マリアが処女懐胎したとすると、マリアの夫ヨセフはどうなる?【クリスチャンは聖書をこう読んでいる #4】テキスト版

「でもクリ×聖書」の第4回です。
このラジオは「聖書にはこんなことが書いてあって、それをクリスチャンはこういうふうに読んでるんだよ」ということを、聖書にあまりなじみがない方むけに語っています。

布忠は牧師でも神父様でも学者でもない、「これでもクリスチャンかよ」略して「でもクリ」なので、「こういう読み方をするクリスチャンもいるんだな」くらいの感じでゆるく聞いてください。

今回は、マタイによる福音書1章19節-25節です。
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前回はマリアの処女懐胎の話でしたが、マリアのおなかの赤ちゃんがヨセフと血のつながりがないとすると、ヨセフの立場としてはどうなるんだ、と。
ヨセフにしたら、誰かに花嫁をけがされ、妊娠させられたとしか考えられないじゃないですか。男としてこれ以上ない屈辱というか怒りというか。

しかも、ヨセフの感情だけの問題じゃないんです。
聖書の戒律、神ヤハウェが定めた律法では、男が婚約している女と関係を持った場合は、男女とも、石打ちの刑です。広場に引き出され、市民が囲んで石を投げつけて殺すんです。
現代の感覚では信じられないような刑罰ですが、その点についての考察は今回は割愛します。とにかく、もしヨセフが正しい人間なら、戒律を破ったマリアを石打ちの刑にするために告発しなければならない。

そして聖書は実際『夫のヨセフは正しい人で』と書いています。
ところがヨセフは『マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った』というんです。
「婚約解消して、マリアが婚約していなかったことにすれば、戒律に違反していないよね」ということでしょうか。ヨセフの心情を別にすれば、これで解決かもしれません。いろいろな感情を押し殺してマリアと赤ちゃんが助かることを考えたヨセフは、アッパレというべきかもしれません。
でも、マリアを「さらし者にしたくなかった」という理由で、神の戒律の抜け道を突こうとするヨセフを、聖書はなぜ「正しい人」と呼ぶのでしょうか。

ここでのヨセフの正しさというのは、モーセの正しさではなくアロンの正しさじゃないかと思うんです。
モーセというのは、海を割ったあの人です。彼にはアロンという兄がいました。モーセがイスラエルの政治的リーダー、アロンは大祭司として宗教面のトップ、という兄弟です。
アロンの息子たちも祭司だったのだけど、でたらめな神事をおこなったためにヤハウェに殺されてしまった。そのときモーセは「神にそむいて死んだ者のために悲しんだり喪に服したりしてはならない」と周知したのだけど、大祭司アロンがモーセの周知を破るんですね。
それは、息子が死んだことが悲しかったからではなくて。
こんな出来事のあとで平然といつもどおりにしたとして、神は喜ぶのか、というのがアロンの答えだったんです。それを聞いてモーセも納得したと書かれている。
「神の律法を守るのか破るのか」がモーセの正しさだったけれど、アロンの正しさは「神を喜ばせるのか悲しませるのか」だったんですね。ということを大事にしたんですね。

ヨセフがもし神の律法に従ってマリアを告発したなら、それは正しいです。ただその場合「確かに正しいんだけど、その正しさって何なの?」となるかもしれない。
聖書がヨセフを「正しい人」と呼んでいるのは、モーセのような正しさではないけれど、アロンのような正しさ、「神を喜ばせるか、悲しませてしまわないか」を考えた、ということじゃないかなと。

とにかく、正しい人ヨセフのファインプレーによって、マリアが処刑されることはない。離縁されたマリアは、きっと無事に赤ちゃんを生むことでしょう。めでたしめでたし。

とはならないんですね。

聖霊によってマリアが身ごもったのは、その子がメシアだからです。なのに離縁されて、それでダビデの家系とは関係ないところで生まれたりしたら、預言が間違っていたことになってしまう。

そもそもの話、メシアであるイエスはなぜ処女降誕したのか?する必要があったのか?
偉大な人物あるあるの誕生譚、「不思議な生まれ方をした」というエピソードトークが必要だから?
違います。
メシアは、メシアについて預言されていたとおりに生まれる必要があったからなんです。「メシアはこういう生まれ方をするよ」ということを先に予告しちゃってたので、そのとおりに生まれなきゃいけない、ということなんです。
やがて登場するはずのメシアについて預言されていたことをは、そのとおりになるはず。
たとえば、前々回にイエスの系図のところで触れた、エコンヤについての預言です。
ダビデの家系のヨセフの家に、しかしヨセフの血をひかずにメシアが生まれるということとが、「ダビデの子孫からメシアが生まれる」「エコンヤの子孫は王になることはない」と預言されていたのです。

もう一つ、メシアについてもっと直接的に、「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む」という預言も告げられていました。

預言というのは「神から啓示されたこと」です。
「よげん」という熟語は「予言」と「預言」の二種類ありますが、これは同じ字で形が違うだけ。もともと「豫」という字があって、「予」は「豫」の略字、「預」は「豫」の異体字。だから「予言」も「預言」も「あらかじめ言う」という意味です。
「預言」を「(神から)言葉を預かる」と説明されることもあるけれど、これは日本語でだけ通用する方便ですね。「預」に「あずける」という意味ができたのは、近代日本で「預金」などの熟語ができてかららしいですし。

ただキリスト教やユダヤ教でいう「預言」は、必ずしも「未来のことをあらかじめ言う」とは限らないです。
「未来ではなくその時点」でのヤハウェの神意が伝えられる預言もあるし、布忠も何度かそうした「現在のぼくのための預言」を預言者から語られたことがあります。(それが本当に、預言者が「神からの啓示」を語ったのか、それとも預言者を名乗ってるその人が考えたことなのか、ということはよく吟味しないといけないのだけど。)

ただ、預言が「未来のことをあらかじめ啓示」している場合は、もしそれがはずれたら、全知全能の神ヤハウェが間違ったことを啓示したということになっちゃうじゃないですか。
もしヨセフがマリアを離縁して、それでマリアが「ダビデの家系」とは関係ないところでメシアを生んだら、メシアについての預言をヤハウェが間違えたことになってしまう。

そこで『主の使い』がヨセフの夢に現れて告げます。

「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」

全知全能の神であるヤハウェは、ヨセフがどういう意味で「正しい人」なの知ってたはずで、だからヨセフがマリアを離縁しようとするのも想定内だったはず。
でも天使は神ではないから、もしかしたら、ヨセフがマリアを離縁しようとしたときは天使は大慌てだったかもしれないですw

で、眠りからさめたヨセフは、夢の中で天使が告げたとおりに、マリアを妻として迎え入れました。そして天使が告げたとおり、赤ちゃんが生まれたときにイエスと名付けます。
「イエス」をもっとヘブライ語に近づけて発音すると「イェホシュア」という感じらしいのだけど、この名前は「ヤハウェは救い」という意味です。(ヤハ+ホシェア。ヤハはヤハウェの短縮形。ホシェアの意味は「救い」)

ところでヨセフは、天使から神意を告げられたことで、納得して事態のすべてを受け入れたのでしょうか。
そうかもしれません。天使が「恐れずにマリアを妻として迎えなさい」と言って、ヨセフは「恐れずに」と言われたとおりすべての心配が解消されたのかもしれない。

ただ、そうではないかもしれない、と思ってしまいます。
ヨセフも生身の男だから。「正しい人」という役を与えられた登場人物ではなく、ぼくたちと同じように感情を持った生身の男だから。
夢でお告げを受けてスパッと切り替わったというよりは、自分の中にいろいろな感情が渦巻いたままで、それでも神ヤハウェに従うことを選び取ったんじゃないだろうかと思ってしまう。そしてそのほうが、スパッと切り替わったという読み方よりも、尊いんじゃないかなあと思ってしまうんです。

このラジオはあくまで、一人のキリスト信者が聖書をこう読んでいるというものです。
浅いやつが浅いこと語ってるということを、ご了承ください。ので、感想、疑問質問、ツッコミ、間違いの指摘などコメントいただけたらうれしいです。

では。
あなたと、あなたの大切な人たちに、神様のご加護がありますように。

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