虫歯


これは流行病が蔓延する以前のことであったから、四年程前のことであったかと思う。


齢三十を目前に控えた私には、矢張り人に誇れるようなものは、これといって持ち合わせていなかった。
もとより己の性分や特異な部分を人の目に晒すことには、面目の無さや後ろめたさを覚えてしまうところがあったので、そういったものが養われなかったのかもしれない。
もしも私の中にもそういった素養があったとしても、無意識のうちに角を削って、たちまち平均化していたことだと思う。


そんな私にもたったひとつ、人に胸が張れるようなことがあった。
それは「歯」である。
私は幼少の頃から殆ど歯医者の世話になったことがなく、「小学生の時分に八重歯を抜いた以来、一度もその門をくぐってはいない。
勿論、その後に受けた定期検診のようなものにも一度も引っかかったこともなく、いつも綺麗であると褒められたものだった。
私は毎朝、毎晩欠かさず歯を磨いていたので、それは当たり前のことであると思っていた。

大人になってからも年に幾度か、人前で歯を見せて笑った際には、「君は歯並びが綺麗だな」と友人は漏らした。
そしてその事が次第に私のアイデンティティとなっていった。
私は「歯が綺麗な男」なのであった。



しかし、審判の日は突然に訪れた。



ある日食事をとっていた私は、自分の口の中に不穏な空気が立ち込めている事に気がついた。
白米などの柔らかいものを咀嚼した際に、奥歯に小さな痛みを感じたのである。
それは神経質に考えなければ見過ごせる程度の痛みであったので、私は一時的なものであるだろうと高を括って忘れる事にした。

だが私の意に反して、痛みは次第に大きくなっていった。
それは奥歯にとどまらず、私の心をも侵食していったが、それでも尚、「虫歯」であるはずはないと思った。
何故なら、もしもこの痛みが虫歯なのであれば、私はアイデンティティを失うことになるのである。
そして本当に人に誇れるものの無い人間となってしまうのである。
私が私であるという根拠は、ただ歯が綺麗であるということによって支えられている。
故に私は虫歯になるわけにはいかなかったのである。


それから更に月日が流れ、痛みは既に看過できないものとなっていた。
私は遂に病院へ行く決心をした。

このまま痛みと不安を抱えて過ごすよりは、病院で虫歯ではないということを診断してもらう方が余程理にかなっていると考えたのである。
そうして私は二十年近くの月日を経て、歯医者の門をくぐった。


歯医者というのは嫌に綺麗で、嫌に小洒落た施設であった。
職員もまた嫌に愛想がよかった。
私が時々世話になる内科や耳鼻科はもっと鬱蒼として陰険である。
この差は何か。
兎に角、私には居心地が悪かった。


待合室に腰掛けてしばらくすると、診療室に案内された。
いよいよ審判の時が来たのである。

重い足を一本ずつ、引き摺るようにして診療室へと入っていった。


恰幅の良い中年の医者が症状を尋ねてきたので、「奥歯が痛む」と答えた。
医者は私の口の中を覗き込むなり、あの歯医者特有のメカニカルチェアーに座るよう促した。
医者は既に、何か治療を施そうとしていた。

私はおもむろに尋ねた。
「あの、もしかして私は虫歯なのでしょうか」

ここで医者が「虫歯ではない」と言えば、私の心は再び天に昇る思いで、「歯の綺麗な男」として再びこの世に繋ぎ止められる。
そしてきっとそうなると信じていた。
いつだって素人の自己診断程当てにならないものはないのである。


そして、医者は間髪入れずに答えた。

「そうだよ」


それは私を地獄へ突き落とすには十分に蛋白で、素っ気ない返答であった。


「えっ、あっ……」
私が心情を上手く言語に形成しあぐねていると、医者は、
「虫歯が三本」
と言った。


「さ、さんっ……。あっ、はあ」
私の心情など知る由もない医者は、
「これから三回に分けて治療していくからね」
と淡々と述べた。


最早私の魂はそこにはなかった。
私の魂は地獄の底へ突き落とされ、歯医者の前に横たわる肉体は人形と化していた。
抵抗する気力を失った私の口は、歯医者によって蹂躙され、歯磨き指導と称した助手の手によって更に蹂躙された。
そして彼らはそれを一度では済まさず、更なる追い討ちをかけるべく次の約束を結ばせた。


その後私は更に二度歯医者を訪れ、その度に口を蹂躙された。
全ての治療が終わった時、医者は、
「君、煙草を吸っているね」
「はあ」
「何年くらい」
「●年くらいですかね」
「なら、今更辞められないね。でも辞められるなら、辞めた方がいいよ。僕も昔は吸っていたけど辞めたよ、はっはっはっ」


思えばその数週間後にふと、煙草を辞めようと思ったのであった。
その時に医者の言葉が念頭にあったわけではないが、今になって思い返せば発端となっていたのかもしれない。

しかしその事により、私は新たなアイデンティティを手に入れる事になった。
この世の試練の中で最難関とされる禁煙を一発で成し遂げ、今日に至るまで一度も口にしていない。
この事は人に誇っても良いことであると考える。


私は「歯の綺麗な男」から「意志の強い男」に変貌を遂げたのである。



車窓から見える真っ白な雪景色を見て、ふと歯のことを思い出したのである。

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