかの形でゲームをプレイしたことがある人は多いだろうし、そうでなくても名前くらいはどこかで耳にする。そんな有名人であるマリオだが、しかしそんな世界的ゲームの主人公であるマリオがなぜ配管工で、そしてキノコ王国にはマリオとルイージ、ピーチ姫を除くと人間がいないのか、そのことについて深く考えたことはなかった。おそらく、多くの人がそうなのではないだろうか。なぜか、配管工のヒーローという不思議な世界観を受け入れてしまっていた。

映画が幕を開けて衝撃的だったのは、マリオとルイージがニューヨークのブルックリンで配管工をしていたことだ。え? 兄弟2人で独立して立ち上げた配管工サービスが「スーパーマリオブラザーズ」。え? その名前ってそれだったの? しかし事業はうまく行かず、父親に責められ1人自室でゲームをするマリオ。え? なに、だいぶ設定が重くない? そしてブルックリンで発生した配管の異常を突き止めようとして土管に飲み込まれたマリオとルイージがたどり着いたのは、不思議な不思議なキノコ王国だった————

要するに異世界転生ものである。まさかマリオが異世界転生だったとはね……それを知らずにゲームをプレイしてきたのだ。長年の謎(というか謎すぎて意識すらしていなかった)が解き明かされた感動があった。

そこからマリオは、クッパに捕えられたルイージを助けるために奔走するのだが、基本的に元が配管工なので、アイテムの力でパワーアップこそすれ、戦いにおいて並外れた才覚を発揮するというわけではない。では、マリオがなぜ大魔王クッパに立ち向かって行けるのかというと、それはただひとつ、不屈の精神のみが彼を英雄たらしめているというように感じられた。最後、「スーパーマリオブラザーズだ」と言いながら自身を奮い立たせる姿は涙無くして見られない。そしてスーパースターで無敵になるマリオとルイージ。スーパースターをとって無敵になることは、マリオをプレイしたことがある人なら誰でも知っているし、スターを取るとテンションが上がるので、それを1番の盛り上がりに持ってくるところには興奮を抑えられなかった。ドンキーコングもいたし……マリオカートもあったし……とても素晴らしい映画だった……




そんなこんなで、いまはMCUの作品群を観ている。面白……。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』を観ることができたらまた感想書きます。

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