司馬遼太郎「燃えよ剣」

司馬遼太郎「燃えよ剣」を読了しました。

色々、読んでいて考えさせられるポイントはあったのだが、
夢中になって読み進めていたので、あまりメモをとっていないため、数箇所だけコメント。


理想とは何か

「真の武士とは、どいういうものです」
「今の武士じゃない。昔の」
「昔の?」
「坂東武者とか、元亀天正の頃の戦国武者とか、まあ上手く言えないが、そういうものです」
「土方さんは、存外無邪気で荒れる」
子供っぽい、と吐き捨てたかったのだろう。その代わり、山南は頬に洗わな嘲笑を浮かべた。
歳三は、その頬をじっと見つめている。かつて、芹沢鴨と「士道論議」をしたとき、芹沢の頬に浮かんだのと同質の嘲笑が、山南の頬にはりついている。
ーー百姓あがりめが。
事実、山南はそんな気持ちだった。しかし、歳三の心底にも叫び出したいものがある。
理想とは、本来子供っぽいものではないか。
「まあいい、酒にしよう」

土方は、「理想とは本来子供っぽいものではないか」
と言い切っている。
子供心を忘れるな。というメッセージを感じられたような気がし、戒めと同時に、自分のなかにもある、僅かな子供心の存在を全肯定された気がして読んでいて感動したシーン。

万世に変わらざるもの、古今不易のもの

「政治ということさ。あんたは京都に来てからそいつの面白さを知った。政治とは、日々動くものだ。そんなものにいちいち浮かれていては、新撰組はこの先、何度色変えしなければならぬかわからない。男には節義がある、これは、古今不易のものだ。ーーおれたちは」
歳三は、冷えたお茶を飲み干してから、
「はじめ京に来たときは、幕府、天朝などという頭はなかった。ただ攘夷のさきがけになる、ということだけであった。ところが行きがかり上、会津藩、幕府と縁が深くなった。知らず知らずのうちにその側へ寄って行ったことであったが、かといっていまとなってこいつを捨てちゃ、男がすたる。近藤さん、あんた日本外史の愛読者だが、歴史というものは変転してゆく。そのなかで、万世に変わらざるものは、その時代その時代に節義を守った男の名だ。新撰組はこの際、節義の集団ということにしたい。たとえ後家門、御親藩、譜代大名、旗八万騎が徳川家に背を向けようと弓をひこうと、新撰組は裏切らぬ。最後の一人になっても裏切らぬ。」

幕末の動乱の時代において、個人として、そして組として、これまで何をしてきたのかを明確に捉えていて、これからは何を軸として生きていくのかを持っている人間は強い。
節義の大切さを論じる前に、こういう強い意思を持った人間に「生」を感じる。

大切にしてきたもの

土方は、それよりも前に下記のように回想するシーンがある。

しかし剣がある。新撰組がある。これへの実意はたれにも劣らない。近藤がいる。沖田がいる。かれらへの友情は、たれにも劣らない。それでいい。それだけで、十分、手応えのある生涯が送れるのではないか。

上記と同じように、こういう強い軸を持っている人間は強い。生気を感じられる。
と同時に、現代を生きる私にとっては、
「しかし、剣がなくなったら?新撰組がなくなったら?近藤がいなくなったら?沖田がいなくなったら?考えが変わったら?」
という風に考え始めて、リスクマネジメントをもしようとする癖がついていることに気づいた。


新撰組の歴史的な意義について

読み進みていると、途中でふと思ったことがある。
「新撰組の歴史的な意義ってなんだったんだろう….」
でも、司馬さんも書いてある通り、その解釈は非常に難しいだろうし、多岐にわたる。
歴史的な意義なんて、後世に生まれた人が決めるもので、私もつまるところ、one of themっていうことだ。
自分なりに意義、意味、を考えておき、個人的な意見として持つべし。


恋愛小説としての側面について

これについてはあんまり語れないし、語るところがない。
というのも、現代を生きる私個人の理想的な関係性と土方とお雪の関係性が乖離しすぎているからだ。

あ〜昔の人はこんな刹那を生きていたんだな。という感想である。


まとめ


結局、土方って命をかけてでも守りたいものが、新撰組であり、節義であったわけで、それって現代を生きる私にとっては何に値するんだろうな….と考える。

命が何よりも大切だと言われているこの時代に、命をかけてでも守りたいものなんて、簡単に見つかるはずがない。
でも、それくらい必死になって守りたい自分の信念を持って、他人のために価値を提供していけよって土方に言われている気がする。



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